やっぱり、範囲を見ていると、やってしまった人から見れば、複雑でも無いが、怪しい範囲を観ると、家庭環境がより怪しく成ってきた時と符合する。
その時、どんなに考えても、集中出来ず、理解も出来なかったんだよなー。
そんなときにも成長期の身体の時期も、家庭も、学ぶ環境も、それらの解決が、減らすしか無かったんだよなー。
ふぅ~ぅんぁ。
女性にはそういう身体の負担が無いだろうから良いよな~。
でも、定期的なモノは有るんだろうけど、どうなんだろうか。
まあ、この時期特有というのは無いんだろうな。きっと。
ノートを見ると、祖父さんのノートの様な雰囲気が出ているようだから、使い方は間違っていないんだろうけど、進度が遅いなー本当に。
数学も英語も本当の意味で理解出来ていなかったんだな。
故に、歯車か線路の踏切の様に徐々に徐々に、ネジが狂い始めたのか。それから、イメージか。
美術の時間の今までに、観たことの無い想像上のモノを作れという課題が、結局出来なくて1だったが、果たして今までに見たことの無いモノを人が作るとき、そんなことが可能なのだろうか?
私は人が作るモノは何処かで観たモノの組み合わせでしか無いと思うのだが。
その出来上がった観たことの無いものは観たことのあるモノの組み合わせだがら、観たことのあるモノにはならないのか?
結局それはその通りで、受領されず、作りようも無いということで、出来なかった訳だが、菊乃さんだったらどんなモノをつくるんだろうか。或いは考えるのだろうか。
今は確かめるべもないが(微笑)
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いや~しかし,感覚的に必死というのはこういうことか。
久方ぶりの感覚だが,いや,継続してというのは2度目の死を感じた後以来か。いや,「・-・--ー」という感覚か。
感覚と理解,学問学術が後追いを様な,感覚が即の様な。感覚は感じたその瞬間から既に過去のモノへと変化する。
西洋型のものはその理解偏重のような,和は感覚偏重のような気もするが,
江戸時代には和算という様なモノもあったということから,そうでもない様な気もするが,
実際の資料を見ると,ギリシャ文字系の今やっている我々数字系ではなく,もう少し日本語親和性が高い表態を持っていることからもそうでも無いような気もするが,
おそらく,感覚から理解へという事なのではないだろうか。
この事でも英語の前置詞を考えようとすると混乱する。
出来なくは無いが,なんだか河合隼雄や村上が話していたことなのか,離れて行く感覚になる。
実際のところ,そこら辺りは興味は尽きないが,s爺さんもそんな処が面白かったんだろうか。
日本語が面白くて仕方がないと言っていたらしいし。英語が得意だったらしいから尚更感じたのだろうか。