※今回は、一回のみ最新の研究報告に飛びます。
2025年度版 渡辺松男研究 2の35(24年11月実施)
『泡宇宙の蛙』(1999年刊)P171~ Ⅳ〈蝶いちまい〉
参加者:M・A、(岡東)和子、鹿取未放
事前意見:菅原あつ子、・山田公子
263 秋の風しぼみてゆくはいつまでかわれら黙して都市を見下す
(事前意見)
◆秋の風がしぼんでゆくというのは冬が来るということか?「われ」でなく「われら」とは誰なのか?なぜ都市をみくだすのか?本当のところはわからない…うがったような読み方をするなら、冬(悪い時代)がやって来るだろうことはわかっているのに、我々(人間、日本人)はただ黙って都市(文明)のおごれる様、衰えていく様を見下してているだけなのだ、ということか…「見下す」の冷たさに作者のあきらめの深さを見る気もするが…(菅原)
★〈秋の風がしぼむ〉これに松男氏はどのような心を託されたのでしょうか?時は、バブル期が終わり、多くの自然災害、凶悪な事件の勃発!などなどを... 松男氏はどう感じておられるのか?下句の〈われら黙して都市を見下す〉われらの中に、確かに氏はいる!このような世情の風に無力であることの忸怩たる思いを〈見下す〉に精一杯の意地をみせて!とあってほしいと願う。(山田)
(当日意見)
●レポートのお二人は、「見下す」を「みくだす」と読まれたようですが、「みおろす」でしょう。この一連を見ると確かに秋から冬への季節の出来事がうたわれている。そして、お二人のレポートを読むと、バブル期とか社会批評の方向が見られるので、そういうことを加味して鑑賞が可能かなあと思います。上の句は経過ですよね、そうすると凋落の兆しがありありと見えているバブル景気を暗示しているととることもできます。〈われ〉も含めてわれらはなす術もなく「都市をみおろしている」のかもしれません。「いつまでか」にため息を感じることもできます。些末なことですが、われらは村に住んで都市を(たとえば群馬の高山から)遠望しているのか、都市に住んでいるのかも実生活上は意味があるでしょうね。ただ、私自身は、こういう功利的な解釈ではなく、もう少し詩的に読みたいという思いはありますが。(鹿取)
(後日意見)
バブル崩壊は1990年から1993年と言われている。ちなみに第一歌集『寒気氾濫』は一九九七年刊、第二の当歌集『泡宇宙の蛙』は一九九九年刊である。
(鹿取)
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