かまくらdeたんか 鹿取未放

馬場あき子の外国詠、渡辺松男のそれぞれの一首鑑賞。「かりん」鎌倉支部の記録です。毎日、更新しています。

渡辺松男の一首鑑248248

2021-06-25 18:58:40 | 短歌の鑑賞
 渡辺松男研究まとめ30(2015年8月)
        【陰陽石】『寒気氾濫』(1997年)103頁~
        参加者:石井彩子、M・S、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
         レポーター:石井 彩子 司会と記録:鹿取 未放


248 砂袋に砂満たされてあるときのエロスのような重さ持ち上ぐ 

   (レポート)
 安部公房の『砂の女』を思わせる、「男」にとって「砂」は自由を奪うものであるが、やむを得ず同棲することになった「女」は「砂」に順応している。砂袋一杯の変容自在な砂は、それにまみれて生活をする「女」のとりとめのない肉体、エロスを思わせる、持ち上げる行為は「男」が砂を穴から掻き出す行為でもある。(石井)
 『砂の女』:海辺の砂丘に昆虫採集にやって来た男が、女が一人住む砂穴の家に閉
       じ込められ、様々な手段で脱出を試みる物語。不思議な状況設定を写
       実的に表現しながら、砂の世界からの逃亡と失敗を繰り返していた男
       がやがて砂の生活に順応し、脱出の機会が訪れても逃げない姿に、市
       民社会の日常性や、そこに存在する人間の生命力の本質と真相が象徴
       的に描き出されている。(Wikipedia)


      (当日意見)
★砂袋というのは持ち上げると形がぐにゃっとなったりするので、それで作られた歌だと
 思います。(M・S)
★変容自在な砂袋をイメージしているのです。(石井)
★砂の重さに愛の重さを偽しているのかなと思いました。小説はエロスでしょうが、この
 歌は愛について考えているのかなと思っていました。(曽我)
★エロスの混沌を詠っているのかなと思いました。(慧子)
★私は単純に砂の袋を持ち上げたときの重さとか、その割にはくにゃくにゃと頼りない感じ
 とかからエロスに結びついた歌と解釈しました。持ちあげた方もよろめいたりするので、
 女性を抱きとめた時の感覚のイメージです。(鹿取)


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渡辺松男の一首鑑賞  247

2021-06-24 16:12:27 | 短歌の鑑賞
 渡辺松男研究まとめ30(2015年8月)
        【陰陽石】『寒気氾濫』(1997年)103頁~
         参加者:石井彩子、M・S、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
         レポーター:石井 彩子 司会と記録:鹿取 未放


247 水平線一本あれば慄然と線の向こうに日は落ちてゆく

    (レポート)
かなたには筆で描いたようなまっすぐな水平線が伸びて、その向こうに太陽が沈むさまは、戦慄を覚えるほどである。水平線を一本という数詞を用いて、自然現象の在り方を日常とは違った視点で描写している。(石井)


    (当日意見)
★私はこの上句に驚きました。すごいと思います。(慧子)
★レポートにある通り「水平線一本」って特異な言い方ですし、日常の落日風景を詠
 みたいのではないですよね。向こう側というものに作者はとても興味があって、向こ
 う側の歌をいろんなバリエーションで詠っています。いろいろ「向こう」について考え
 ている人なんだけど、その「向こう」が「補陀落(ふだらく)」だったり冥界だったり
 するのと違う「向こう」なんですね。(鹿取)


     (後日意見)
 「向こう側」の歌のバリエーション。(鹿取)

  真空へそよろそよろと切られたるひかりの髪は落ちてゆくなり
           『寒気氾濫』
  法師蟬づくづくと気が遠くなり いやだわ 天の深みへ落ちる

  伸びるだけわが影伸びてゆきたれば頭が夕の屋上より落つ
         『泡宇宙の蛙』
  崖上の冬木の影がさかしまに崖下の家へ届こうとする

くしゃみをすればまっしぐらに飛びてゆくものあり一休禅師はいま月の裏
            『歩く仏像』
友が空へ落ちてしまいてその深き青を見あげて靴履くわれは

山まるごと削りてなにをなすとすやむかうがはの怖い空のせまりく
          『きなげつの魚』


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渡辺松男の一首鑑賞  246

2021-06-23 16:48:59 | 短歌の鑑賞
 渡辺松男研究まとめ30(2015年8月)
        【陰陽石】『寒気氾濫』(1997年)103頁~
        参加者:石井彩子、M・S、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
         レポーター:石井 彩子 司会と記録:鹿取 未放


246 爽快は靴音にあり階段を降りるとき君と並びて降りる

      (レポート)
 作者と君は無言で階段を降りているのだろうか、いつの間にか一段、一段降りる歩調がそろい、並んで降りる爽快な思いを、靴音という聴覚に象徴させている。「靴音は爽快」ではなく「爽快は靴音」に注目。これは、靴音そのものが爽快ではなく、並んで降りる君に対する心動きが爽快であり、それが靴音によって形象化されているのである。(石井)


     (当日意見)
★よく分かる歌ですね。(慧子)
★気持ちが良いのは二人揃った靴の音にあると思います。音が爽快さを強調しているのだ 
 と思います。二人は並んでるけど黙っているんですね。(曽我)

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渡一首鑑賞一首鑑賞  245

2021-06-22 17:22:55 | 短歌の鑑賞
 渡辺松男研究まとめ30(2015年8月)
        【陰陽石】『寒気氾濫』(1997年)103頁~
        参加者:石井彩子、M・S、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
         レポーター:石井 彩子 司会と記録:鹿取 未放


245 たえまなきみずのながれにみずぐるま未来回転して過去となる

   (レポート)
 マウリッツ・エッシャー(オランダ生、1898年 - 1972年)のだまし絵に『滝(昇る水路)』というのがある、滝が流れ落ち、その水力で水車は回っているのだが、その水は重力の法則を無視して、上の方に流れ、再び滝となり、水車を回す、これが際限なく繰り返されるのである。
この作品は回転する水車という空間の表現を時間の暗喩と捉え、未来と過去が繰り返されることを詠んでいる。カミュの『シジフォスの神話』では、転げ落ちるのは分かりきっているにも拘わらず、大岩を尖った山頂まで運び、転げ落ちた岩をまた山頂に運ぶ無意味な動作を繰り返す人間が描かれているが、日常の全てが同じ出来事の繰り返しという意味では、ニーチェの「永劫回帰」に通じるものがある。(石井)


    (当日意見)
★石井さんのレポート、エッシャーのこの絵を思い出したところがいいですね。エッシャー 
 ってこんな哲学的な解釈ができるのねというか、渡辺さん先取りしているような。確かに
 視覚的にこの歌を解説しているようで面白いですね。(鹿取)
★私は普通の水車を思い浮かべていました。未来のことはそこまで行けば必ず過去になっ
 てしまうのであって、別に無意味な動作の繰り返しということはないと思うのですけど。
(M・S)
★私は「未来回転」というところだけがこの歌分からないんです。(慧子)
★「未来回転」ではなく、「未来」で一旦切れるんじゃないですか?(M・S)
★そう読んでも時間が掴めないですね。(慧子)
★未来も過去もぐるぐる回っているという感じです。視覚的には逆流しているような絵な
 んですね、エッシャーのは。(石井)
★どんな輝かしい未来もいつかは過去になるという、そういうことを歌っているのかなと。
(M・S)
★私は気怠い同じ事の繰り返しを思います。単に回っているのでは面白くないので、歌は
 未来とか過去とかの概念を持ちだして衝撃を出そうとしている。(石井)
★レポートの最後の「永劫回帰」については、その内容をよく理解していないので分かり
 ません。(慧子)
★やっぱり同じ事の繰り返しというのは辛いんです。たとえば仏教の輪廻転生だと何かこ
 う新しい物が付け加えられるんですけど、ニーチェの永劫回帰というのは全部神話に通
 じるものがあって、過去にあったことがもう一度繰り返されるというそういったことが
 永劫回帰なんですけどね。(石井)
★そうですね、今この部屋でこの顔ぶれで渡辺さんの歌を議論していますが、この瞬間と
 いうものが永遠の未来に全く同じかたちで存在する。同じ顔ぶれで同じ議論をして部屋
 の外では蝉がミンミンと今と全く同じに啼いている、それが何回でも循環する。(鹿取)
★時間というものは過去とか未来とか私達は直線的なものだと思っているけれど、永劫回
 帰は円になっている。(石井)
★輪廻(天、人、修羅、畜生、餓鬼、地獄)だったら、悟りという、あの循環の輪を脱出
 する方法があるわけですよね。でも永劫回帰には脱出の方法がなくって、救いようが 
 ないのです。(鹿取)
★だからニヒリズムって言うんです。非常に怖い思想です。(石井)
★でもなんか244歌(ひとひらの鳥冥けれど日のきよら風のきよらに乗りて川越ゆ)と
 246(爽快は靴音にあり階段を降りるとき君と並びて降りる)歌の爽やかな印象の中
 に、この救いようのない暗い歌が挟まれているのでしょうね、と考えると、M・Sさん
 の解釈がいいような気もしてきました。(鹿取)
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渡辺松男の一首鑑賞  244

2021-06-21 18:27:17 | 短歌の鑑賞
 渡辺松男研究まとめ30(2015年8月)
        【陰陽石】『寒気氾濫』(1997年)103頁~
        参加者:石井彩子、M・S、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
         レポーター:石井 彩子 司会と記録:鹿取 未放


244 ひとひらの鳥冥けれど日のきよら風のきよらに乗りて川越ゆ

        (レポート)
 安西冬衛の「春」に「てふてふが一匹 韃靼(だったん)海峡を渡つて行つた」という一行詩がある。この詩の「てふてふ」が実景でないように「ひとひらの鳥」も作者の心象風景であろう。「ひとひら」という平仮名によって、いかにも風のまにまに飛翔し、まるで一片の紙きれのように遠ざかってゆく鳥の視覚的イメージが立ち上がる。もともと冥界にいたこの鳥は、この世とあの世を隔てる川を越えて、濁りのない澄み渡った陽光や風に導かれて、再び冥界に帰ってゆくのであろう。(石井)


        (当日意見)
★もともと冥界にいた鳥というのは、このように規定しなくともいいんじゃないかなあ。
 この「冥い」は光線の暗いだけをイメージするだけでよいと思います。(慧子)
★人間であれ動物であれこの「冥い」を冠して多くの歌人が歌を詠んでいますけれど、渡
 辺さんは短歌界に流通するコードをうまく使って歌を作る人ではないので、この「冥い」
 も独自の感性で掴んだ言葉だろうと思います。川を越えるという辺りから石井さんのよ 
うな冥界という解釈ももちろん引き出せますけど、渡辺さんの現在までの歌を読んでき
 た限りでは、ダンテのようなものにしろ、東洋的なものにしろ「冥界」という概念は彼
 の中に無いような気がします。私は「冥い」はもう少しゆるやかに、やっぱり鳥の持つ
 存在自体のくらさだろうと思います。表面的には短歌界のコードと同じように見えるか
 もしれないけど、考えは地つづきではないように思います。例えば「冥い」に類する語
 を使った歌を紹介してみます。(鹿取)
  佶屈と近づきて父と名乗るもの冥(くら)し声くらき悪尉癋見(あくじょうべしみ)
                        馬場あき子『桜花伝承』(1977年)
  水中のようにまなこは瞑(つむ)りたりひかるまひるのあらわとなれば
                 伊藤一彦『瞑鳥記』(1974年)
  おとうとよ忘れるるなかれ天翔る鳥たちおもき内臓もつを
★渡辺さんは、伊藤一彦についての評論もあって、伊藤に心寄せがあるようなので『瞑鳥
 記』の題にも注目しました。「日のきよら風のきよら」って早春のイメージですけれ 
ど、その清らかな光の中を川を越えて飛んでいく一羽の鳥の姿は可憐で清冽、好き
 な歌です。(鹿取)

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