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かまくらdeたんか 鹿取未放

馬場あき子の外国詠、渡辺松男のそれぞれの一首鑑賞。「かりん」鎌倉支部の記録です。毎日、更新しています。

渡辺松男『寒気氾濫』の一首鑑賞 214

2024-03-06 10:15:49 | 短歌の鑑賞
 2024年版 渡辺松男研究26(15年4月)
   【光る骨格】『寒気氾濫』(1997年)89頁~
   参加者:かまくらうてな、M・K、M・S、鈴木良明、
       曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
  レポーター:鈴木 良明 司会と記録:鹿取 未放

 
214 切株は面(つら)さむざむと冬の日に晒しているよ 動いたら負けだ

      (当日意見)
★〈天命なりと立ち止まりたるものが樹で止まらず歩いているのが俺だ〉松男さんの
 第六歌集『自転車の籠の豚』にこんな歌があります。(鹿取)
★今挙げてくださった対比的な考えの歌がヒントになって分かりました。「動いたら負
 けだ」というのは木に向かって言っているのではなく、自分は本来は動いているもの
 なんだけど、この時は静止している方がいいと思ったのでしょう。動くというのは肉
 体的な活動だけでなく精神の活動もいうので、じっとして考えも止めて、そういうこ
 とを自分に言っているのだなあと。(うてな)
★そうですね、理屈を言えば木は言われなくとも動きようがないのだから、木に向かっ
 てわざわざ動いたら負けだ」なんって言わない。また、ケースバイケースでこの時は
 動かない方がよいと功利的に考えたのでもない。だからこの言葉は〈われ〉に言い聞
 かせている。常にこの人は「動いたら負けだ」と思っているのでしょう。動いている
 人間が偉くて、動けない木が劣っているなんって考えない人だから。むしろ動かない
 木の方が上位にあるようにさえ考えているのかもしれない。先月鑑賞した「存在とい
 うことおもう冬真昼木と釣りあえる位置まで下がる」にそれがよくあらわれていま
 す。また、人間と植物の境目をあまりはっきりと断絶させない感覚を持っている人
 だと思う。(鹿取)
★私の見方からすれば、植物の場合は立ち止まるのが天命だし、動物は動くのが天命。
 だからその対比で俺としての見方を言っている。作者は直感で言っているのでこう
 いった進化の過程の話は出てこないが、私はこういったことの背景を内側から考えて
 いる。動物は植物から進化したけれど、進化した方が偉いとは渡辺さんは言っていな
 い。切株は外に活路を求めるかもしれないけど、いや、「動いたら負けだ」と制止し
 ているように言っている。切株から芽が生えてくる訳だし。(鈴木)
★冬の日に晒している「面」、その「面構え」にどっしりした生の有り様を見て「動い
 たら負けだ」と。地にどっしりと座っているそういう状態を優れた生の有り様だと評
 価している。「動いたら負けだ」というのはそういう結果を評価していることば。
   (鹿取)
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渡辺松男『寒気氾濫』の一首鑑賞 215

2024-03-05 08:30:25 | 短歌の鑑賞
 2024年版 渡辺松男研究26(15年4月)
   【光る骨格】『寒気氾濫』(1997年)89頁~
    参加者:かまくらうてな、M・K、M・S、鈴木良明、
       曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
    レポーター:鈴木 良明 司会と記録:鹿取 未放

 
215 息止めていよいよ冬の木となれば頭上はるかに風花が舞う

    (レポート)
 冬の寒さから身を守るため、冬木は外との交流を断ち個を保つ。呼吸は外と内との開放的な交流だが、その「息を止める」という擬人法が、冬木の決意にも似た差し迫った実感を良く表わしている。下の句は、いよいよ冬到来を思わせるとともに、「風花」の自由な振る舞いが冬木の頑なな姿を一層際立てる。 (鈴木)


     (紙上意見)
 息を止めて、すっかり葉を落としてしまい、冬木となってしまった。そんな木に呼応し、共鳴するかのように雪が舞っている。それは空の高処から聴こえてくる音楽のように木と唱和し合うのだ。(S・I)


    (当日意見)
★冬の木がかたくなだと私も思う。そのかたくなな気持ちを風花が舞うことで和らげて
 いる。(曽我)
★すると「風花が舞う」の解釈は3通りよね、鈴木さんは「冬木の頑なな姿を一層際立
 てる」、S・I さん は「共鳴するかのように木と唱和し合う」、曽我さんは「木の
 かたくなな気持ちを和らげている」。 (鹿取)
★私は冬の木の覚悟を風花が祝っているように思いました。(慧子)
★相反する二者を一首に詠んだという感じ。はるかに舞う風花を見ながら冬の木になろ
 うと決意した。(うてな)
★ますます解釈が分かれましたね。私は厳しい外海から身を守る為に息を止めている木
 を、生の懸命さとは思いますが、頑固とは思いません。風花は冬の到来を告げている
 ので中立のように思いますが、私が読み取れない何か意味が込められているのかも
 知れません。松男さんにしては抒情的な下の句なので、ちょっと戸惑いました。
  (鹿取)

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渡辺松男『寒気氾濫』の一首鑑賞 213

2024-03-04 10:44:25 | 短歌の鑑賞
 2024年版 渡辺松男研究26(15年4月)
   【光る骨格】『寒気氾濫』(1997年)89頁~
    参加者:かまくらうてな、M・K、M・S、鈴木良明、
       曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
    レポーター:鈴木 良明 司会と記録:鹿取 未放

 
213 死のごとき岩を摑める根の張りを見つづけていて摑まれてくる

      (レポート)
普通、生死は生物に由来する有機物の話と思っているから、命のない無機物の岩に対しての「死のごとき」という比喩が意表を突く。岩が生死にかかわるように読めるからである。有機物は無機物の炭素原子から偶然に生まれ、いわば無機物は有機物の生死を内包しているともいえるのだ。そのような背景を思えば、岩を摑める根の張りが半端なものではなく必死のものに思えて、それを見つづけているわれも「摑まれてくる」のである。(鈴木) 
   

          (紙上意見)
 樹齢は千年に近い凄まじい根の張りなのだろうか。その行方をみていると、岩に絡み、強固に巻き付いている。まるで根に意識があり、岩を摑んでいるようだ。じっと見続けていると、自分自身も、なにか得体の知れないものによって摑まれ、息の根を止められるような思いになる。(S・I)


      (当日意見)
★岩は私達が見ても死を思わせる。だけどそれを渾身の力で摑んでいたらかえって摑ま
 れてしまったというような。(曽我)
★曽我さんの意見だと摑まれたのは「木の根」ということになりますが、「見つづけ
 てい」る〈われ〉が摑 まれるのだと思います。何によって摑まれるのでしょう?
 「摑まれてくる」の「くる」が微妙ですけど。(鹿取)
★見ていると自分の心までが摑まれてしまう、という感じかな?(曽我)
★はい、自分の心が摑まれて危うい感じになるのだと思いますが、何によって?
 (鹿取)
★根の張りに自分が摑まれる感じ。(鈴木)
★作者は死に摑まれてくると言いたいのですか?「見続けていて…死のごとき岩に摑
 まれてくる」という文脈になっていますよね。死という形のないものに摑まれるとい
 うイメージなのかなあと思うのですが。(うてな)
★いや、文脈上は「根の張りを見続けていて…摑まれてくる」ですから、根に絡め取ら
 れたことになりますが。ただ、この文脈、捻れているような気もしますが。(鹿取)
★短歌は凝視をすることで何かをつかみ取れと言われるけど、この歌では凝視していて
 逆に自分が危うくなったような感じ。向こうが隙を見て自分を摑んでしまったという
 ような。そんな力の拮抗のようなものを感じました。(慧子)


     (後日意見)
 どっしりして沈黙している岩からは、自然に「死」を連想させられます。その岩に絡まる木の根の凄まじい力を見ていると、〈われ〉もその木の根に絡め取られるような感覚に陥ったということでさようyか。あるいは、S・Iさんの紙上意見の最後のフレーズのように、〈われ〉は得体の知れないものに絡め取られ、木の根と同じように引きずり込まれる感じ。そう考えると、うてなさんの結論ともあまり違わないようです。(鹿取)

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渡辺松男『寒気氾濫』の一首鑑賞 212

2024-03-03 23:30:26 | 短歌の鑑賞
 2024年版 渡辺松男研究26(15年4月)
   【光る骨格】『寒気氾濫』(1997年)89頁~
    参加者:かまくらうてな、M・K、M・S、鈴木良明、
       曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
     レポーター:鈴木 良明 司会と記録:鹿取 未放

 
212 地が霜にひきしまるとき沈黙を地下から幹へ押し上げてくる

     (レポート)
 大地が霜で冷えひきしまってくると、その沈黙を地下から冬木の根本、幹へと押し上げてきて、やがて全体に及び、217の歌(沈黙を守らんとする冬の木のなかにひともと紅梅ひらく)のように「沈黙を守らんとする冬の木」になる。(鈴木)


    (紙上意見)
 大地は霜で覆われ、寒々とした地面の下で、時を得たとばかり、沈黙は始動し、幹に沈黙することの現出を促す。促された木は厳寒に耐えている圧倒的な存在感で屹立している。(S・I)


    (当日意見)
★下句ですが、これは地が霜にひきしまる力と沈黙を地下から幹へ押し上げてくる力と
 拮抗するものを詠っているのかな。(慧子)
★大地が霜で引き締まると、沈黙をもって対抗している地下の根っこがより強じんな対
 抗を試みて、その沈黙の力を幹の方まで押し上げて行き渡らせる、ということでしょ
 うか。(鹿取)
★作者の内面の精神の在り方を詠っている。外から働きかけられたものに対して緊張感
 を感じて、ものを言わない沈黙を保ってるという状態かなと思う。実際の幹というの
 は客観写生からいうとこのようには見えないわけで、こういった主観のイメージの世
 界というのは結局作者の精神状態だと思うしかない。(うてな)
 
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馬場あき子の外国詠 290 トルコ③

2024-03-02 09:41:54 | 短歌の鑑賞
 2024年度版 馬場あき子旅の歌38(11年4月)
     【遊光】『飛種』(1996年刊)P125
      参加者:N・I、曽我亮子、藤本満須子、鹿取未放
      レポーター:N・I 司会とまとめ:鹿取 未放
                     

290 アヤソルクのヨハネ教会の跡に立ち驢馬の胡瓜の花咲くをみる

     (まとめ)
 289番歌「王権と宗教のむごき葛藤の距離をゆくエフェソスよりヨハネ教会まで」で見たように、コンスタンティヌス帝によって313年キリスト教が公認された後、アヤソルクの丘にあるヨハネの墓の上に木製の教会が建てられた。それが聖ヨハネ教会の原型である。6世紀にはユスティニアヌス帝の命により壮大な教会に改築され、6つのドームを持つ本館があったが、今は廃墟となり遺っているのは壁と円柱、床のモザイク画、ヨハネの墓所だけだそうだ。
 茫漠とした廃墟に驢馬の胡瓜が花を付けている。驢馬の胡瓜の実は棘をもつというが、花は人間の胡瓜と同じように黄色いのだろうか、その花の哀れさ。もちろん歴史も宗教も変転したが、そのはかなさを言葉で言わず、花に焦点を当ててもの言わしめている。「夏草や兵どもが夢の跡」(芭蕉)にも通じるが、こちらは圧倒的にスケールが大きい。(鹿取)
 
 
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