2024年度版 渡辺松男研究32(15年10月)
【全力蛇行】『寒気氾濫』(1997年)110頁~
参加者:S・I、泉真帆、M・S、鈴木良明、曽我亮子、N・F、
藤本満須子、渡部慧子、鹿取未放
レポーター:鈴木 良明 司会と記録:鹿取 未放
268 法師蟬づくづくと気が遠くなり いやだわ 天の深みへ落ちる
(レポート)
オスの法師蟬は、夏の終わりから秋にかけて鳴くが、鳴き方に特徴があって、「ツクツクボーシ」や「オオシイツクツク」などと聞える。メスはその愛の告白「~ツクツク」を繰返し聞いていると「づくづくと気が遠くなり」「いやだわ」秋の「天の深みへ落ちる」ような気がしてくるのである。(鈴木)
(当日意見)
★女性になって詠うのが渡辺さんの歌にはたくさんあるけど、それほど深く意味を考え
なくていいと思います。(藤本)
★天へ落ちるというのが渡辺さんらしい。天なら普通は登るなんだけど。落ちるだから
歌の深みを増していると思うけど。一字空きで艶っぽい場面を入れていらっしゃるの
かなと思います。レポーターの雌だという解釈が面白いと思います。(S・I)
★天の深みに落ちるのが艶っぽい感じです。「いやだわ」なんっていうのも。法師蟬とい
うのが「づくづく」を出すための前提として使われています。(M・S)
★なんとなく気持ちがうずくというのが作者が女性になっているから。(藤本)
★私は季節の終わりでもう弱ってきている蟬が鳴きながら気が遠くなって落ちていく。
雄なんだけどこういう女言葉で詠っていると読みました。鈴木さんの解釈だと鳴いて
いる雄は背景において、一首全体の主体は雌蟬で求愛の鳴き声を聞いているってこと
ですよね。
天なのに落ちるというのは渡辺さんの歌にはたくさんあります。裏側にというのも
あります。彼の思考の特徴だと思います。これまでに天に落ちるについては何度か例
歌を引いたりしたので、ここではもう触れません。この歌のもう一つの特徴は女性言
葉ですね。もう4年ほど前ですが、東京歌会の勉強会で渡辺松男の歌のレポーターを
やったのですが、その時に女性性、女言葉の問題に少し触れました。渡辺さんの歌の
女性言葉については何本もの評論が書ける重要な事項だと思うのですが、私の知る範
囲では未だ渡辺松男の女性言葉に絞った評論というのを見たことがないです。(坂井修
一さんや川野里子さんの評論で、女性言葉を部分的に論じていらっしゃるものはあり
ます。)私自身も興味深い視点だと思いながら、まだそれに絞った勉強はしていないで
す。追求してみる価値は充分にあると思いますが。
たとえば、女性言葉の例として第3歌集の『歩く仏像』に「きもちのよいことで
しょうか 死 いやですわ たくさんの蝶が舞うんですって」などがあります。これ
は性愛の中の死という読み方もできますが、今まで見てきたところでは不安感とか恐
怖感、特に死など危機に直面した場面で女性言葉(あるいは幼児言葉)が多く使われ
ているようです。そうすると歌としては危機感は表に出ないで、柔らかでユーモラス
な感じに仕上がる。読む方が気持ち悪いという人もいますが。(鹿取)
★渡辺さんの中にある女性性とか男性性とかあって、場面に応じて使っている。パンを
産みたいという歌があったけど、男の中にもそういう女性性はある。この歌も「いや
だわ」って何かわざとらしい気がした。セミは鳴くのは雄だけだから鳴いている方は
気が遠くなんかなっていられない。聞いている雌の方が気が遠くなっていくととった
方が作者の意図に合っているのじゃないか。(鈴木)
★優れた詩人はみな両性具有ですね。でもこの歌では雌蟬が「いやだわ」と言っていて
も面白くないので、やはり気が遠くなった雄蟬が「いやだわ」と言っているのだと思
います。(鹿取)
★さっきのパンの歌は「夢にわれ妊娠をしてパンなればふっくらとしたパンの子を産
む」です。(真帆)
【全力蛇行】『寒気氾濫』(1997年)110頁~
参加者:S・I、泉真帆、M・S、鈴木良明、曽我亮子、N・F、
藤本満須子、渡部慧子、鹿取未放
レポーター:鈴木 良明 司会と記録:鹿取 未放
268 法師蟬づくづくと気が遠くなり いやだわ 天の深みへ落ちる
(レポート)
オスの法師蟬は、夏の終わりから秋にかけて鳴くが、鳴き方に特徴があって、「ツクツクボーシ」や「オオシイツクツク」などと聞える。メスはその愛の告白「~ツクツク」を繰返し聞いていると「づくづくと気が遠くなり」「いやだわ」秋の「天の深みへ落ちる」ような気がしてくるのである。(鈴木)
(当日意見)
★女性になって詠うのが渡辺さんの歌にはたくさんあるけど、それほど深く意味を考え
なくていいと思います。(藤本)
★天へ落ちるというのが渡辺さんらしい。天なら普通は登るなんだけど。落ちるだから
歌の深みを増していると思うけど。一字空きで艶っぽい場面を入れていらっしゃるの
かなと思います。レポーターの雌だという解釈が面白いと思います。(S・I)
★天の深みに落ちるのが艶っぽい感じです。「いやだわ」なんっていうのも。法師蟬とい
うのが「づくづく」を出すための前提として使われています。(M・S)
★なんとなく気持ちがうずくというのが作者が女性になっているから。(藤本)
★私は季節の終わりでもう弱ってきている蟬が鳴きながら気が遠くなって落ちていく。
雄なんだけどこういう女言葉で詠っていると読みました。鈴木さんの解釈だと鳴いて
いる雄は背景において、一首全体の主体は雌蟬で求愛の鳴き声を聞いているってこと
ですよね。
天なのに落ちるというのは渡辺さんの歌にはたくさんあります。裏側にというのも
あります。彼の思考の特徴だと思います。これまでに天に落ちるについては何度か例
歌を引いたりしたので、ここではもう触れません。この歌のもう一つの特徴は女性言
葉ですね。もう4年ほど前ですが、東京歌会の勉強会で渡辺松男の歌のレポーターを
やったのですが、その時に女性性、女言葉の問題に少し触れました。渡辺さんの歌の
女性言葉については何本もの評論が書ける重要な事項だと思うのですが、私の知る範
囲では未だ渡辺松男の女性言葉に絞った評論というのを見たことがないです。(坂井修
一さんや川野里子さんの評論で、女性言葉を部分的に論じていらっしゃるものはあり
ます。)私自身も興味深い視点だと思いながら、まだそれに絞った勉強はしていないで
す。追求してみる価値は充分にあると思いますが。
たとえば、女性言葉の例として第3歌集の『歩く仏像』に「きもちのよいことで
しょうか 死 いやですわ たくさんの蝶が舞うんですって」などがあります。これ
は性愛の中の死という読み方もできますが、今まで見てきたところでは不安感とか恐
怖感、特に死など危機に直面した場面で女性言葉(あるいは幼児言葉)が多く使われ
ているようです。そうすると歌としては危機感は表に出ないで、柔らかでユーモラス
な感じに仕上がる。読む方が気持ち悪いという人もいますが。(鹿取)
★渡辺さんの中にある女性性とか男性性とかあって、場面に応じて使っている。パンを
産みたいという歌があったけど、男の中にもそういう女性性はある。この歌も「いや
だわ」って何かわざとらしい気がした。セミは鳴くのは雄だけだから鳴いている方は
気が遠くなんかなっていられない。聞いている雌の方が気が遠くなっていくととった
方が作者の意図に合っているのじゃないか。(鈴木)
★優れた詩人はみな両性具有ですね。でもこの歌では雌蟬が「いやだわ」と言っていて
も面白くないので、やはり気が遠くなった雄蟬が「いやだわ」と言っているのだと思
います。(鹿取)
★さっきのパンの歌は「夢にわれ妊娠をしてパンなればふっくらとしたパンの子を産
む」です。(真帆)
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