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かまくらdeたんか 鹿取未放

馬場あき子の外国詠、渡辺松男のそれぞれの一首鑑賞。「かりん」鎌倉支部の記録です。毎日、更新しています。

馬場あき子の外国詠 263 韓国②

2024-06-11 11:02:05 | 短歌の鑑賞
 2024年度版馬場あき子の外国詠 35(2011年1月)
    【白馬江】『南島』(1991年刊)P78
     参加者:K・I、N・I、佐々木実之、崎尾廣子、T・S、曽我亮子、
        藤本満須子、T・H、渡部慧子、鹿取未放
     レポーター:佐々木実之 まとめ:鹿取未放
                  
                                   
日本書紀では白村江(はくすきのえ)。天智二年秋八月、日本出兵してここに大敗したことを太平洋戦争のさなか歴史の時間に教へた教師があつた。その記憶が鮮明に甦つてきた。


263 敗れたる百済のをみな身投げんと出でし切崖(きりぎし)の一歩また二歩

    (レポート)
 前回261番歌(旅にきく哀れは不意のものにして宮女三千身を投げし淵)参照。660年(白村江の戦いの4年前)、新羅・唐の連合軍に敗れた百済の宮女は、白馬江の崖から身を投げた。その数三千。その身を投げた様を落花に例え、身を投げた岩を落花岩と後世呼ぶ。(出典未詳)
 実際に戦ったのは男であるが、男が敗れると必然的に女も敗れることになる。女は戦いにおいて受け身の立場とならざるを得ない。その宮女に唯一主体的な選択として残されているのが「死」であり、その選択を「一歩また二歩」と決断していく切迫感が伝わってくる。261では「宮女三千」、268番歌(敗戦は女らを死に走らせき落花岩(らつくわがん)幾たびか仰ぎて哀れ)では「女ら」となっているが、この歌では「をみな」はひとりであるところにひとりの決断に絞り込んだ効果がある。また、一連の詞書からも分かるように太平洋戦争を根底に意識している。これにより「バンザイクリフ」「ひめゆり部隊」といったつい最近の出来事が想起され、千何百年も昔のこともリアリティを持って読者に迫る。(実之)


      (当日発言)
★「をみな」の語の選択がよい。「をみな」は若い女の意で、古くは美女のことをいっ
 た。この語によって若い一人の女性に焦点が絞られ、いっそうの哀切感が伝わる。2
 61番歌について、身を投げたのは自己の意志だったかどうかと沖縄戦などの関連か
 ら疑問を呈したが、ひとりの「をみな」に絞った今回のレポートでは、たとえ強制さ
 れた死であっても、自分の意思で一歩また二歩と踏み出してゆく描写に説得力があ
 り、哀切きわまりない。(鹿取)

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渡辺松男『寒気氾濫』の一首鑑賞 274

2024-06-10 19:01:00 | 短歌の鑑賞
  2024年度版 2024年版 渡辺松男研究33(15年12月実施)
   【全力蛇行】『寒気氾濫』(1997年)112頁~
    参加者:泉真帆、M・S、曽我亮子、藤本満須子、鹿取未放
    レポーター:泉 真帆 司会と記録:鹿取 未放


274 堂内のうすらあかりに伏し目なる観音菩薩は男とぞいう
      
       (レポート)
【鑑賞】「観音のサンスクリット名は男性名詞である」という。が、観音に種々の変化身があるため、オリエント(イランを含む)母神信仰的要素がこれを通じて仏教に入り込み、〈准胝観音〉〈馬郎観音〉〈多羅尊観音〉などを生み出した」という。(世界大百科事典より)そもそもは男性だったということか。性別がどちらともつかないというのは却って今日的で興味深い。連作「全力蛇行」の最後に据えられたこの一首は、ここに観音菩薩という新たなる男性性が出現し、同志を得、おおいに意気を挙げている作者が表れているのではないだろうか。はるかなる自己の男性性への探求が一層深められる予感がした。(真帆)   


    (当日意見)
★作者は観音菩薩って女ばかりと思っていたのでしょうかねえ。男だったという発見を
 うたっている。よく分かる歌だと思うんですけど。(藤本)
★どういうふうによくわかるんですか?わたし、あんまりよくわからないのですけど。
 観音像ってわりとなよやかな女性的な肢体をしていますよね。それなのに男なんだ
 って、…それは分かりますが、その先です、分からないのは。何をいいたいのか
 な。(鹿取)
★彫り方で男性に彫っているか女性に彫っているか想像がつくじゃないですか。(藤本)
★彫り方によって観音様の性って変わるんですか?するとこの作者の前の像は男性的に
 彫られていたんですか?それだったら、さっき藤本さんが男だったんだという発見と
 おっしゃったけど、発見するまでもない気がしますが。(鹿取)
★伏し目がちな像を女性だと思っていらしたのに男性だったと。「ぞ」で強調してい
 らっしゃいますから。 (曽我)
★では、角度を少し変えて、真帆さんが「はるかなる自己の男性性への探求が一層深め
 られる」と書いていらして卓見だと思うのですが、この一連、抹香鯨の射精や求愛の
 為に声を張り上げて鳴く葦切とか、ふぐりが膨らむとか男性性に拘っていますよね。 
 その締めくくりに観音菩薩は男ぞと言っている訳だから、へええ、男だったのかと驚
 いただけではないはずです。何か含みがあるはずなんです。(鹿取)
★うすらあかりに伏し目だったから女性的にも見えたということでしょうかねえ。
   (藤本)
★いや、さっきから私が聞いているのはその先です。男性性に拘っているこの一連を統
 べているものは何でしょうね。(鹿取)
★渡辺さんの歌集を読んできて、自分という生、生きものがなぜか男に生まれてきたと
 いうことに対して、ずっと考え続けてきたけど、ここで観音様に遇って、ああここに
 も男がいるのかと。(真帆)
★自分の中の男性性の発見、たまたま自分が男なのはどういうことかと探求してきた
 自分の前に、一見女性に見えるけれど男である観音が現れたと。その新鮮さです
 か。(鹿取)
★男性という概念がひろがった。(真帆)
★それは面白いですね。伏し目して女っぽいけど、実は男性なんだという単純な発見で
 はなくて、もっと哲学的な発見。一連の最後に置いた歌で男性という概念の領域を広
 げたわけね。(鹿取)
★話を聞いているとなるほどと思うけど、一人ではとてもそこまで考えられないわ。
   (藤本)
★集まって話し合うって大切ですよね。何かもう死語みたいだけど、いわゆる「アウフ
 ヘーベン」できる。他の人の話につられて自分で思ってもみなかった考えが引き出さ
 れたりする。それがみんなでやる意義ですよね。(鹿取)   
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渡辺松男『寒気氾濫』の一首鑑賞 273

2024-06-09 11:13:50 | 短歌の鑑賞
  2024年度版 2024年版 渡辺松男研究33(15年12月実施)
   【全力蛇行】『寒気氾濫』(1997年)112頁~
    参加者:泉真帆、M・S、曽我亮子、藤本満須子、鹿取未放
    レポーター:泉 真帆 司会と記録:鹿取 未放


273 立ったまま枯れているなんてわりあいにぼんやりとしているんだな木は

        (レポート)
【解釈】(地に根をはり、天に枝をひろげ、朝の光も夜の闇も、黙だし見続けている長老のような樹木だと常々思っていたが、してみると)木というヤツはあんがいぼんやりとしているなんだなあ、という歌か。
【鑑賞】このうたの新味の源泉に、詠う対象物のうちがわに入り、そのものになって抒情してゆける渡辺松男の才能がみてとれる。なんど読んでも滋味深いうただなあと思う。(真帆)


      (当日意見)
★からかっているようでいて木のことを慈しんでいる。(曽我)
★木を枯れていると思ったことはないので、どんなに裸になっても生きていると思って
 いるから、ぼんやりとしているとはどういうことでしょう?恥ずかしげもなく裸に
 なっているということでしょうか?(M・S)
★この歌の「枯れている」は皆さんと解釈が違って、ほんとに枯れている、立ち枯れて
 いる、もう死んじゃっている、そういう木のことをうたっている歌だと思っていま
 す。春になったらまた芽吹いてくる、そういう木じゃないんです。春に再生する木
 に向かって、「わりあいにぼんやりとしているんだな」とは言わないと思います。
 立ったまま枯れている木って、高い山なんかにあるじゃないですか。だから自分が
 死んでいることにも気がつかない、そういう木に向かって感慨を述べている訳で
 す。ぼんやりしたままで自分の死をやりすごしてしまうすごさっていうようなもの
 に、むしろ敬愛のようなものを感じているのでしょう。ひらかなの多い表記で口語
 調のとぼけた言いまわしが、慈しみにみちて優しいと 思います。(鹿取)
★落葉しきって針のようになっている木を私は想像していたんだけど、枯れていてもま
 た再生するから「わりあいにぼんやりとしているんだな」って思っているのだと。鑑
 賞が浅かったですかね。(藤本)
★葉を落としきって枝だけになっている木を、枯れているとはいわないと思いますが。
 私は立ち枯れて死んでいる木が対象と思いますが、作者の意図は知りません。まあ、
 様々な鑑賞があっていいんじゃないですか。私は大好きな歌です。(鹿取)


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渡辺松男『寒気氾濫』の一首鑑賞 272

2024-06-08 12:03:20 | 短歌の鑑賞
  2024年度版 2024年版 渡辺松男研究33(15年12月実施)
   【全力蛇行】『寒気氾濫』(1997年)112頁~
    参加者:泉真帆、M・S、曽我亮子、藤本満須子、鹿取未放
    レポーター:泉 真帆 司会と記録:鹿取 未放


272 われらふぐりが膨らんでゆき綿雲のああふんわりと浮くあきの空

     (レポート)
【解釈】
僕らのふぐりは膨らんでゆきふんわりする、まるで秋空に浮かんでいる綿雲の心地だ。
【もう一つの解釈】作者の心はいま「ふぐり」と同化しているのだろう。綿雲がふんわりふんわり浮く秋空。みているとその綿雲もふぐりのように見えてくる。(真帆)


     (当日意見)
★「われらふぐりが膨らんでゆき」で切れる2句切れだと思います。それから評者が悩
 まれた初句は「われら」=「ふぐり」ではなく、われら「の」ふぐりという所有格
 の「の」が省略された形だと思います。われのふぐりが、と単数ではなく複数なの
 で、少年期の男の子の特性を共通項として考察しているのかな。(鹿取)
★ふぐりから秋の空に繋げるところが詩的で面白いですね。そんな難しく考える歌では
 ないと思います。(曽我)
★なるほどね、そうかもしれないですね。われらのふぐりが膨らんでいく身体感覚と、
 空にはふぐりに似た雲がふわふわと浮いているなあという感慨。いい気分なのでしょ
 うかね。(鹿取)
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渡辺松男『寒気氾濫』の一首鑑賞 271

2024-06-07 08:57:16 | 短歌の鑑賞
  2024年度版 2024年版 渡辺松男研究33(15年12月実施)
    【全力蛇行】『寒気氾濫』(1997年)112頁~
     参加者:泉真帆、M・S、曽我亮子、藤本満須子、鹿取未放
      レポーター:泉 真帆 司会と記録:鹿取 未放


271 声を張り上げるものこそ中心ぞ日輪へ鳴く葦切の口

       (レポート)
【鑑賞】二句の終わりから三句にかけ叫ぶように「‥ものこそ中心ぞ」と詠っているが、この「声を張り上げるもの」とは何か。強く主張するものの喩か、渾身で唱える者の喩か、はたまた葦叢の葦の枯れ枝にとまり鳴いている一羽の葦切そのものか。鳴いている一羽の葦切の命こそが、この葦叢の中心だと思えたのだろう。決死の覚悟に主張している運動家のすがたにも見える。いずれにせよ一心に生きる命への讃歌ではないだろうか。(真帆)


   (当日意見)
★歌の内容が大きいですよね。歌柄が大きい。(曽我)
★「運動家のすがたにも見える」という鑑賞ですが、私にもそのように見えます。日輪
 というのは政府とか会社の上役とか、そういう人の叫びを葦切の口としてとらえてい
 るんじゃないかと。(M・S)
★どういうところから運動家の姿を連想されるんですか。(藤本)
★日輪という絶対者のようなものに向かって一生懸命声を上げている、お前が中心だよ
 と言っているようにも見えて。(真帆)
★そうすると何か世俗的な歌になってしまうでしょう。(藤本)
★これは比喩の歌ですか?(曽我)
★比喩ではないと思います。(鹿取)
★「声を張り上げるものこそ中心ぞ」っていう上句が分かりにくかったのですけれど。
 「声を張り上げる」のは葦切ですよね。葦切が日輪に向かって一生懸命鳴いて声を張
 り上げている、それこそ生きている世界の中心だ、っていうことですかねえ。
    (藤本)
★「葦切の口」って止め方がどうかなあと思って、そこを教えて欲しいです。(真帆)
★この歌は大好きな歌です。韻律が面白いですね。初句から2句へかけて句跨りになっ
 ていて、ちょっと読みづらいですね。これはわざと韻律を壊しているんでしょうか
 ね。言葉に張りがあって強い歌です。比喩ではなく葦切そのものを詠んでいると思い
 ます。生殖の為、生きるために一生懸命声を張り上げている、それも小さな葦切が日
 輪に向かって声を張り上げている。声を張り上げているお前が中心なんだぞって、葦
 切の応援歌みたいになってる。結句の体言止めによって、小さな鳥の口に歌を収斂さ
 せている。真帆さんが最後に書いているように、命の讃歌だと思います。(鹿取)

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