どすこい山根康民日記

道路交通に関する事を中心に紹介しています。

白浜町久木(ひさぎ)地区にある無名墜道(むめいずいどう)紹介動画について

2023-03-01 22:47:39 | 日記
今回、白浜町久木地区にある無名墜道(むめいずいどう)を訪ねた時の様子を
動画撮影しましたので公開させて頂きます。

スマホで撮影しただけですので、
字幕とか解説する説明等は無い無声動画?になっていますが💦💦
動画を通して無名墜道への道のりや周辺の様子が伝われば幸いです(^^♪

私自身、YouTube動画を視聴する事はあっても、
自分で動画を発信する事はあまりありませんが、
動画を公開されている方の映像を見ると、
演出というか編集というか上手に構成されていますね。
スゴイなぁ~と感心しながら見てしまいます(^^ゞ


https://www.youtube.com/watch?v=RPbB08mMBAA
無名墜道前後の紹介


https://www.youtube.com/watch?v=rOG03bOzb0g&feature=youtu.be
無名墜道の先にある岩の切り通しから、水源かん養保安林の看板までの紹介


https://www.youtube.com/watch?v=-MOk4CUP7-8&feature=youtu.be
水源かん養保安林から無名墜道までの紹介


https://www.youtube.com/watch?v=2AeS53BLA4c&feature=youtu.be
無名墜道から土砂崩れ現場までの紹介


https://www.youtube.com/watch?v=GKKBTR__lSA&feature=youtu.be
土砂崩れ現場の紹介


https://www.youtube.com/watch?v=D2_M_Lfijqo
土砂崩れ現場から久木トンネル下の階段までの紹介

旧日置川町を流れる日置川沿いを走る

2023-03-01 20:46:14 | 日記
2/26、今日は原付バイク(久しぶりに兄貴)に乗って旧日置川町(現:白浜町)を走りました。
兄貴とは、現在の相棒の先代つまりお兄さん?という事で兄貴と呼んでいます(^^ゞ

走行ルートは、白浜町から国道311号を走って、上富田町生馬から
県道36号線(上富田すさみ線)を旧日置川町へ走り、
途中から県道37号線(日置川大塔線)を日置川沿いに下ります。

上富田町と旧日置川町(現:白浜町)との境界にある卒塔婆(そとば)トンネル

真っすぐ直線のトンネルです

1975年開通 延長731m

トンネル内には、上富田町と日置川町の境界が示されています



旧日置川町(現:白浜町)に入りました
振り返って卒塔婆トンネルを撮影

トンネルを抜けると白浜町川原谷地区



白浜町大地区で団子になった県道番号標識

兄貴も一緒に写す

日置川に架かる宇津木橋



日置川

宇津木橋

うつきはし

昭和三十七年五月架設

宇津木橋(旧大塔方面を写す)
山に向かって橋が延びている感じが良いです(^^♪

ここ宇津木橋で県道36号線(上富田すさみ線)の重複区間が終わり、
県道37号線(日置川大塔線)の単独区間になって日置地区の国道42号と結んでいます。
この先、小川集落まで県道36号線を走ります。

振り返って標識を見ると

上富田16㎞ 日置19㎞
ここ宇津木(うつぎ)地区の場合、旧日置川町の中心地である日置地区へ行くより、
隣町の上富田町へ行く方が近いというのも何となく不思議な感じです。
現地の人に聞かないと分かりませんが、普段の買い物などは、
日置地区へ行くより上富田町方面へ行かれるのかなぁ?

山間部走行あるあるですが、このような道路工事案内の標識を確認しておかないと、
直前まで来て通行止め(T_T)または時間別通行止めに遭遇する場合もありますので、
気を付けて下さいネ(^^ゞ

白浜町小川(こがわ)地区
おがわ と読んでしまいそうですが…

兄貴も一緒に記念撮影

正面からも

白浜町小川地区を走る県道36号線
道幅も狭く、所々に石が転がっているので、
走行時は注意が必要ですが、路面状態は良い方です。

久木地区に入ると久木橋近くでは、県道白浜久木線の道路工事が行われています。

日中は、ダンプカーが走っていますので、
工事中⛔立ち入り禁止です。

久木トンネルが見えてきました。
今回、久木トンネルを見るために道路を歩きました((+_+))
工事関係者の方が見たら怒られそう(*_*;

まだ走る事は出来ませんが、久木トンネルが開通しています

久木トンネル 2019年1月和歌山県
延長329m 幅6.5m 高4.5m

右側に見える電柱付近から下りる階段があります。
この階段を降りていくと無名墜道へと繋がります。

無名墜道への道のりは、私にとっては、なかなか大変でしたが、
別ページで紹介していますので、ご覧頂けたらと思います。
https://blog.goo.ne.jp/dosukoiya/e/da02f4e019fae6d0afc1bd3b193560ae
⇧明治8年(1875年)竣工、白浜町久木(ひさぎ)にある無名墜道(むめいずいどう)を訪ねる
上記にて紹介しております。


久木地区にある小山肆成(こやましせい)顕彰公園周辺
何となく良い感じです。

小山肆成(こやましせい)顕彰公園

小山肆成(こやましせい)顕彰公園でトイレ休憩
駐車場も広く、トイレもキレイです。
地元の方が管理されているのでしょうか?本当にありがたいです(^^ゞ

ここには、小山肆成(こやましせい)の生家がありました。

小山肆成生家跡・小山肆成翁顕彰碑 Vestige of Shisei Koyama's Birthplace Monumento to honor KOYAMA,Shisei

小山肆成は、文化4年(1807)白浜町久木において旧家である
小山家に生まれ、熊野地方に流行した天然痘の悲惨さを目の当たりにし、
幾多の苦難を乗り越え、寝食を忘れて8年余りものあいだ天然痘の研究を続けました。

師の高階枳園からジェンナーの種痘法を記した
『引痘法』(邸浩川 撰)を借り受け、
校刻しました。それを『引痘新法全書』として題し、
さらに全書の中から数十条を選んで国約(カナ交り文)したものを
『引痘新法全書付録』として併せて刊行しました。

嘉永2年(1849)、血の滲むような努力と
妻や周囲の人びとの献身的な支えが実を結び、
ついにわが国独自の天然痘ワクチンである
国産の痘苗を作り出すという快挙を成し遂げました。

イギリスの医師ジェンナーが牛痘による
種痘法を確立してから53年後のことでした。
みずからが作り出した痘苗の成果を見届け、
文久2年(1862)56歳の生涯を閉じました。

このような小山肆成の生涯に一貫していたのは、
「医は仁術なり」という崇高な使命感でした。

平成24年(2012)小山肆成顕彰会によって「小山肆成翁顕彰碑」が建立され、
ますますの実績の称揚に努めています。

令和3年4月 白浜町教育委員会・小山肆成顕彰会

Shisei Koyama was born in 1807 in what is now Hisagi in the Town of Shirahama.
A witness to the misery caused by the smallpox epidemic in the Kumano region at that
time,he researched smallpox unrelentingly for over 8 years.

From his teacher Kien Takashina he borrowed
a Chinese-written work entitled An Outline of Smallpox lnoculation via Cowpox.
In it was recorded the same smallpox vaccination method used by Edward Jenner of Britain,
a method which safely inoculatd humans from smallpox
using the pus from lesions of non-lethal cowpox.
Koyama revised and made more accessible the difficult Chinese text,
the resulting work entitled A Compendium of
a New Method of Smallpox lnoculation via Cowpox.

Then,using easy to understand Japanese and Kana,
he translated essential excerpts from the Compendium for dissemination to
common folk.This second work,which included further additions by Koyama,
was published as a supplemen to the Compendium.

In 1849,thanks to Shisei Koyama's strenuous effort,
as well as the devotion of his wife and surrounding people,
a vaccine domestic to Japan was finally created.
53years had passed since Jenner's creation of a vaccine from cowpox.

Shisei Koyama had seen through to the end
the creation of a vaccine by the he passed away in 1862
at the age of 56.The sublime sense of mission exemplified by Shisei Koyama's
life is consistent with the saying that "Medicine is humanitarian calling"





井戸があります。つるべ落としですね
井戸に水は無く転落防止のため蓋がされています。

石碑まで石畳の道が整備されています

石碑

小山肆成翁の実績について

天然痘(疱瘡)の根絶を心から願い、
国産の牛痘苗を作り出そうとたいへんな努力を重ねて、
日本ではじめて成功しその普及に尽力した医師小山肆成翁(号 蓬洲)は、
文化四年(1807)白浜町久木の小山家に生まれました。

小山家は中世をとおして熊野水軍として名をはせた地方領主であり、
江戸時代には地士として紀州藩に仕えた名家でもありました。
翁は、京都に遊学して儒学を岡田南涯に、
医学を高階枳園に師事し勉学を修めました。

医師として活躍するかたわら、
当時熊野地方に流行した天然痘の悲惨さをまのあたりにし、
その根絶のための研究を行う決意を固め、
私財をなげうって実験用の牛を買い集めるなど幾多の苦難を乗り越え、
八年余りものあいだ寝食を忘れて天然痘の研究に没頭しました。

また、師の高階枳園からジェンナーの種痘法を記した
『引痘略』(中国の書物)を借り受けて『引痘新法全書』として版行し、
さらにその全書の中から数十条を選んでわかりやすくしたものを
『引痘新法全書附録』として併せて刊行しました。

そして、嘉永二年(1849)、血のにじむような努力と
妻や周囲の人びとの献身的なささえが実を結び、
ついにわが国独自のより強い免疫力をもつ
国産の牛痘苗(天然痘予防ワクチン)を作り出すという
快挙をなし遂げたのであります。

英国の医師ジェンナーが牛痘による種痘法を確立してから
五十三年後のことでありました。

翁の痘苗は、天然痘に苦しむ人びとをなくすために広く用いられ、
熊野地方はもとより日本の多くの人々の命を救ったのであります。
自らが作り出した痘苗の成果を見届け、
文久二年(1862)年五十六歳の生涯を閉じました。
翁の生涯に一貫していたのは、
「医は仁術なり」という崇高な使命感でありました。

このように天然痘の根絶に大きな功績を残した
郷土の偉人である小山肆成翁の遺徳を偲び、
その名を広く永く後世に伝えるため、
ここに小山肆成翁顕彰碑を建立し、
その実績を称揚するものであります。

平成二十四年九月吉日
小山肆成顕彰会


写真は、ここまでですが、この後、日置川沿いに河口の日置地区まで走りました。
今回、初めて小山肆成について英文表記があったので、
文字起こしに挑戦しましたが、未だに英語は苦手ですが💦💦
英語が話せる。英文を書けるという人はスゴイですね!(^^)!

原付旅を始めた頃は、兄貴と一緒に白浜町及び周辺の旅から、
徐々に走行エリアが広がっていきましたが、
これからも私の体調もそうですが、様々な事情が許す限り
原付旅を続けて行けたらと思います( *´艸`)