「ぐるくん」のひとりごと

大好きな海のこと、沖縄のこと。 また今関心を持っている韓国語の学習、韓ドラ・レビューなど気ままな雑記

<401> 「シーサーの日」

2007年04月04日 | 沖縄
 4月3日は「シーサーの日」だそうだw →こちら


 沖縄の焼物(ヤチムン)をテーマとした壺屋焼物博物館なんてのが出来ていた。

 私が住んでいた頃には無かったので、残念ながら未訪問・・・

 壺屋(ツボヤ)の街は好きで良く散策した。

 当時は通り沿いに何件もお店兼工房があって、作品を眺めつつ、運良く作家の方が制作に励まれている姿を覗き見る事もできた。

 陶工作家さんたちの個性が素人目にも判ったのが作品としての「シーサー」たちだった。

 大きさもその表現も様々で、見ているだけでも楽しかった思い出がある。

 売り物として通りにズラッと並べられていたりりっぱな骨壺も印象に残っている。

 沖縄独特の亀甲墓に葬られる骨壺は本土(ヤマト)の骨壺とは全く違っていたw


 この博物館では沖縄の焼物の歴史や「壺屋焼」の技法・制作工程について詳しく紹介しているとの事。

 敷地内の広場には「拝所」があり、焼物の関係者だけなく壺屋の発展、健康祈願などの目的で拝む地域の人々が多く訪れるそうだ。

 たぶん「拝所」を新しく設置したのではなく、元々この地が御嶽(ウタキ)だったのだろう。

 壺屋陶器事業協同組合さんのHPに詳しく紹介されている。



 壺屋は沖縄を代表する窯場で、首里王府が1682年、牧志(マキシ)の地に三つの窯場を統合させたのが始まりだそうだ。

 以来、焼物を産み出してきた。

 壺屋は激戦の地、沖縄にあって比較的戦災被害が他の所より少なかったと言う。

 戦後、人々の生活を早急に再開させようと言う米軍の政策も相まって、生き残った陶工たちの帰還の許可がいち早く行われた。

 日常生活で使う陶器の制作の為だったと言う。

 沖縄戦で那覇市の旧市街地は廃墟となった上、那覇港を含めて米軍に接収された。

 当然、住民も帰還出来ないとあって、そこから少し離れた壺屋周辺に隣接する「平和通り」の一帯が人々の生活流通の中心となり始め、自然発生的に市場が形成されていった。

 このような歴史と立地のため、壺屋は戦後の那覇ひいては沖縄の復興の拠点となった。

 壺屋一角の神里原(カンザトバル)通りは、映画館・劇場・百貨店が建ち並らぶ目抜き通りとなった。

 また桜坂など歓楽街も誕生した。


 その後、中心市街地の移動に加えて、市街地の窯場の宿命で公害問題などが叫ばれ、陶工たちが郊外に移転したり、郊外型大型スーパー進出などによって商業地域も衰退し、壺屋の賑わいは失われていった。


 しかしながら壺屋に残る長い伝統の窯場としてのたたずまいは今なお残っているし、戦後の復興の拠点となった面影も残っている。

 観光バスに乗ったままでは味わえない壺屋の魅力は散策してこそと言える。

 「マーライオン」や「狛犬」などとそのルーツを共にする「シーサー」、戦争と言う悲劇を乗り越え、今でも沖縄の家々の守りを担っている。

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