押しても駄目なら

風が吹けば、と共に非線型現象の第二例でしょう。

奥村宏とライブドアとフジサンケイグループ

2005-03-17 23:14:53 | 奥村宏関連
一週間ほど前に週間金曜日(2005/3/11)を買った。奥村宏の意見が最近のライブドア関連の問題に関して書かれていたからである。これまで法人資本主義・・・の読みほぐしで私が理解して来た事と内容は同じであった。

即ち、会社同士がお互いに株を持ち合うといういびつな形になっていて、そのいびつな株式所有構造を突いて株の買占め、会社のっとり騒動が起った。株式を公開していれば、誰でも株を買ってよい。株主総会の議決は資本多数決で運営されるから、過半数の株を買い占めれば良い。この筋書きが語法的であるということは、これまでの東京地裁の判決で示されている。

この先のシナリオも識者の間ではあれこれあろうが、大筋は知られているらしい。これらをTVなどで詳しく解説しているのは学習的である。

金曜日の記事、ライブドア潰しの歪んだ論理、はライブドアの活動の正当性を正しく評価している優れたものと受け取れる。

しかし、筑紫哲也の自我作古第362回はちょっといただけない。堀江貴文氏の行動に関して倫理の観点から批判している。これは一見尤もらしいが、果たしてそうだろうか。社会が安定していれば、そこには自ずと一定の倫理観が確立し、それに基づいてあれこれの行動を批判し、行動の妥当性、正しさを論じ、倫理観を更に充実し、豊富なものとすることがあるだろう。
ちょっと待って欲しい、今はそんな安定した世の中だろうか、筑紫哲也氏が持ち出している倫理観も含めて、我々は何をどうすべきかを諸々の根底から考え直す時にあるのではないだろうか。

江戸時代はなんのかんの言われても300年続いた。敗戦後の平和はまだ60年しか経っていない。それでも根底から崩れそうだと誰もが感じているのではないだろうか。明治から140年足らずであるが、和魂洋才、追いつき追い越せ、などと刻苦勉励して来た。大失敗、大間違いをしながらも追い越したのだと思う。

今目の前には追い越してきたお手本はない。我々は自分の頭で全て考えなければならない。大失敗、大間違いの尻拭いは自分でしなければならない。

筑紫哲也氏の堀江貴文批判はこうした私の観点からすると的外れと思う。勿論私は堀江貴文氏があらゆる点で100%正しい、と言っているのではない。お手本のない世界で新しい事を始めている人間を素直に応援したい、すべきである、と言っているのである。旧制の倫理観で批判しても新しいものは生まれて来ない。

多様性と単一性 その1

2005-03-06 11:06:06 | 奥村宏関連
法人資本主義の構造」奥村 宏著 岩波現代文庫 その4 で、本題から外れて、多様性と単一性について少し述べた。ここではもう少し踏み込んでみたい。

網野善彦と鶴見俊輔の対談「歴史の話」 朝日選書751 ¥1050- を以前にパラパラと読んで、とても面白かった記憶がある。ちょっと読み返してみよう。

全体は二編に分かれていて、Ⅰ、歴史を多元的に見る Ⅱ、歴史を見直す である。Ⅱの頭に導入部があり、続いて番号付けなしに「意味の重層性」を欠く日本の学術語という小見出しで対話が続く。

そして、113ページ、
鶴見 重層性を消すと、船がバラスト(船体を安定させるために重しとして積まれる水)を捨てるようなもので、論文をつくる船足が速くなるんです。スピードと能率が上がるんです。
網野 いつひっくり返るかわからない。
鶴見 そうそう。一語一義にすると非常に能率が上がるんです。受験に適した言語になるんです。採点するにもとても便利ですよ。揺れも何もあったものじゃないんだ。あれは大学生の大量生産にきわめて便利です。そういう言語ができちゃうんです。船足が速くなるかわりに、状況の転換期にひっくり返っちゃう。皇国史観も戦争が敗戦となって終わった。知識人の世界ではナチス流のものは全部終わって、今度はマルクス主義になって、ソビエトが消滅するとまたひっくり返った。高度経済成長流の用語も、バラストなしだったらまたひっくり返るでしょう。流線型ににしてスピードを上げていくということのおそろしさですね。

長い引用であるが、含蓄があるので勘弁して頂きたい。ここで言っている「バラストなしの流線型」とか「効率一辺倒」は多様性の対極語に近いし、単一性にも近いだろう。それぞれの時期にそれぞれの単一性・効率的言語があった、ということだが、では、皇国史観の時期にマルクス主義を信じていた連中は敗戦後どうなったのだろう。戦争中、弾圧され、牢獄に入れられ、転向したり、信念を貫いたり、様々であっただろうが、では敗戦後はどうであって、ソビエト崩壊後はどうなっているのか。これも大切な学習課題。

意味の重層性を欠いた最初の試みは明治初期の西洋文明の輸入に伴って、翻訳の世界に現れたのだと言う。この世界、業界で功績のあった方々は西周、新渡戸稲造、福沢諭吉、そして多分、森鴎外などであろう。

黒船、開国、和魂洋才などなどで西洋をお手本に効率的に追いつき追い越せとやってきて、とうとう追い越した。その先にはお手本がない。これは当たり前である。どうやってモデルを自分の頭で創造、構築するか、が今の問題だと思う。

ここで述べた課題はとても重要なので、今回はここまでにとどめるが、今後も続けたい。

例によって、月の暦。

2005/3/6 出0313 南中0753 入1245 正午月齢25.2

経済学は普遍性を持っているか

2005-03-03 23:20:02 | 奥村宏関連
各国、経済圏に対応して経済学は発達してきているようだ。古くは関税障壁、大東亜共栄圏、ココム、チンコム、新しくはグローバル経済などという言葉が表しているように各国の経済はその活動領域が限られていた。
さまざまな交通手段、輸送手段、通信メディア手段などの革新的な発達により、国境を越え、経済圏を越えての貿易が盛んになってきた。
しかし、学問としての経済学は各国の経済の分析、予測などに限定されいるようである。奥山宏の本を読みほぐしてゆくつもりであるが、この普遍性の問題を常に頭のどこかに置いておきたい。

物理学、地球物理学、天文学のように法則は地球上だけでなく、他の惑星、他の天体、他の銀河系、宇宙全体に当てはまることが意識的に思考されてはいないらしい。

本日の月の暦を書いておく。

2006/3/2 出2350
月の暦 2005/3/3 出 南中0450 入0944 月齢22.2
    2005/3/4 出0101 南中0547 入1030 月齢23.2

法人資本主義の構造」奥村 宏著 岩波現代文庫 その4

2005-03-03 22:37:14 | 奥村宏関連
奥村宏の法人資本主義の構造の結び四は「株式会社信仰からの脱却」で、ひとつの企業形態だけが圧倒的な力を持つと言う姿は危険だ、云々とある。これはその通りだろう。しかし、その渦中にあると、勝利の方程式に誰もが酔い痴れて、多様性を重んじろ、効率だけを追求して一色で突進すると総崩れになるぞ、などの警告には耳を貸さない。総崩れになるまでは判らない、反省しない。
しかし、ここ十数年のバブル崩壊後を省みると、総崩れになっても、反省は出来ていないように見える。個人レベルでも集団レベルでも反省するのは極めて困難な事なのである。

ここでちょっと話は飛ぶが、人間社会では多様性が減少し、単一性へと向かうものらしい。特に日本では明治以降その傾向が強いように見える。植物の世界でも人間が介在して、種の多様性が失われ、少数の種による生産が見られる。典型的な例は日本における稲作である。「森と田んぼの危機」 佐藤洋一郎 朝日選書637 ¥1260税込 には、コシヒカリとその関連種しか日本では保存されていなくて、コシヒカリの生産、成育に適さないような状況、環境がもし実現すれば、壊滅的な打撃を我々は蒙るであろうと警告している。

私の主観であるが、多様性がわが国では殊に、尊重されないのは明治以降の画一的な教育がその根底にあるのではないかと疑っている。それ以前の寺子屋教育が優れた面を多く持っていたと言う話、説を聞いたような気がする。

話を戻すと、単一性の危険性の行の前には、巨大株式会社を分割せよと述べている。これは判らなくないような気がするが、大きさだけの指数で分割するのが賢いのだろうか、正しいのだろうか。昨今の銀行の動向を見ていると、ただひたすら合併に終始している。大きさだけの指数が大切ではないことは著者も別の個所で指摘している。

ひとつは株の相互持合いである。持ち合い崩れがバブルの本質的な原因である、と言うのは奥村宏の指摘で、私には説得力があると思う。持ち合い、持ち合い崩れは大切な概念、考え方であるので、これは改めて読みほぐす事にしよう。

経済論戦の読み方 田中秀臣 講談社新書 ¥756-

2005-02-13 13:59:02 | 奥村宏関連
経済論戦の読み方 講談社現代新書 著者: 田中秀臣 出版社:講談社 発行年月: 2004年 12月 本体価格:720円 (税込:756円) という本を書店の平積みの山の中から手にとってパラパラ。十冊ほどの本を槍玉に上げていて、奥山宏の「法人資本主義の構造」も取り上げられていて、面白そうだが、買い求める気にまではならなかった。ちょっと感情的な取り扱い方が、批判というレベルには達していない印象。そこで図書館で予約。全て貸し出し中だった。借りる事が出来たら、この欄で取り上げたい。

その隣に中根千枝のたて社会の人間関係が並べてあった。そうだ、この本こそ社畜に象徴される社会構造、会社内人間関係を組織的に取り上げた本だった。二十年くらい前に読んだ記憶がある。奥村宏の分析と関連させて読み直してみよう。確かアジアの社会構造と対比させて議論を進めていたと記憶するが、忘却の彼方か。出版は1967年、書き始めたのは60年代か。



法人資本主義の構造」奥村 宏著 岩波現代文庫 その3

2005-02-11 08:46:34 | 奥村宏関連
結び 2.株式会社の犯罪
この字句は今日的である。毎日の新聞紙面を賑わしている。「四面」の最下段には謝罪文が必ず掲載されている。では早速引用から始める。

引用
 チッソの水俣病をはじめ戦後日本の公害事件の多くは株式会社による犯罪であり、これは「私害」であって「公害」ではない。ミドリ十字などの薬害もそうだし、三菱自動車などの欠陥車、あるいは東京電力や関西電力などの原発事故も、それはすべて株式会社の犯罪である。
 われわれ人間=個人が他人に危害を加えたり、人を殺したりすれば、当然その人は刑務所に入れられる。死刑になればもちろんだが、刑務所に入れられたら、その間はもう犯罪を繰り返すことはできない。ところが株式会社であるチッソはいぜんとして事業を続けているし、ミドリ十字は合併して三菱ウエルファーマという名前で存続している。三菱自動車も東京電力も、関西電力も同様である。
 株式会社という法人を死刑にすることはできないし、刑務所に入れることもできない。といって現在の法律ではこのような株式会社を解散させることはできない。町の食堂で食中毒事件を起せば、食品衛生法によってその食堂は一定期間、営業停止になるが、三菱自動車は欠陥車を製造して人を殺したにもかかわらず、いぜんとして自動車を製造し、販売し続けている。チッソや三菱ウエルファーマも同じである。化アブ四季会社がもし株主のものであるとするならば、チッソや三菱自動車の株主が殺人罪で訴えられるということになるが、そのようなことは考えられもしない。株主はなんの責任も追及されていない。ただ、株価が下がった分だけ損しただけである。
 日本の刑法は、犯罪を犯すのは意思のある人間で、法人には犯罪能力はないという考え方に立っている。チッソの場合は元社長や元工場長が、また三菱自動車の場合も元社長やもと副社長などが業務上過失致死罪で訴えられている。もし元社長や副社長が公害や欠陥車の事実を知らなかったとするなら、罪にはならない。事実、三菱自動車の河添克彦元社長や宇佐美美隆元副社長などはそのように裁判所で主張している。公害や薬害、欠陥車などはいずれも株式会社がその事業活動の中で行った犯罪である。それは法人としての企業犯罪であるが、それは罰せられない。せいぜいのところ道路運送車両法違反で軽い罰金を科せられる程度である。

コメント
 ここの文章はちょっと判り難い。「法人としての企業犯罪で、その企業の責任者はそのことでは罰せられない」という意味でしょうか。「法人としての企業犯罪で、法人は罰せられない」ではないようだ。

引用続く
 株式会社が大きな社会的影響を与え、それが人びとの生命を脅かしているにもかかわらず、法人であるため株式会社は罪を問われない、そのような株式会社が社会的に存在することを許されてよいのか。おそらく19世紀なかばのイギリスであったなら、そのような議論が議会でたたかわされたに違いない。

コメント
 度々この話は引用されるが、本書p154 第二編 株式会社の構造 第一章 会社が会社の株式を所有する意味 1 株式会社の原理 に詳しく書かれているので、そこで説明したい。

引用さらに続く
 ところがその株式会社が他方では巨額の政治献金をすることで政治を動かしている。アメリカでは20世紀のはじめ、企業の政治献金は違法だという判決を裁判所が下した。そのためにPAC(政治活動委員会)とか、ソフト・マネーなどというさまざまな便法があみだされているが、日本では1970年の八幡製鉄政治献金事件の判決で政治献金が公認されている。そのため、企業は堂々と巨額の政治献金をし、カネで政治を動かすということがビジネスのようになっている。
 こうしてわれわれ人間=自然人以外の法人が政治を動かしているだけでなく、法人=株式会社が社会的責任を果たすと称して学術研究などに寄付をしたり、慈善活動をしている。一方では犯罪能力がないとされている株式会社が、他方では政治活動をしたり、慈善活動をしたりしている。
 こうして現代の株式会社は19世紀なかばに近代株式会社制度が確立したころには考えられもしなかったようなものになっている。それはあたかもわれわれ個人と同じような権利を持ち、そして自然人を圧倒するような力を持ち、さらにわれわれ個人をカネと力によって支配している。
 このような株式会社のあゆみを他国に先駆けて突き進んでいるのが法人資本主義の日本である。それはもはや株式会社とはいえないような不可解な存在、ホッブスの言うリヴァイアサンか、ビヒモスのような怪物になっているのである。


コメント
 浅学菲才を露呈。リヴァイアサン、ビヒモスについては、ネット検索されたし。取り敢えずは、
http://jupitorj.at.infoseek.co.jp/p02.html
を見られたし。

以上でこの項終り。

法人資本主義の構造」奥村 宏著 岩波現代文庫 その2

2005-02-10 07:46:19 | 奥村宏関連
その2は 結びの 3.もはや株式会社ではない を取り上げる積りだったが、読み直すと、1.無責任株式会社 から始めた方が良いと考え直したので、そのようにする。

引用
結び
1.無責任株式会社
 1990年代になってバブル経済が崩壊したあと、まず問題になたのが住宅金融専門会社(住専)の経営破綻であった。地価の暴落によって日本住宅金融をはじめとする住専各社は6兆4000億円の不良債権を抱えて経営が行き詰まったが、この住専各社に対してその設立母体であった銀行(母体行)が3兆5000億円の債権を放棄し、その他の銀行も1兆7000億円の債権を放棄した。そして残りのうち5300億円を農協系金融機関が贈与し、6850億円を公的資金で負担するということで住専問題を処理した。
 農協系金融機関の贈与といい、公的資金の負担といい、いずれも住専各社に対する債権を放棄する方法として行われたことに変りない。借りたカネは返さなければならないーこれは人間社会の基本的ルールだが、そのルールに反することを政府の主導のもとに大規模に行ったのである。かつて日本では鎌倉時代から室町時代、戦国時代にかけて「徳政令」がしかれ、それによって「借金棒引き」が行われたことがあるが、20世紀末のにほんで「平成の徳政令」が大規模に行われたのである。
 住専各社のあと、さらに飛島建設、青木建設、フジタ、佐藤工業、ハザマ、長谷工コーポレーションなどのゼネコン各社から藤和不動産、日貿信、殖産住宅相互、西洋環境開発、兼松、トーメンなどに対して銀行は数百億円から数千億円規模の債権放棄をした。そひてダイエーなどのように巨額の債権放棄が何回も行われるというケースもあった。
 銀行がこのように巨額の債権放棄をすれば、当然のことながら銀行自体の経営が破綻する。そこで行われたのが銀行に対する公的資金の投入である。1998年、大手銀行18行、地方銀行3行に対して1兆8000億円の公的資金が投入され、さらに99年には1行、地方銀行3行に対して7兆4582億円の公的資金が投入された。これとは別に経営が破綻した北海道拓殖銀行、日本長期信用銀行、日本債権銀行、そして実質上経営破綻したりそな銀行などに対しても公的資金が投入され、日本長期信用銀行、日本債券信用銀行は一時国有化され、りそな銀行も事実上国有化された。
コメント
 凄い!思い出した。ここに書いてある言葉、単語は今や古くなっている。と言うか、日常の新聞紙上には出て来ない。しかし、かつては連日のように紙面を賑わしていた熟語である。しかし、当時はバラバラにこれらの単語が並べられ、それらの関連、論理的な説明は皆無だった。時を経て、こうして条理をつくして説明されると、隔世の感がある。ゼネコン各社が身の程わきまえず大金を行使して、借金を作り、破綻し、そのカネを貸した銀行がその借金を棒引きし、銀行がその借金から生じた不良債権を政府が公的資金を差し出して、借金の肩代わりをしているのが、現状なのである。そのツケが累積して600兆円とか。
引用続く
 中世の「徳政令」では、借金は棒引きされ、借りた側はそれで救われたが、貸した側はそれによって損失を蒙った。ところが「平成の徳政令」では貸した側、すなわち銀行には公的資金が投入されて、それにおって救済された。それはすなわち公的資金という名前の国民の負担で銀行の損失をカバーしたということである。日本は自由主義、あるいは市場経済の国であるというけれども、実はそれは国家資本主義であったということになる。
解説
 うーん、恐ろしい。銀行が潰れると預金がなくなるから、銀行を助けるために、つまり自分の預金を保障するために、公的資金の導入を止むを得ない、是とする、と思い込んだが、結局はこういうカラクリだったのか。
引用さらに続く、耐えられたし
 本書では何回も述べたように、株式会社の最大の特徴は全株主が有限責任者であるというころにある。言い換えるとそれは、もし会社が倒産したら最後に責任を持つものがいないということである。そこで株主が払い込んだ資本金を担保と考えてカネを貸せばよいではないか、そうすれば倒産しても、資本金に見合った資産を売却することで債権を回収できる。そのような前提で、株式会社の有限責任が認められるようになったのである。ということは銀行が相手の株式会社の資本金(あるいは自己資本)を無視して過大な融資をするならば、それは株式会社の原理に反することで、貸した側に責任があるということになる。
コメント
 そうか!バブルの原因は銀行がこうした資本金以上の資金をあれこれの株式会社に貸し付けて、不安定な状況を造り出していたのか!だからマッチ一本で火がついて。取り返しのつかない大事が始まったのか。

引用さらにさらに続く
 ところが、このような株式会社の原理に反することを大規模に行ったのが日本の銀行であった。そひてカネを貸した相手の会社が行き詰ったために、それに対する銀行の債権を放棄し、その銀行に対しては公的資金、つまり国民の税金で損失をカバーしてやる。住専各社の株主は株券がタダの紙切れになったし、またゼネコンなどの株主は株価の暴落で損したが、それ以上の責任は問われない。そればかりか、りそな銀行の場合などは、株主の責任さえ追及しないで、公的資金を投入した。経営破綻した銀行は減資によって株主が損失を負担するというのが株式会社の原則だが、それさえしないで、公的資金で負担したのである。
 これは株式会社の原則が踏みにじられ、株式会社が最終的には誰も責任を取るものがいない無責任会社になっており、その付けを国家が負担したということである。このような会社、そして銀行はもはや株式会社とはいえない。そのような無責任な会社は社会的に存在を許すべきではないという、19世紀なかばのイギリス議会で行われた議論がそのまま現代の日本にも通用する。ところが不思議なことに政府の財界も、そして学者たちも、このような無責任な株式会社について全く問題にしない。何10兆円もの国民のカネを使いながら、問題の本質は放置されたままである。
コメント
 恐ろしい!頭にくる!!銀行は預金には利子は払わない、てら銭はボッタくる、酷いとおもっていたが、この行(くだり)を読むととんでもない事をでかしていることが判る。中世の徳政令の方がずっとましだ。
 イギリス議会の話は本書154ページにあるので折を見て解説したい。

頭にきたので、本日はこれで終り。

法人資本主義の構造」奥村 宏著 岩波現代文庫 その1

2005-02-09 22:50:27 | 奥村宏関連
ちょっと読み進み、とても感心した。勘所から、解きほぐす。従って、順序はデタラメ。目次を見ると、序論、三篇、結び、となっている。三篇は第一篇株式会社の法人化、第二編株式所有の構造、第三篇法人資本主義の矛盾である。
結びは
1.無責任株式会社 2.株式会社の犯罪 3.もはや株式会社ではない 4.株式会社信仰からの脱却 となっている。
これも後ろから始めようか。
4.株式会社信仰からの脱却
引用
 法人資本主義(コーポレート・キャピタリズム)は1955年ごろから日本に確立したシステムであるが、それが日本の高度成長をもたらすと同時に、バブルを発生させ、やがて20世紀末になってその矛盾を露呈した。
解説
 1955年ごろから、の話は第一篇第四章の表題が1955-64年にかけての流動化となっていて、ここらに詳しい解析・説明がある。後ろから読んでいるので、こうした事になる。
引用つづく
 この法人資本主義を支えているのは巨大株式会社であるが、世界的に株式会社は危機に直面している。そのなかで日本が株式会社の矛盾を最も早く、最も先鋭に発言させているというのが、この最新版での私の主張である。
 では株式会社の危機に対して、われわれはどうすべきか。
<中略>
 これに対して、どうするのか。それは現場の人がそれぞれ考えを出していく以外にないが、しかしその方向性について語ることはできる。これまでの株式会社の歴史、そhしてそれがいま直面している問題について考えるところから、向かうべき方向はどちらかということを示すことはできる。
 なによりも巨大株式会社の矛盾は、それが大きくなりすぎたということにある。そのために巨大株式会社は経済を動かしているばかりか、政治や社会、文化、教育にまで支配力を行使している。そして人びとを「社会人」ではなく「会社人」にしてしまっているが、その内部組織は肥大化して、”大企業病”におかされている。そうであるとするなら、まず必要なことはこの巨大株式会社をできるだけ小さな組織に分割し、そして上からこれを支配することをやめるべきである。これが私の唱えている「大企業解体論」である。
<中略>
 このような人びとのさまざまな試みのなかから新しい企業が生まれてくるだろうが、そこでだいじなことは、一つの企業形態だけが圧倒的な力を持つという姿は危険だということである、巨大株式会社だけが経済を支配するというような状態は人類に不幸をもたらす。さまざまな形の企業が存在することが人びとの自由な働き方、生き方を保障する。それ以外に人類に希望はない。
 このように人間のさまざまな生き方、働き方に適した企業をそれぞれが作り出していく。これがこれからの方向だが、そのために必要なことは人びとの企業に対する考え方を変えることである。なによりも巨大株式会社を絶対的なものと考える株式会社信仰から脱却する事である。
解説
 これが著者の言いたい事なのですね。それにしても人間が作り出すものは単一化指向があるのだな。これは面白い。著者は別の言葉で言うと多様性が大事だと言いたいのですね。

 次は、3.もはや株式会社ではない です。今日はこれでお仕舞い。

「判断力」奥村 宏著 岩波新書 ¥700(税別)

2005-02-04 11:33:37 | 奥村宏関連
カバーのうらに短い紹介があるので引用する。「長い間自分で判断する必要がなかった日本は、いま内政・外政、経済など、あらゆる局面で独自の判断を迫られている。しかし、外国に判断を任せる政治家、責任感欠如で判断しない経営者、外国理論をまくしたてる経済学者が相変わらずはびこる。なぜ判断を誤るかを検証し、判断力を養うために何が必要かを具体的に考える」とある。著者の著作などからの引用があり、この部分は説得力がある。
しかし、判断力を養う具体的方法はちょっと古い。考えながら、新聞(資料)を読み、分類して切抜きを整理する、これは著者がそうしてきたから、勧めるのだろう。
これは間違っていない。しかし、後発者がこれをすると時間が掛かって、永遠に追いつけない。また、専門家でなければ、こうする必要はない。
インターネット検索は著者も使っていて、その便利さ、有効性を知り、理解している。多分、最高齢の理解者であり、ユーザーだろう。
だが、ネット検索では知識を得るだけで、考える力が育たない、は著者の独断と偏見である。私はBlogサイトはトラックバック、コメント、リンクなどなどを巧く使えば、かなり有効な議論、論議、対話が出来るのではないかと期待している。このサイトを立ち上げた目的の一つもそこにある。有態に申せば、最大の目的は備忘録である。あるいは刺激の継続である。
ふと思い出した。野口悠紀雄はwebsiteの有効性を初期から主張した一人でした。

これは結果を見なければ、あるいは結果で示さなければならない、ので時間を掛けてやってみよう。

補足 ちょっと面白かった個所を二三上げよう。
1.政府審議会・諮問委員会などの委員になって、どのようにして御用学者に陥るか!と言う話。
これは怖いなァ。教育関係では中教審と言うのがありますね。この委員の学者関係がこのように  骨抜きにされた上で、文科省に都合のよい意見を述べているとしたら、恐ろしい。教育は数十年  後に結果が出ますね。中国の反日教育と対抗する日本の偏見的教育がぶつかり合うなんて、不毛  かな。
2.満鉄調査部にどうして優秀な人材が集められたか?と言う話

法人資本主義の形態-1

2005-01-29 06:45:32 | 奥村宏関連
NHKの海老沢体制は、内部告発をきっかけとして、本人の辞職で一旦納まるかと見えた。しかし、橋本新体制が、旧幹部三名を顧問に委嘱するという、トンデモないことが起こり、膿の深さを見せ始めている。この一連の茶番劇を見ていて、奇妙な、表面的な類似性に気づいた。

奥村 宏の法人資本主義の構造の簡単な紹介をした折の文章を再度引用する。

中略
「・・・いわんや会社のために命を捧げるようなことは人間にはできない。会社本位主義はそれを徹底させれば必ずそれに反逆する人、そっぽを向く人がでてくる。
 会社人間からの離脱はまず転職と言う形であらわれ、そして若者が契約社員や、あるいはフリーターなどという形で会社にしばられるのを嫌うようになる。そして不況のために、終身雇用をタテマエにしていた会社が希望退職や出向などという形で事実上の首切りをする。これに対して労働組合は有効な対策がとれない。そこで従業員の組合離れが起こり、労働組合の組織率が低下する。企業別組合は形の上では残っているが、空洞化していく。
 そういうなかでは従業員による内部告発がつぎつぎと出てくる。会社の不正行為を外部に告発するなどということは会社本位主義のもとでは考えられなかったことだが、それが続発することになり、社会もそれを歓迎するようになった。
 バブル崩壊後、銀行の不正融資、証券スキャンダル、総会屋スキャンダル、欠陥車かくし、原子力発電所の事故かくし、牛肉偽装事件などつぎつぎと企業不祥事が起ったが、そのかなりのものは従業員や関係者による内部告発で表面化したものであった。」

株式会社が陥る崩壊の初期現象との奇妙な類似性に気づいたのである。内部告発に端を発して、会社の不正行為を外部に告発する。しかし、会社側はその本質が理解できずにその場のごまかしを積み重ねる。

NHKは株式会社ではない。しかし、組織形態としては、株式会社が陥る崩壊過程を同じように追尾しているように見える。私がこのサイトで基調テーマとしている非線型現象論に引き戻して考えると、それは自己形成過程のように見える。私の直感であるが、奥村宏が株式会社に見出した法人資本主義という概念は意外にに普遍的で、別の組織にも同じような現象が起っているのかも知れない。

更に想像を逞しくすると、政党組織、国家組織にもこうした概念が当てはまるのではないか、が私の妄想である。政党組織で言えば、社会主義運動、共産主義運動等などには内部告発から、内部抗争、派閥抗争などなど幾らでも見られる。しかし、組織の崩壊まではなかなか進まない場合が多い。
国家について考えると、明治以来の日本帝国は形態として法人資本主義だったのではないか、と思いついた。これは奥村宏の本をもっと読み続けなければいけないし、なぜ日本があのような無謀な戦争に突き進み、国内で何百万人、アジアでも何百万人、こちらのほうが多い、の軍人非軍人を殺すようなことをしたかを学習しなければならない。

次には、米国も中国も似たような法人資本主義の悪弊に陥る可能性があることも指摘しておきたい。詳しくは今後の学習の課題である。

しかし、一部のアラブ、古くからのアラブ、石油資本による近代化されていないアラブ、はこうした法人資本主義原理とは違った概念で運動しているようだ。これも学習課題。

こうした類似性を見出すには単語相関調査をすればまず手っ取り早くは見つかるような気がする。もっと賢くやるには、デジタルデータ―をつかまえて、計算機で相関を取ると言うやり方だろう。これを大規模にやっているのが、エシュロンである。


「法人資本主義の構造」奥村 宏著 岩波現代文庫 ¥1260-

2005-01-27 10:03:34 | 奥村宏関連
先週の日曜の新聞だかにこの本の書評が掲載されていた。ニ三日前に散歩の途中本屋の書棚で見付け、買い求めた。日本の株式会社が英米のそれらとどう違い、独逸のそれらとどう似て、どう違うか、を分析しているようだ。

長くなるが、序論の五の一部を引用すると、
「会社がこれほど人間を取り込んだ社会はほかにはない。戦後日本、それも一九五五年ころからの日本社会はそのような社会であったが、その構造である法人資本主義社会は資本主義のある一面を極度に徹底したものであり、その原理は会社本位主義であった。それは日本経済の強さの秘密であるとともに、大きな矛盾をはらんでいた。そこで一九九〇年代になってバブルが崩壊するとともにその矛盾が爆発した。」
中略
「・・・いわんや会社のために命を捧げるようなことは人間にはできない。会社本位主義はそれを徹底させれば必ずそれに反逆する人、そっぽを向く人がでてくる。
 会社人間からの離脱はまず転職と言う形であらわれ、そして若者が契約社員や、あるいはフリーターなどという形で会社にしばられるのを嫌うようになる。そして不況のために、終身雇用をタテマエにしていた会社が希望退職や出向などという形で事実上の首切りをする。これに対して労働組合は有効な対策がとれない。そこで従業員の組合離れが起こり、労働組合の組織率が低下する。企業別組合は形の上では残っているが、空洞化していく。
 そういうなかでは従業員による内部告発がつぎつぎと出てくる。会社の不正行為を外部に告発するなどということは会社本位主義のもとでは考えられなかったことだが、それが続発することになり、社会もそれを歓迎するようになった。
 バブル崩壊後、銀行の不正融資、証券スキャンダル、総会屋スキャンダル、欠陥車かくし、原子力発電所の事故かくし、牛肉偽装事件などつぎつぎと企業不祥事が起ったが、そのかなりのものは従業員や関係者による内部告発で表面化したものであった。」

ここで言う会社のために命を捧げる人間はいわゆる会社人間であり、更には、「社畜」であろう。こうした歪んだ人間性をもたらした法人資本主義を実証的に分析するのが本書であろう。引き続き読んで行きたい。

ここまででチョット感想を、
>会社人間からの離脱はまず転職と言う形であらわれ、そして若者が契約社員や、あるいはフリーターなどという形で会社にしばられるのを嫌うようになる。

これは序の部分だから本文の該当個所にはもっと細かく書かれているかも知れない。そこを気にしつつ敢えて書いておこう。会社人間の親を見て、「ああはなりたくない」と考えている若者が沢山居るだろう。こうした事が背景で、金属バット事件、閉じこもり、・・・、そして最近のニートを生み出しているのだろう。様々な理解に苦しむ性犯罪なども背景が同じ部分があると、私は考える。高名な心理学者がマスコミで解説をされるのを聞いていると、こうした背景を無視しているように感じられる。

こうした面をもっと掘り下げた研究、分析があるのかどうか、更に調べてみたい。