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かまくらdeたんか 鹿取未放

馬場あき子の外国詠、渡辺松男のそれぞれの一首鑑賞。「かりん」鎌倉支部の記録です。毎日、更新しています。

渡辺『』『寒気氾濫』の一首鑑賞 270

2024-06-06 11:06:17 | 短歌の鑑賞
  2024年度版 2024年版 渡辺松男研究33(15年12月実施)
    【全力蛇行】『寒気氾濫』(1997年)112頁~
     参加者:泉真帆、M・S、曽我亮子、藤本満須子、鹿取未放
     レポーター:泉 真帆 司会と記録:鹿取 未放


270 臍に底のあることなんとなくおかし夕光のさすわが臍の底  

      (レポート)
【解釈】夕日のひかりが作者の臍へ射し、臍の底面を晒している。臍に底のあることが今つくづくもおかしく感じられてきたよ。
【鑑賞】前269番歌(大洋にはてなきこともアンニュイで抹香鯨射精せよ)のうたは果てのない海がモチーフだったが、今度は底のある臍だ。臍もこのように短歌になるのかと驚いてしまう。臍に底のあることはそんなにおかしいだろうか。逆なら、と思ってみる。もし臍が底なしだったらそれは怖い。体の中心地なのに、なんの謎もなく、あっけらかんと平和な正体をさらしている臍の底。そう思うと確かに「なんとなくおかし」の気分が伝わる。うらさびしい夕べの光がさしている臍の底の景は、リアルなようで幻想のようで、ふしぎな奥行きと寂しさを帯びている。(真帆)


    (当日意見)
★臍の底って実際にどこのことですか?(藤本)
★臍の穴の底です。(真帆)
★臍の底という言いまわしはないだろうけど、作者がそう言ってるんでしょう。穴では
 なく塞がっているから。(鹿取)
★ネットで調べたら、臍の底ってたくさん出てきましたよ。(真帆)
★母体と繋がるわけだから、どこなんだろうと。(藤本)
★ええ、臍の緒切ったら、あとは何の役にも立たないものよね。そこがこっけいなん
 でしょう。「夕光のさす」だから〈われ〉のお腹出して眺めている図ですよね。そこ
 もかなしくておかしい。(鹿取)
★面白い歌を作る方ですねえ。(曽我)

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渡辺松男『寒気氾濫』の一首鑑賞 269

2024-06-05 14:24:51 | 短歌の鑑賞
  2024年度版 2024年版 渡辺松男研究33(15年12月実施)
    【全力蛇行】『寒気氾濫』(1997年)112頁~
      参加者:泉真帆、M・S、曽我亮子、藤本満須子、鹿取未放
     レポーター:泉 真帆 司会と記録:鹿取 未放


269 大洋にはてなきこともアンニュイで抹香鯨射精せよ 
       
        (レポート)
・「抹香鯨(マッコウクジラ)」はハクジラ亜目マッコウクジラ科の哺乳類。熱帯〜寒帯の外洋に生息するハクジラ(歯鯨)の最大種。成長停止時の平均体長は雌で十一メートル、雄で十六メートであるが、まれにそれぞれ十三〜十八メートルを超える個体もある。(略)繁殖はほぼ一年中行うが、出産は秋に多い。(世界大百科事典一九八八年平凡社刊より)        
 大洋が限りもなく広がっていることを思えばアンニュイな気分になってくる、だからさあマッコウクジラよ大海に射精せよ、という歌か。
【鑑賞】眼前に青々とひろがる大海原も、この地球の球体を泳いでゆけばエンドレスだ。おわりのなさを思うとダルい。やりばのない倦怠感には射精するほかない気分だ。そんな諦めや、やるせなさ、おかしみが一首にはあるように思う。「アンニュイ」の語のたゆたうようなニュアンスから一転、大きな抹香鯨を登場させ、本能の解放を求める。鯨にことよせた巧みなうただと思う。品のあるやわらかな文体がいっそう寂しさを濃くする。(真帆)


        (当日発言)
★抹香鯨というのは香料がいいんですよね。だからアンニュイな気分を吹き飛ばしたく
 て抹香鯨を入れたのかなと思いました。(曽我)
★「いっそう寂しさを濃くする」と鑑賞されていますが、下句の言い方が割と強く感じ
 るので、寂しさとかは私には伝わってこない。大海原に負けないくらいに射精せよと
 抹香鯨に対する強い呼びかけのような気がする。(藤本)
★自分をここでは抹香鯨に投影しているんだろうな、やっぱり寂しいんだろうな、アン
 ニュイなんだろうなと思います。前にも書いたので引いて来なかったけど、松男さん
 の昔の評論に、大きな図体のものが悩んでいるから詩になるので、もしダニが悩んで
 いたら人は笑うだろうとあって、大笑いしました。「射精せよ」は確かに強い呼びか
 けで、発散の一つの方法でしょうけれど、たとえ射精しても寂しさやアンニュイは消
 えないでしょうね。生を繋いでいく行為、生きていくこと自体が結局は淋しい、存在
 そのものが淋しいですから。その現れの一つが大海に果てが無いという形。(鹿取)


     (後日意見)
 渡辺松男の評論について、鹿取の発言はうろ覚えで、図体とか詩とかは本人は言っていないので以下、正確に引用する。「かりん」1997年2月号に載った評論「日常宇宙」から。(鹿取)
鯨のようにスケールの大きいものが、言葉なくその存在に耐えながら泳ぐからその淋しさもいいのであって、百姓の祖父の場合はかっこよくもなんともなかった。淋いなどとは言えないし、言おうものならぶったおされた。もっと小さければどうだろう。そもそも感情移入などしきれない。ダニが耐えていたら人は笑うだろう。
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馬場あき子の外国詠 262 韓国①

2024-06-04 17:49:18 | 短歌の鑑賞
  2014年度版 馬場あき子の外国詠34(2010年12月実施)
     【白馬江】『南島』(1991年刊)74頁~
     参加者:K・I、N・I、佐々木実之、崎尾廣子、曽我亮子、藤本満須子、
          T・H、渡部慧子、鹿取未放
     レポーター:渡部慧子   司会と記録:鹿取未放
                

日本書紀では白村江(はくすきのえ)。天智二年秋八月、日本出兵してここに大敗したことを太平洋戦争のさなか歴史の時間に教へた教師があつた。その記憶が鮮明に甦つてきた。


262 国敗れ死にしをみなの亡骸(なきがら)を生きしをみなはいかに見にけむ

      (レポート)
 たとえば風俗、宗教また個の情念に切実に懐疑的に、一方では家族のための衣食住に、ひたすらな生活者であるをみなとして、そのようにありながら女性の側から時代への暴挙など考えられないまま、戦争等圧倒的な時代勢力にのまれてしまったりする(「国敗れ死にしをみなの亡骸」)。また生きしのいだりする(「生きしをみな」)。「死にしをみなの亡骸」とは、その背景の伝統、文化などふくめての生きざまをたどることをせず、ここでは伝聞であろう状態に即するのみの表現として、「生きしをみなはいかに見にけむ」と、時代の負への告発を同時代の「をみな」に託しているのではないか。あまりにもはるかな歴史的事象、無惨に対して、作者は言葉を失っているのか、ひかえているのか、いかがであろう。(慧子)


      (当日発言)
★レポーターの言わんとすることが、私にはほとんど理解できなかったんだけど。宮女
 三千が身を投げたことに対して、作者自身は261番歌(旅にきく哀れは不意のもの
 にして宮女三千身を投げし淵)で「哀れ」と情を吐露している。次にこの歌では、同
 時代、現場にいて実際亡骸を見た女たちはどう見たのかと問うている。宮女の中には
 生き延びた人もいたかもしれないし、庶民は死なずにすんだのかもしれない。そして
 死なずにすんだ女性たちは死んでしまった宮女たちの亡骸を見て、かわいそう、とか
 自分は助かってよかったとか、そんな単純な思いであったはずはない。
  この歌も、冒頭の詞書から推して沖縄戦の果て身を投げた女性たちのことが背景に
 あって詠んでいる。そこで生き残った女性たちは言葉を絶したもろもろを心のうちに
 抱え込んだに違いない。そして、そういう沖縄に代表される犠牲を、内地にいた人々
 はどう見ていたか。少なくとも作者は重く大きなものを抱え込んだのだ。それがどん
 なに重いものだったかは、韓国旅行詠の載る『南島』と同じ歌集に収められた「南
 島」一連を読むとよく分かる。たとえば高名な一首「石垣島万花艶 (にほ)ひて内
 くらきやまとごころはかすかに狂ふ」などにもよく反映しています。(鹿取)

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馬場あき子の外国詠 261 韓国① 

2024-06-03 10:53:59 | 短歌の鑑賞
 2014年度版 馬場あき子の外国詠34(2010年12月実施)
     【白馬江】『南島』(1991年刊)74頁~
     参加者:K・I、N・I、佐々木実之、崎尾廣子、曽我亮子、藤本満須子、
          T・H、渡部慧子、鹿取未放
     レポーター:渡部慧子   司会と記録:鹿取未放
                

日本書紀では白村江(はくすきのえ)。天智二年秋八月、日本出兵してここに大敗したことを太平洋戦争のさなか歴史の時間に教へた教師があつた。その記憶が鮮明に甦つてきた。

261 旅にきく哀れは不意のものにして宮女三千身を投げし淵

    (レポート)
 敗れた側の百済王宮の女性たちは、追いつめられて、死を選んだと思われる。どのような心の状態だったのだろう。敵軍に辱めを受けないためであろう。その数※三千とは誇張されていようが、当時もチマチョゴリに近い民族衣装をまとっていたのか。そうならば淵へ身を投げて、風をはらんではなびらが散るようではないか。哀れは三千という数と共に落花そのものの遠景が見える。 (慧子)
 
     
    (当日発言)
★13世紀になってはじめて韓国では「三国遺事」という史書が書かれた。しかし、こ
 の書にも「日本書紀」にも宮女三千が身を投げた話は載っていない。(実之)
★冒頭に載せた詞書きからすると、この歌には沖縄戦の折、断崖から身を投げた多くの
 民間人の姿が重ねられているのだろう。そう考えると、百済の宮女たちも、レポータ
 ーの言うように「追いつめられて死を選んだ」かどうかはあやしい。指導層に強要さ
 れたのかもしれない。飛び込んだ断崖を後世のひとが「落花岩」と美化して呼んでい
 るそうだが、落下するとき衣が花びらのように飜ったとして、それを美しいといえる
 だろうか。水死はことさら苦しいもので、私には身を投げたひとりひとり の恐怖が
 思われてならない。実之さんのさっきの発言だと史書には載っていないお話しだそう
 だから後世の作話かもしれない。「不意のものにして」と詠っているから、作者はガ
 イドの説明などによって現地ではじめてこの話を知ったのだろう。その驚きや感慨が
 投げ出したような結句の名詞止めに凝縮されている。(鹿取)
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馬場あき子の外国詠 260 韓国①

2024-06-02 11:02:27 | 短歌の鑑賞
  2014年度版 馬場あき子の外国詠34(2010年12月実施)
     【白馬江】『南島』(1991年刊)74頁~
     参加者:K・I、N・I、佐々木実之、崎尾廣子、曽我亮子、藤本満須子、
          T・H、渡部慧子、鹿取未放
     レポーター:渡部慧子   司会と記録:鹿取未放
                

日本書紀では白村江(はくすきのえ)。天智二年秋八月、日本出兵してここに大敗したことを太平洋戦争のさなか歴史の時間に教へた教師があつた。その記憶が鮮明に甦つてきた。


260 秋の水みなぎるとなく逝くとなく白馬江あかき夕日眠らす

    (レポート)
 メッセージ性の強い赤でありながら、夕日の場合は、没細部的な景となり、充足や安堵へ導かれるだろう。掲出歌は作者と白馬江の距離のためか「みなぎるとなく」「逝くとなく」として静的な大景が示されている。この二つの否定は悠然たるうちに生きていて永遠のような感じを導き出している。また「秋の水」「あかき夕日」の二つのア音のあかるさが働き、「夕日眠らす」という終末ではない大景へ自然に落ち着いている。印象深い動詞を3カ所配しながら、どれも邪魔にならず、大きな息づかいのうちに仕上がっているのは、白馬江の名による歴史性へのふかい感慨のゆえであろう。(慧子)

   (当日発言)
★否定語を2度も使っているのに、こせこせしていなくて、ゆるやかなリズムが白馬江
 の雄大な景を見せてくれる。白馬江という地名の白と夕日の赤の対比は、下手をする
 とわざとらしくていただけないが、ここではさりげない仕立てで成功している。また
 結句の「夕日眠らす」が独特で、普通は「夕日に輝く」とか「夕日に映える」とかの
 客観描写にするところを、白馬江を主語にして「眠らす」とその包容力を讃えてい
 る。とうとうと流れる大河ではなくゆったりとたゆたっているゆえに、白馬江が夕日
 を入れる揺籃のようで、作者の感動もよく伝わってくる。(鹿取)
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