押しても駄目なら

風が吹けば、と共に非線型現象の第二例でしょう。

戦後日本の社会運動ーその1 小熊英二 論座2007.11 80頁

2007-10-05 16:39:00 | 気になる記事
副題はー歴史と現在 プレカリアート運動はどう位置づけられるか である。初めに「左翼」の定義が曖昧だそうで、そこらから教えてくれる。小林よしのりさんが作った「薄甘いサヨク」という呼称があるそうな。小熊さんは「塩辛い左翼」と言う呼び方をして昔の左翼に使って、整理してくれます。

話を戻して、小熊さんの解釈だと思いますが、戦後日本の社会運動には、大きく言って1955年と1970年の2回、転換点がありました。今も転換点かも知れません。

いま「サヨク」といえば、戦争責任、男女平等、環境保護、マイノリティーの人権などの問題を重視する人々が想定されるようですが『へーェ、そうなんですか!』、70年以前の「塩辛い左翼」は、こうした問題を重視しませんでした。それは手短に言うとマルクス主義の下部構造が上部構造を決定する、と言う荒っぽい理論に立脚していたからだそうです。

55年の転換点をもたらした原動力については小熊さんは述べていないようです。私の勝手な意見を申せば、第二次大戦後の冷戦構造が顕在化したからだ、ではないかと考えます。最も象徴的な出来事は朝鮮戦争、1950年、でした。日本の役割について米国は態度を鮮明にし始めたのでした。1952年の講和条約による占領体制の終結があり、55年には自民党の結成、統一社会党の結成、共産党の六全協での武闘路線の放棄、などなどがありました。自民党は自主憲法制定を掲げ、社会党、共産党は護憲論を唱えて守勢に立たされました。

70年の転換の前には60年安保闘争があり、安保改定は阻止出来ませんでしたが、岸信介内閣は倒れました。そして憲法改定の動きは弱められました。代わって登場した池田勇人内閣は所得倍増計画を打ち出し、経済成長を提唱しました。この所得倍増計画の評価はこれまできちんとはされていないように私は思っています。この経済発展の前段階に朝鮮戦争による「特需」があったとは思いますが、農村から安い労働力を駆りだして、工業生産の労働力に充当する、と言うやり方はその後のアジアでの市場経済国家発展のビジネスモデルとなっていることは、明らかです。そうした大事な正の側面が評価されずに、公害などの負の側面だけが大きく取り上げられるのは、物事の本質を見失うことになり兼ねないでしょう。
さて、60年代に入ると「改憲より金儲け」に転換した自民党と、「これ以上は議席が伸びない」と自覚した社会党の間で、なれあいの「国対政治」が定着する。『今、福田内閣が法案作成段階で野党とも良く話し合いましょう、と言っているのはこれだな』自社の国会対策委員長が裏交渉で筋書きを事前に決めてしまい、与野党が国会で激しくぶつかり合うようなことがほとんどなくなってしまった。

ーつづく


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