一週間ほど前に週間金曜日(2005/3/11)を買った。奥村宏の意見が最近のライブドア関連の問題に関して書かれていたからである。これまで法人資本主義・・・の読みほぐしで私が理解して来た事と内容は同じであった。
即ち、会社同士がお互いに株を持ち合うといういびつな形になっていて、そのいびつな株式所有構造を突いて株の買占め、会社のっとり騒動が起った。株式を公開していれば、誰でも株を買ってよい。株主総会の議決は資本多数決で運営されるから、過半数の株を買い占めれば良い。この筋書きが語法的であるということは、これまでの東京地裁の判決で示されている。
この先のシナリオも識者の間ではあれこれあろうが、大筋は知られているらしい。これらをTVなどで詳しく解説しているのは学習的である。
金曜日の記事、ライブドア潰しの歪んだ論理、はライブドアの活動の正当性を正しく評価している優れたものと受け取れる。
しかし、筑紫哲也の自我作古第362回はちょっといただけない。堀江貴文氏の行動に関して倫理の観点から批判している。これは一見尤もらしいが、果たしてそうだろうか。社会が安定していれば、そこには自ずと一定の倫理観が確立し、それに基づいてあれこれの行動を批判し、行動の妥当性、正しさを論じ、倫理観を更に充実し、豊富なものとすることがあるだろう。
ちょっと待って欲しい、今はそんな安定した世の中だろうか、筑紫哲也氏が持ち出している倫理観も含めて、我々は何をどうすべきかを諸々の根底から考え直す時にあるのではないだろうか。
江戸時代はなんのかんの言われても300年続いた。敗戦後の平和はまだ60年しか経っていない。それでも根底から崩れそうだと誰もが感じているのではないだろうか。明治から140年足らずであるが、和魂洋才、追いつき追い越せ、などと刻苦勉励して来た。大失敗、大間違いをしながらも追い越したのだと思う。
今目の前には追い越してきたお手本はない。我々は自分の頭で全て考えなければならない。大失敗、大間違いの尻拭いは自分でしなければならない。
筑紫哲也氏の堀江貴文批判はこうした私の観点からすると的外れと思う。勿論私は堀江貴文氏があらゆる点で100%正しい、と言っているのではない。お手本のない世界で新しい事を始めている人間を素直に応援したい、すべきである、と言っているのである。旧制の倫理観で批判しても新しいものは生まれて来ない。
即ち、会社同士がお互いに株を持ち合うといういびつな形になっていて、そのいびつな株式所有構造を突いて株の買占め、会社のっとり騒動が起った。株式を公開していれば、誰でも株を買ってよい。株主総会の議決は資本多数決で運営されるから、過半数の株を買い占めれば良い。この筋書きが語法的であるということは、これまでの東京地裁の判決で示されている。
この先のシナリオも識者の間ではあれこれあろうが、大筋は知られているらしい。これらをTVなどで詳しく解説しているのは学習的である。
金曜日の記事、ライブドア潰しの歪んだ論理、はライブドアの活動の正当性を正しく評価している優れたものと受け取れる。
しかし、筑紫哲也の自我作古第362回はちょっといただけない。堀江貴文氏の行動に関して倫理の観点から批判している。これは一見尤もらしいが、果たしてそうだろうか。社会が安定していれば、そこには自ずと一定の倫理観が確立し、それに基づいてあれこれの行動を批判し、行動の妥当性、正しさを論じ、倫理観を更に充実し、豊富なものとすることがあるだろう。
ちょっと待って欲しい、今はそんな安定した世の中だろうか、筑紫哲也氏が持ち出している倫理観も含めて、我々は何をどうすべきかを諸々の根底から考え直す時にあるのではないだろうか。
江戸時代はなんのかんの言われても300年続いた。敗戦後の平和はまだ60年しか経っていない。それでも根底から崩れそうだと誰もが感じているのではないだろうか。明治から140年足らずであるが、和魂洋才、追いつき追い越せ、などと刻苦勉励して来た。大失敗、大間違いをしながらも追い越したのだと思う。
今目の前には追い越してきたお手本はない。我々は自分の頭で全て考えなければならない。大失敗、大間違いの尻拭いは自分でしなければならない。
筑紫哲也氏の堀江貴文批判はこうした私の観点からすると的外れと思う。勿論私は堀江貴文氏があらゆる点で100%正しい、と言っているのではない。お手本のない世界で新しい事を始めている人間を素直に応援したい、すべきである、と言っているのである。旧制の倫理観で批判しても新しいものは生まれて来ない。