Danchoのお気楽Diary

高校3年間応援団だった「応援団バカ」の日記。スポーツ観戦や将棋等の趣味の他、日常感じる事を、「ゆるゆる」綴ります。

オグリキャップ、逝く。

2010-07-26 07:17:48 | 競馬
武豊「オグリのすごさ伝えたい」=競馬(時事通信) - goo ニュース

上のリンク先の記事は、既にタイムアウトして読めなくなっていますが、既報通り、7月3日に、JRAの顕彰馬となった、オグリキャップ号が、功労馬として繋養されていた優駿スタリオンステーションで、右後肢脛骨骨折のため、安楽死の処分が取られ、亡くなりました。25歳。人間でいえば、80歳前後でしょうか…。

私は、オグリキャップは、「不死身」と思っていました。たとえ亡くなっても「大往生」と言われるだろう…と。

種牡馬時代に、「死の境界を彷徨う」病に冒されましたが、強靭な体力と精神力で見事に克服していたので、恐らくシンザン号の36歳を超えるまでは存命であろうと思っていただけに、ショックを隠しきれません。

私のとって、この馬は、今現在も競馬ファンである「確固たる地位」を築いた、名馬中の名馬でした。

私は、ミスターシービー号やシンボリルドルフ号の3冠達成は、ニュースで知っていましたが、その当時は中学生。まだ競馬を「一スポーツ」としてある意味「傍観」していたので、この2頭がどんなレースをしたのかは、リアルタイムでは見ていません。後になって知った事です。

競馬を本格的に見るようになったのは、メジロラモーヌ号が牝馬3冠を達成した1986年頃からです。
プロフィールにもある通り、応援団の先輩が競馬が好きで予想していたのを、私が指名を受けて一緒に予想してから、競馬の魅力に次第にハマって行った感じです。

そして、大学受験浪人1年目の時に、突如現れたのが、オグリキャップでした。
(以降の馬齢表記は、旧表記(現・3歳→旧・4歳)で記事を綴りますので、ご了承を。)

当時は、地方競馬の岐阜県・笠松競馬場所属の馬でしたが、「地方に凄いのが居る、芦毛で…」という情報を掴み、一体どんな馬なのか…興味を持ったところから、オグリキャップの「凄さ」を知りました。現在はJRAに移籍して大活躍中の安藤 勝己 騎手が笠松競馬場所属の騎手として、『秋風ジュニア』以降、騎乗して連勝していたという情報も耳にしました。中京競馬場での芝のレースでも勝っており、適性が大いにありそうだ…という情報も一緒に。

そして、オグリキャップがJRAに移籍した事を知って、一体「その凄さ」とはどんなものなのか…楽しみでした。

そして、JRA初戦となる『ペガサスS』(現在の『アーリントンC』)で、ラガーブラック号をあっさり敗ったのを目のあたりにし、「これは本物だ!」と。
自信を持って、「凄い名馬になる」と思ったのも、この馬、そしてこの時が初めてでした。

『毎日杯』、『京都4歳特別』と立て続けに勝ち、「自信」が「確信」に変わったのが、このレースです。

オグリキャップ NZT4歳S


そう、『ニュージーランドトロフィー4歳S』(現在の『ニュージーランドトロフィー』)。

当時は、「断念ダービー」(「残念ダービー」という見方もできますが)という有難くない「副題」が付くレース(当時は、クラシック登録のない内国産馬(「追加登録料」を払う制度も当時はなく、オグリキャップがこの制度の確立に寄与したと言われています)だけでなく、外国産馬がクラシックレースに出走することは、内国産馬保護のため叶わない時代)でしたが、一気に派手にしてしまいました。

最後の直線、鞍上の河内 洋 騎手(現・調教師)の手綱は「持ったまま」。敢えて言えば、河内騎手がステッキを持ちかえた仕草で反応して、必死に追っているリンドホシ号以下を、7馬身ちぎって優勝しています。
鞍上が、何にもしないで勝ったのを見たのは、これが最初です。私の中では、このレースがオグリキャップのベストレースと思っています。(実際、血統的にも「マイラー」ですので、6歳の『安田記念』をベストに挙げる方が多いと思いますが、私は、これです。)

ともかく、このレースで「自信」が「確信」に変わった事だけは事実です。それ程迫力満点でした。ある意味、後に登場する、ディープインパクト号の『若駒S』で受けた衝撃以上でした。
この時代から、熱狂的なオグリキャップのファンだった方は、そうはいないはずで、ある意味この時代からファンであることを「誇り」に思った事も事実です。

クラシック登録のないオグリキャップは、秋で対戦するであろう古馬重賞路線へと駒を進め、『高松宮杯』(現在の『高松宮記念』)でランドヒリュウ号を、『毎日王冠』で東京優駿馬であるシリウスシンボリ号をも撃破し、春の古馬重賞路線で「無敵」を誇った同じ芦毛のタマモクロス号と、『第98回 天皇賞(秋)』で相まみえます。

戦前も、「芦毛の2頭の一騎打ち」のムードが漂い、ドキドキしながらテレビで観戦していたことを、昨日の様に覚えています。

しかし、タマモクロスの「壁」は厚く、2着に惜敗し、JRA初の黒星を喫します。

それでもくじけないオグリキャップは、続く『ジャパンカップ』にも出走しますが、ペイザバトラー号,タマモクロスに続く3着と敗れ、ある意味「後がない」状況へと追い込まれます。

そこで、年内最後のグランプリ『有馬記念』で、タマモクロスに負けっぱなしでたまるか!…という瀬戸口 勉 厩舎陣営の執念を胸に、鞍上にトップジョッキーの岡部 幸雄 騎手(現・JRAアドバイザー)を迎えて出走し、見事にその雪辱を果たします。

恐らく、この頃から、競馬ファンがオグリキャップに注目するようになったのではないかと、勝手に思っています。

5歳の春は「全休」して馬体回復に専念し、鞍上に、前年の『有馬記念』をもって引退したタマモクロスの主戦騎手だった南井 克巳 騎手(現・調教師)を迎え、満を持して登場したのが9月の『オールカマー』でした。

この時の、中山競馬場に足を運んだファンからの「歓声」の大きさ…私は、戸惑いました。「今頃凄いと気付いても、遅いよ、みんな」という思いが、私にあったからです。
しかし、この「歓声」の大きさが、後に「オグリキャップグッズ」を販売させ、大ヒットに至った事は事実で、その功績は大きいとは思っています。
それは良いとして、このレースも「完勝」で、ファンの心をがっちりと掴んだ事は事実でしょう。

続く『毎日王冠』での、この年の『天皇賞(春)』と『宝塚記念』を制した、同じ地方競馬出身のイナリワン号との鼻差の接戦…凄かったですね。
そして、私の記憶の中に残るレースの一つとなる、『第100回 天皇賞(秋)』へと、駒を進めます。

1989'天皇賞(秋)


ところで、この当時私は、大学受験浪人2年目で、予備校に通わず、自宅で勉強するいわゆる「宅浪」でした。したがって「学生・生徒」ではなく、このレースが行われた時には20歳を過ぎ、「未成年」でもない、ある意味「贅沢」な身分でした。
ですので、このレースが、私の「馬券デビュー」でもあったのです。
当時は、馬券も単勝式、複勝式、枠番連勝式しか発売されていなかったので、枠番連勝式の3-8の1点で勝負した事を鮮明に覚えています。

結果は、オグリキャップは最後の直線で追い込むも、武 豊 騎手騎乗のスーパークリーク号の2着に敗れました。しかし、私の「デビュー」は幸先良く「白星」スタートを切ったので、このレースの実況も良く覚えています。

もう一つ、ところで…ですが、私は、1~9の1桁の数字では、当時から、「1」「4」「7」を好んでいて、それらを組み合わせた2ケタの数字は好きでした。
オグリキャップがこのレースで「4」番をつけた事は嬉しかったのですが、鮮やかにオグリキャップに勝ったスーパークリークがつけた「14」は、もっと格好良く映りました。
先日、imuimuさんから「Danchoさんの好きな番号って、何だろう?」と質問され、その答えになると思いますが、この時スーパークリークがつけた「14」で初めて馬券を取ったので、その時から「14」を私のラッキーナンバーにしています。
因みに、これはずっと後になって従兄弟から知らされたのですが、Dancho家のラッキーナンバーが、実は「14」なんだそうです。偶然ですが、良くできた話です。
6月5日と、7月1日の記事をご覧になれば、頷けると思います。実は、過去にも書いていますが…。)

話を元に戻しますが、ともかく、『天皇賞(秋)』で惜敗した陣営は、『マイルCS』『ジャパンカップ』の「連闘」というある意味無茶なローテーションを組んで、「必勝態勢」を築きます。

『マイルCS』も、道中行きっぷりが悪かったものの、JRAのマイル戦では絶対的な強さを誇っていたその「プライド」で、バンブーメモリー号を、最後の最後で鼻差で制して見事に勝利します。凄いレースでした。並みの馬なら、「完敗」のレースを、最後の最後で制してしまうのですから…。
杉本 清 氏の「負けられない南井 克巳!、譲れない武 豊!」という実況は、名台詞ですね。

続く『ジャパンカップ』では、当時芝2400mのワールドタイレコードとなる2分22秒2という時計を叩き出しましたが、ニュージーランド馬ホーリックス号の2着に敗れます(昨年負かされたペイザバトラーには先着して、「雪辱」は果たしたのですが…)。

そして迎えた、2度目の『有馬記念』。人気投票堂々の1位で、1番人気での出走。
しかし、結果は、イナリワン号の春秋グランプリ2連覇達成という「ドラマ」の「脇役」という「官位」を与えられ、これまで負けたことがなかったランニングフリー号の後塵をも拝する5着に敗れます。やはり『マイルCS』『ジャパンカップ』の連闘が相当堪えたのでしょう。

年が明けて6歳の春。

この年は、マイル戦での絶対的な強さを鑑みて、『安田記念』から登場。鞍上に、ライバルであったスーパークリークの主戦である武 豊 騎手を迎えて臨み、ヤエノムテキ号に影をも踏ませない、時計もレコードを叩き出す「完璧」なレースで勝ちました。このレースをオグリキャップのベストレースに挙げるファンの方(例えば、くっち~さん)は、その「完璧さ」を評価なさっているのでしょう。それ程の「完勝」でした。

続いて、春のグランプリ『宝塚記念』に駒を進め、鞍上には、この年限りの馬主である近藤 俊典 氏と所縁があり、若手騎手の中で実力が評価されていた、21歳の岡 潤一郎 騎手(その後、落馬事故のため他界)が指名されましたが、結果はオサイチジョージ号の2着に敗れ、陣営が描いていた海外遠征の夢も、白紙となってしまいました。

この時、岡騎手を責める競馬ファンの声も多く聴かれましたが、私は、岡騎手は上手に乗っていたと思います。「競馬の神様」大川 慶次郎 氏が語ったように「2走目の穴(2走ボケ)」にはまってしまっただけの事と思っています。
岡騎手は、私は今でも、武 豊 騎手よりも「上手」と思っています。騎乗フォームも美しかった…。
なぜなら、若くして札幌競馬場で「5回の騎乗機会騎乗で5連勝」という、当時、武 豊 騎手でも達成できなかった記録を打ち立てたのですから…。

ともかく、6歳春は良い思いも、ほろ苦い思いも経験して、秋の『天皇賞(秋)』に駒を進めます。

鞍上には、ベテランの増沢 末夫 騎手(現・調教師)を迎えて臨みましたが、体調の回復が思わしくない中で、「やっと」の出走にこじつけたのが、結果的には裏目に出て6着に惨敗。結局、「盾」には一度も手が届かずに…。
続く『ジャパンカップ』も、道中最後方という信じられない位置取りに終始して、直線でも伸びを欠いての11着に、これまた惨敗します。
やはり、この2走は、馬体が寂しく私には見えました。「いつものオグリではない…」と。増沢騎手には、少し気の毒でした。

そして、劇的な「引退レース」となった『有馬記念』へ…。
鞍上には、『安田記念』で「完勝」に導いた、武 豊 騎手を再び迎えます。
武 豊 騎手も、「強い馬は強いと信じて乗るだけ」と硬い表情で戦前語っていたのが、今でも鮮明に蘇ってきます。

『オグリ限界』等の見出しが乱れ飛び、ファンの大多数が「そのまま引退」を語っていましたが、私は信じていました。あと一つだから、オグリキャップなら、最後は必ず自分で花道を飾る…と。

そして、「ラストラン」が幕を開けます。ファン投票は堂々1位ながら、4番人気という「低評価」の中で…。

オグリキャップ 1990有馬記念


こっちの実況(ラジオたんぱ(現・ラジオNIKKEI)の白川アナ)も、素晴らしいので…。

平成2年(1990)有馬記念 オグリキャップ


私も、泣きました。みんな泣いたと思います、人目憚らずに…。
この馬は、本当に凄い。本当に「雑草魂」の「塊」の様な馬だと…。

別な意味でも「凄い」のは、明石家さんまさんが、フジテレビの大川アナの実況中に、解説の大川 慶次郎 氏が「ライアン!、ライアン!」と叫んでいたことを大々的に取り上げて、大川 慶次郎 氏を、バラエティー番組に出演させる「お膳立て」を与えた事でも、「凄い」な…と。

そういった背景から、後に登場する「日本近代競馬の結晶」ともいうべきディープインパクトとは違う、血統が地味ながらこその「ヒューマニズム」を多分に持った、「完全無欠」ではないところが、逆にファンの心に響いたのだと、今にして思います。

実は、ちょうどこの年、オグリキャップの「後を任される」存在となる、メジロマックイーン号が、内田 浩一 騎手(現・調教助手)騎乗で見事に『菊花賞』を制しましたが、メジロマックイーンがこのレースを使わなかった事も、ドラマ演出の面で幸いしていたように思います。
(このレースは、同世代のメジロライアンに取らせたかったというオーナーサイドの意向で回避した様ですね。)

ともかく、オグリキャップは、自分で自分の花道を見事に飾って、ターフを後にします。

武 豊 騎手が、ゴール板を過ぎて、派手にガッツポーズを見せ、感情を露わにしたのは、私の記憶が正しければ、これが初めてです。鞍上も、それ程興奮するほど、「凄い馬」だったのでしょう。
武 豊 騎手は、その後、『東京優駿』をスペシャルウィーク号で初めて制した時にも、派手にガッツポーズを見せていますが、恐らく下地は、このレースがあったからでしょう。

その武 豊 騎手の優勝騎手インタビュー…一字一句はっきりと覚えています。

騎手インタビュー武豊オグリキャップ


鞍上も「ありがとう」なら、私達ファンも「ありがとう」と思ったに違いありません。

ともかく、あの狭い中山競馬場に、17万8千人弱の観客を詰め込んだのは、オグリキャップの大きな功績です。これは、長く語り継がれなければなりません。

私は、そのオグリキャップを、噂ではあったけれど「笠松の時代」から知っていただけに、この記事は是非とも書きたかった。「凄さ」を伝えるには力不足も感じるし、自信もなかったけれど…。

競馬は確かに「ギャンブル」ではあるけれど、「ヒューマニズムを多分に含んだ、筋書きのないスポーツ」であることを、オグリキャップから学び、「馬券は二の次、中身はレース」という競馬の観戦スタイルを私に築いてくれたのも、オグリキャップでした。それ程、大きな存在です。

オグリキャップが現れたから、「長距離界のオグリ」であるメジロマックイーンも現れたし、ナリタブライアン号も現れたし、マヤノトップガン号も現れたし、テイエムオペラオー号も現れたし、そしてディープインパクトも現れたと思ってもいます。
同じ笠松競馬場からも、ライデンリーダー号や、ラブミーチャン号が現れたのも、ある意味「必然」だったかもしれません。

とにかく、それ程凄い馬でした。

多分、「完全無欠」ではないけれど、これだけのファンの心を掴む馬は、もう、現れないかも知れません。

そう思った私は、3つの競馬場で行われた引退式のうち、東京競馬場で行われた引退式には、足を運んで、最後の雄姿を目に焼き付けました。
恐らく、この頃から、ファンがカメラを手に、レースの写真を撮る様になったと思います。そうさせてしまうところも、凄いです。

しかし、引退式を3つの競馬場(東京、京都、笠松)で行った馬って、その後出ていませんよね。やっぱり、それだけファンは一目を置いているという事だと思います。


今、私が独身で、自由になる御金と時間があるのなら、29日の「お別れの会」にも、足を運ぶと思います。

言い訳になるかもしれないけれど、色々な意味で「責任」のある立場だから、足を運べない状況にある事を、きっとオグリキャップなら理解してくれると、私は信じています。


とにかく、7月3日…オグリキャップは、逝きました。

今頃、「先に待っていた」SS様や、まっく(メジロマックイーン)や、らいす(ライスシャワー号)等と一緒に、あの世で楽しくお酒でも飲んでいることでしょう。
そして、岡騎手にも出会って、「あの時は、ごめん」なんて謝っているのかもしれません。

オグリキャップの功績を、永く胸に刻みながら、新たな名馬の誕生を楽しみに待ちたいと思います。

オグリキャップ…ありがとう。そして、安らかに眠って下さい。合掌。

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2 Comments

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Unknown (imuimu)
2010-07-26 08:51:08
オグリと人生を絡めながら。
あ~、深すぎる(^^;)Danchoさん(汗
返信する
そうさせるオグリは… (Dancho)
2010-07-26 20:55:21
やっぱり「凄い」ということです。

というわけで、imuimuさん、こんばんは。

コメントありがとうございます。

久々の力作になってしまいました(冷汗)。
でも、そうさせてしまう程、凄い存在です。

まぁ、色々な面で、「そういうこと」です(笑)。
楽しんでいただけましたでしょうか?。

しかし、特別な存在です。オグリキャップは。


先ずは、コメントを頂戴した事に対し、心より御礼まで。
返信する

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