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かまくらdeたんか 鹿取未放

馬場あき子の外国詠、渡辺松男のそれぞれの一首鑑賞。「かりん」鎌倉支部の記録です。毎日、更新しています。

馬場あき子の外国詠 268 韓国②

2024-06-16 14:34:16 | 短歌の鑑賞
 2024年度版馬場あき子の外国詠 35(2011年1月)
    【白馬江】『南島』(1991年刊)P78
     参加者:K・I、N・I、佐々木実之、崎尾廣子、T・S、曽我亮子、
        藤本満須子、T・H、渡部慧子、鹿取未放
     レポーター:佐々木実之 まとめ:鹿取未放
                  
                                   
268 敗戦は女らを死に走らせき落花岩(らつくわがん)幾たびか仰ぎて哀れ

      (レポート)
 263番歌(敗れたる百済のをみな身投げんと出でし切崖(きりぎし)の一歩また二歩)が身を投げる宮女に同化して歌っているのに対し本作は身を投げるシーンを下から想像する歌である。「幾たびか」というのは、目を背けたか、ガイドの方に目をやったかであろうが、何度見上げても現実には見えないにも拘わらず、花のように落ちてゆく宮女の様を幻のように見せつけられる作者の姿がある。「敗戦」という言葉を普通我々は使うであろうか?例えばベルリンが落ちてドイツが敗戦したとか、フォークランド紛争でアルゼンチンが敗戦したとかいうであろうか。使うとすれば、選挙で敗戦、敗戦投手、敗戦責任というレベルであって、国家単位で「敗戦」という言葉を使うのは、終戦という異名を持つ太平洋戦争の敗戦である。作者は敗戦国の女であった。しかし、作者はじめ、日本の後宮というか皇族も死に走ったわけではない。(実之)


      (当日発言)
★下の句が生きるためには、ここの敗戦は百済に限定した方がよい。(藤本)
★確かに太平洋戦争とか沖縄戦とか考えると、投身は「敗戦」後のことではない。けれ
 ども、作者が「宮女」でも「をみな」でもなく「女ら」と言っていることに注目する
 と、やはり、太平洋戦争末期の万歳クリフとか、沖縄戦で追いつめられて喜屋武岬な
 どから飛び降りた土地の女性たちなどがが二重写し になっているのだろう。落ちて
 いく宮女たちの姿が後世美化されて落花に例えられているが、古代 も現代も花に例
 えられるようなものではなく無惨の極みである。現代を重ねるからこそ哀れさはいっ
 そう深く作者に迫り、幾たびも眺めずにはいられなかったのだろう。(鹿取)
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馬場あき子の外国詠 267 韓国②

2024-06-15 20:28:11 | 短歌の鑑賞
 2024年度版馬場あき子の外国詠 35(2011年1月)
    【白馬江】『南島』(1991年刊)P78
     参加者:K・I、N・I、佐々木実之、崎尾廣子、T・S、曽我亮子、
        藤本満須子、T・H、渡部慧子、鹿取未放
     レポーター:佐々木実之 まとめ:鹿取未放
                  
                                   
日本書紀では白村江(はくすきのえ)。天智二年秋八月、日本出兵してここに大敗したことを太平洋戦争のさなか歴史の時間に教へた教師があつた。その記憶が鮮明に甦つてきた。


267 百済出兵の野望に泣きし役(え)の民の裔(すゑ)なるわれが見る白馬江

   (レポート)
 「役」とはこの場合「兵役」ではなく労働としての納税である。書記では当然のごとく百済出兵の増税については触れていない。その触れていない部分に目をあてると当然のごとく我々はみな「役」に服したものの子孫であることに気づく。その野望に泣き働いた民の末裔として白馬江を見る時、単に労働を強いられた恨みをのみ思うのであろうか。日本は朝鮮を35年支配した。ガイドから見ると日帝も天智天皇も加害者であり、我も加害者の末裔である。しかしながら一方では、斉明・天智の「野望」の被害者である。その複雑な立場をこの一首は渾然と詠んでいる。日本が白村江に出兵したのは、帝国主義的な野望ではなく、友好国百済の復興のためであって、たとえば任那を復興するというような今でいう帝国主義的な野望からではない。それにもかかわらず野望と言い切ったので右のような複雑な感情を読者に伝え得るものとなった。
 豆知識:「役」は漢音で「エキ」、呉音で「ヤク」。「(音読みの末尾が)フクツチキ平音なし」といわれるが、入声の仄音である。今のカタカナで書くと「エッ」に近い。これを「え」と読むのは労役の場合だけに残っている。(実之)
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馬場あき子の外国詠 266 韓国②

2024-06-14 21:31:57 | 短歌の鑑賞
 2024年度版馬場あき子の外国詠 35(2011年1月)
    【白馬江】『南島』(1991年刊)P78
     参加者:K・I、N・I、佐々木実之、崎尾廣子、T・S、曽我亮子、
        藤本満須子、T・H、渡部慧子、鹿取未放
     レポーター:佐々木実之 まとめ:鹿取未放
                  
                                   
日本書紀では白村江(はくすきのえ)。天智二年秋八月、日本出兵してここに大敗したことを太平洋戦争のさなか歴史の時間に教へた教師があつた。その記憶が鮮明に甦つてきた。


266 扶蘇山に入らんと買ひし焼き栗の袋手に聞く百済滅亡

   (レポート)
 扶蘇山は百済の王城のあったところ。いざ扶蘇山に登ろうとする麓に、焼き栗の屋台でもあったのだろう。時代的にも焼き栗は「焼き栗むいちゃいました」では無いだろう。道々、あるいは車中で栗でも剥きながら扶蘇山に登ろうと観光気分で思っていたところ、ガイドにここが百済の最後の都であったことを聞き、はっとする瞬間を描いている。
 265番歌(倭船四百焼きし凱歌を語るにを少し騒げり日本の血は)が語り手と我との対比の構図になっているのに対し、本作では、栗でも買っている我が歴史の現実に引き戻される流れとなっている。これはツアーの登山の前のトイレ休憩か何かの時に焼き栗を買ったと読むと前後の流れがしっくりくる。(実之)


  (当日発言)
★栗の袋に、熱さ、ごわごわ感も伝わる。(実之)
★焼き栗と百済滅亡の落差を詠っている。(慧子)
★私も慧子さんの意見に賛成です。この地が百済の最後の都であったことは事前に調べ
 てあって織り込み済みのことで、今更はっとするということもないのではないか。む
 しろ粛然とした歴史をうっかり焼き栗の袋をもったまま聞くことになったとまどいで
 はなかろうか。(鹿取)
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馬場あき子の外国詠 266 韓国②

2024-06-13 15:53:11 | 短歌の鑑賞
 2024年度版馬場あき子の外国詠 35(2011年1月)
    【白馬江】『南島』(1991年刊)P78
     参加者:K・I、N・I、佐々木実之、崎尾廣子、T・S、曽我亮子、
        藤本満須子、T・H、渡部慧子、鹿取未放
     レポーター:佐々木実之 まとめ:鹿取未放
                  
                                   
日本書紀では白村江(はくすきのえ)。天智二年秋八月、日本出兵してここに大敗したことを太平洋戦争のさなか歴史の時間に教へた教師があつた。その記憶が鮮明に甦つてきた。


265 倭船四百焼きし凱歌を語るにを少し騒げり日本の血は

    (レポート)
 日本書記には倭船四百という数字は出てこない。(百七十という数字は出てくるが)。兵三万を四百艘で割ると一艘あたり七十五人になる。遣唐使船が奈良市観光案内所の模型では長さ25m幅7m、百人程度が乗ったというから、まあ妥当な数字であろう。四百もの船を遣わしたのだから、ワンセット4隻の遣唐使船より粗製であったと思われる。遣唐使船のぼろさについては鑑真や阿倍仲麻呂、空海の事故を想起されたい。日本と百済は「不観気象、而相謂之日(くっちゃべることには)。我等争先(こっちがつっこめば)、彼応自退(びびってにげるよ)。」という辻政信なみだから、川下から攻めたのであろう。川下から攻めて、うまくいかず、退却しようとしたら、潮が満ちてきて退却できなかった、とものの本にはあったが、その出典は明記されていなかった。
 韓国の人(たぶんガイド)が日本の船を焼いたと語る様が凱歌のように聞こえて、その誇らしげな物言いが少しかちんと来て、自分が日本人であることを端なくも感じた、というのが大意であるが、「聞く」ではなく「語る」「に」対して自分の感情が動いた、という構成を取ることにより、漫然と聞くのではなく、語り手対我という構図をはっきりさせている。なお、「を」には逆接の接続助詞の働きもあり、語り手と我との距離感を際だたせている。(実之)


     (当日発言)
★「語るにを」の「を」は、逆接だと「相手は誇らしげに語っているけれども、日本人
 である私の血は少しさわぐことだ」となる。確かに距離感というのは出るかもしれな
 い。しかし順接でも「相手は誇ら しげに語っているので、日本人である私の血は少
 しさわぐことだ」となって十分解釈はできる。(鹿取)


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馬場あき子の外国詠 264 韓国②

2024-06-12 14:44:48 | 短歌の鑑賞
 2024年度版馬場あき子の外国詠 35(2011年1月)
    【白馬江】『南島』(1991年刊)P78
     参加者:K・I、N・I、佐々木実之、崎尾廣子、T・S、曽我亮子、
        藤本満須子、T・H、渡部慧子、鹿取未放
     レポーター:佐々木実之 まとめ:鹿取未放
                  
                                   
日本書紀では白村江(はくすきのえ)。天智二年秋八月、日本出兵してここに大敗したことを太平洋戦争のさなか歴史の時間に教へた教師があつた。その記憶が鮮明に甦つてきた。


264 中大兄の三万の軍海を渡り帰り得し数とはにしられず

    (レポート抄)
 661年1月、斉明天皇は百済復興のため出港。「熱田津に船乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな」と額田王が詠んだのはこのころである(1月14日)。

【レポートではここに、『日本書紀』から20行の漢文が引用されているが省略。またこの後、様々な歴史書への考察があるが、それも省略した】

 上に長々と引用したのは「三万」の根拠の確認と、例えば「わずかに何名帰るのみ」という記述が無かったか確認するためである。さすがに『三国史記』、『三国遺事』まで読む気はないがそれは作者も同じであろう。死者数については「赴水溺死者衆(みづにゆきておぼれしぬものおほし)」とのみある。一見這々の体で帰ってきた兵のことを歌っている。それは悲惨なことであっただろう。白村江の生還者数は書記に記されていない以上永久に知られない。それはともに白村江で死んだ兵の数も分からないということである。この一連は詞書の太平洋戦争を重ねると、ガ島に死に、敵潜に撃たれて死んだ、草生し、水漬いた屍を、私は思う。(実之)


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