日々の疑問を語る。離れの館

ヤフーに同名の題名があったが無くなってしまった。はなれ版のつもりだったが。。 ツウィッターは「反哺の孝あり」で参加中。

英語と言語学習と母性社会

2022-07-25 08:00:24 | 日記
 当時、今の教育が全て間違っているという話をしていた彼女が、英語に付いても確かに間違っているかもしれないという思いが、今は私も浮かんでくる思いがある。

第一前提として日本語に付いて、文章を分解してどれ位の意味が取れるのかという判断を示した上で、それぞれ個人の認識を自分で確認し確かめた上で改めて、文章を作り上げる判断を行っていくという作業が決定的に欠けていたのかな。

 彼女の話を聞く前、始めて英語を学習した時に何かが決定的に欠けている感覚だけがあり、その感覚に付いて当時必死に考えていた感覚記憶を思い出した。その事を当時私を、嘲り、嘲笑し更には、着ていた体操服での私の名前を取らされ、そんな女性英語教師に話したことがあった。

そうしたらそんな話は英語に親しめば無くなるという真直ぐ向き合わないと今では解るが衝撃の発言を聞き言われ、混乱と困惑の状態に陥り二重の意味で驚いたことがあった。こんな教師が教職にいる事への驚愕と、当時から個性とは言われていた筈なのに一つしかないという姿勢のその認識とに。

 此処で考えなければ行けなかったのは相手が個性とはどういうモノであるのかと言う認識であったが、そこまでは考えに至らなかった。まあ、当然でもあるか何と言っても小学生を卒業したばかりで、言語学習も初めてなのにその洗礼だものな。

ソレが初めて英語のアルファベットの小文字も知らない者へ学ぶ対応だものな。英語を扱う師と言う存在が英語を学ぶとこんな風に為ってしまうなら酷い存在だと言う認識しか持てなかったものな。


その様な話をされて、決定的に頭の構造が違うんだないう思いと、教科書を丸暗記しろという無茶苦茶な要求をされて、試しに5頁位苦労の末に暗記してみたが、当然その儘文章が出る筈もなく、応用も効かない状態になる当然か。

今は解るが、日本の文化の師と言う概念の根本である、母性社会の根源が破壊され始めていたから、日本で培われ育まれて来た伝統的な師という根本が機能していなかったという事なんだよな。
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