押しても駄目なら

風が吹けば、と共に非線型現象の第二例でしょう。

宮澤喜一氏の死去

2007-06-29 11:37:45 | きのうきょうの話題
宮澤喜一氏が亡くなった。以前に宮澤喜一回顧録を読んで感想を書いた。

新聞、テレビ等の報道で私が良く書けていると思ったのは読売のこの記事である。線形理論のケインズ理論を非線形の範囲まで拡張して日本経済に適用してしまった誤りは末代まで日本国民に巨額の負債を強いた事になる。本人も反省しているとこの読売の記事には書いてある。
米国、EU、中国等の市場経済諸国にとってはまたとない学習材料を提供した事になるだろう。
その他の記事、テレビ報道はやれ平和主義者だの財政通だの中身のない、適当な、ありきたりの評価を陳列しているだけである。

しかし我々は今後どのような国を構築して行くかを考える時に大変な足枷を嵌められた事になる。宮澤喜一一人の責任ではないことは明らかで、国民がそうした選択肢を選んだ訳であるから、最終責任は我々国民にある。問題を数十年、百年に渡って先送りした事になる。彼はそうした意味をあの時説明はしなかった、と記憶する。それが頭脳明晰な人間のすることだろうか。

「判る」とはどういうことかーその3

2007-06-19 07:39:40 | 気になる話題
その1、その2で自然科学の分野を駈足で概観した。いわゆる社会科学、経済学などについても、再現性のある定説は何もない、と言う事を述べた。こうした分野では「判らない」ことを「判る」ようにする仕組みを作り上げることが我々の緊急の課題であろう。
少し飛躍するかも知れないが、こうした判らない世界をいわば出鱈目に動かしている政治経済に翻弄される大多数の庶民は、その気持ちを広い意味での娯楽で発散させている部分が大きい、と思われる。
かつては文学がそうした気持ちを代弁し、共感を得ていただろう。そうでなくなったのはかなり昔で、文学、文学運動などが一定の活躍する場面がなくなってから久しい。今は漫画がその役割を担っていると筆者は実感している。「キャプテン翼」には息子もジタンもトッティも影響を受けたそうな。自衛隊のイラク派遣隊が建物、車体に主人公の漫画を描いて、攻撃を免れたとか・・・。
また飛躍して、例えば、小沢信男の「通り過ぎた人々」を読むと判らない、再現性のない、世界で悪戦苦闘していると私には思えて来る。また、田所泉の「楠ノ木考」は同じ文学運動体をもっと正面から捉えようとして苦渋の年月を描いている。この本には運動体のレビューが書かれていて、これは「判らない」世界を「判る」ようにする努力の一つとして理解出来る。
文学と文学運動、文学運動体については少し私の理解を説明する必要があるだろう。前の段落の解説には少し飛躍があるかもしれない。文学は人間を描くのであって、描かれ方の良し悪しは如何に共感を得られるかで評価されるだろう。運動、運動体は人間が生きている社会、その背景となる政治、経済をどう捉えるか、を見据えて、表現方法、手段などなどについて論考を進める、のだろうと思う。
だからその1で述べたように経済、政治が「判らない」世界にあることを斟酌すれば、政治的な事柄に命を掛けるなんて私にはとても出来ない、と思うのが。
つづく

「判る」とはどういうことかーその2

2007-06-16 23:45:23 | 気になる話題
その1では物理系の世界で「判る」とはどういうことか、を説明した。ここでは生物系の世界の話をしよう。
遺伝子解析が進み、生物系で起こるあらゆる現象は遺伝子に関ると説明されるような風潮である。門外漢としては、そうかな?と半信半疑だが、積極的に否定するほどの知識はない。
生物は地球上で40億年の時間をかけて進化してきた。それを担っているのは遺伝子である。一部の生物に関しては遺伝子解析が完全に終えたと報告されているようだが、解析できた事と個々の生物に発現している結果との関連の理解は殆んどこれから始まることだろう。
例えば、人間が持っている様々の難病の多くは遺伝子異常だろうとの理解が日々のメディアで紹介されている。遺伝性の病は殆んど全てこうした類だろう。第二種糖尿病などもその一つと聞いた。このような遺伝子異常は昔ある時期に起こり、致命的でないので、次世代へ受け継がれているのだろう。
精神的な面ではどうなのだろうか?こうした面の解析は多分単なる病とは違い、難しいと思われるが、いずれ様々な障害が明らかにされるだろう。

「判る」とはどういうことかーその1

2007-06-16 13:35:14 | 気になる話題
暫く書き込みを怠けていた。表題のテーマを考えていて、なかなかまとめることが出来なかった。あるきっかけがあり、実行する事にした。

話の発端は松井教授の小冊子を読み、講演を二回聞いた事が始まりである。二回目の講演は4月末に学士会で聞いた。演題は「我々とは何か、何処から来て、何処へ行くのか」であったと記憶する。初めの講演については既に書いた.

それらを随時引用しながら書くことにする。現生人類がアフリカに発生したのは16万年前と言われているそうな。最初は狩猟生活をしていて、食料を確保するために各地を移動し、世界中に広まった。しかし、農耕生活を始めたのは一万年前で、地球の気候が安定したからだと考えられている。どうして安定したかは今でも不明だが、観測的に確かめられている。農耕生活を始めてから、地球システムに人間圏が生まれた。生物圏から人間圏が離れたのである。ネアンデルタール人、クロマニヨン人は農耕生活をしなかったのである。だから、生物圏に留まり、人間圏を創出しなかった、出来なかった。松井教授は人間圏を現生人類が維持できたのにはもう二つの理由があると提案している。一つは生殖期間を過ぎたおばあさんが現生人類の化石を調べると居た事を上げている。当時困難だったお産を経験者として安全なものにするに大いに頼りに成っただろうし、子育ての強い担い手だったろう。石原知事が勘違いしている、女でなくなった婆が無駄に生きている、というあの話題である。三番目には言語と共同幻想の存在である。共同体の目的を遂行するには言語と仮想がなければならないだろう、ということである。

「判る」と言う事はこうした共同幻想の一つを具体的に提示し、それを他人が実行すれば、その通りになる。と言う事になる。物理、化学、天文学などではこれは当たり前のことである。査読付学会誌に論文を投稿して、あれこれの紆余曲折の後、無事受理され、印刷され、発表される。

こうした論文発表システムは「判らない」ことを「判る」ようにする、過程の一つの大切な構成要素であり、その過程全体はアカデミズムと呼ばれる。このシステムは近代西欧で生まれた。ニュートンが月は落ちないのに、何故林檎は落ちるのか、を考えたと言う良く出来たエピソードがあるが、あの頃が始まりだろう。

自然科学の分野ではこれらのことはごく自然に日常的に国際的に行われている。しかし、経済学では仮説があっても定説はないようだ。例えば東谷 暁著 「エコノミストは信用できるか」文集新書 を読むと現代の著名な経済学者、エコノミストが競馬の予想屋のように評価されている。更に、ノーベル経済学賞といのがあるが、どうして経済学賞が生まれたのかについては疑問があると聞いた事がある。ここではこれにはこれ以上触れない。

従って、経済の上に乗る政治については更に怪しい。政治家の言う事は誰も信用しないが、選挙になるとあれこれの尤もらしい提案が出て来る。昔は政策と言ったが、今はマニフェストというそうな。こうした政策提案を最も大規模に行うのは米国大統領選挙であろう。ブッシュ政権はまだ残任期間があるが、次期大統領選挙戦は既に始まっているとか。各候補者の後ろにはシンクタンクが控えていて、大規模な複雑系シミュレーションを行っているだろう。

こうしたシミュレーションが正しくない事は新任大統領の人気が着任後急速に下落する事からも「判っていない」ことが明らかである。

自然科学以外の、自然科学でも複雑系のシミュレーションの結果の正しさを実験、観測で実証する難しさがあることは忘れてはならない、自称「科学」、社会科学、人文科学等などではどのようにして「判らない」ことを「判る」ようにするかは緊急焦眉の重要課題である。

こうした自称「科学」の世界ではカリスマ性とか信頼度とか曖昧な要素が重んじられ、信ずる世界に近づいて行く。それは宗教の世界に限りなく近い。現に政治と宗教は公明党と創価学会のように密接なつながりがある。カリスマ性などが跋扈する共同体では派閥が生じ、スパイ活動、組織防衛などの非科学的な活動が活発になる。

松井教授は似非科学を排除して専門科学技術について納得する仕組みを新たに構築する必要がある、と提起している。