押しても駄目なら

風が吹けば、と共に非線型現象の第二例でしょう。

戦後日本の社会運動ーその2 小熊英二 論座2007.11 80頁

2007-10-12 11:35:03 | 気になる記事
その1では1955年の転換が冷戦構造の顕在化に関係していると述べた。今回のその2では1970年の戦後第二の転換について解説する。

ここらの大熊さんの分析は優れていると思う。私は勿論不勉強なのだが、こうした捉え方をしている読物は私は初めてだ。だからご自分でこの記事を読むことを勧めます。60年安保のあと、中核、革マル、社青同、同解放派、再建ブント、・・・と沢山の新左翼セクトが出来ました、と大熊さん、ええ、私もこの辺りまではこの眼で見ました。これらセクトは既成左翼政党には飽き足らず、激しい街頭デモを繰り返し、消耗して行き、既成左翼政党も急速に影響力を失いました。

1970年7月には華青闘、華僑青年闘争委員会と言う在日華僑青年の団体、批判され新左翼諸派は大きな衝撃を受ける。戦争責任や在日、環境保護、ジェンダーと言った問題が出始めたのはこの事が切っ掛けで、それらが出揃ったのは70年後半の転換期から、と言うのが大熊さんの分析です。

更に分析を進めて、「新しい社会運動」の可能性と限界について外国の例、緑の党、も含めて、議論しています。そしてマジョリティーに訴える言葉を失った左派、塩辛い左翼、と述べています。

この項つづく・・・。

ノーベル化学賞

2007-10-10 22:20:16 | 気になる記事
ノーベル化学賞も発表があり、固体表面での気体との化学反応に関する研究で独のエルトゥル氏が受賞した。この人も92年に日本国際賞(国際科学技術財団)を受賞している。9日発表された物理学賞の2氏も今年、日本国際賞を受けたばかり。同賞の受賞者からノーベル賞が生まれたケースはこれで計6件(受賞者は7人)になった。

またまた目出度い。

ノーベル医学生理学賞/物理学賞

2007-10-10 00:01:11 | 気になる記事
毎年10月になると?ノーベル賞の発表が各分野である。これまでに医学生理学賞、物理学賞の発表があった。医学生理学賞は三氏に与えられ、朝日ドットコムによれば、その一人マリオ・カペッキ氏は、「 〈マリオ・カペッキ氏〉 37年イタリア生まれ。67年米ハーバード大で博士号取得。現在、米ユタ大教授。96年に京都賞。」とある。10年以上前に京都賞を貰っているそうな。京都賞の評価委員、必ずしも日本人ではないと思うが、はこの事を誇りに思って良いだろう。評価委員の選出者、選出委員会も喜んで良い。三氏の業績は「この手法で、がんや高血圧など500種以上のモデルマウスが作られ、様々な病気と遺伝子との関連を調べる研究が、世界中で飛躍的に進んだ。」とある。私の二種糖尿病も原因究明される日が近いのだろうか?

また、物理学賞は二氏に与えられ、授賞理由は「巨大磁気抵抗効果(GMR)の発見」。と言う事だった。二氏はこの業績で今年の日本国際賞(国際科学技術財団)を受賞した、とある。これも同様に目出度い。

十年ほど前だったか、何年以内に何十人だかのノーベル賞受賞者を輩出すうるようにしたいとか、するとか、いう議論があった、と記憶する。それには評価出来る人間が居なければ、と感じたが、今回の結果を見ると、評価できる人材を結集出来るようになったのかと思われる。

ノリック事故死

2007-10-08 14:56:58 | 気になる記事
中日スポーツの記事を引用すると、「 “ノリック”の愛称で親しまれてきた日本一の人気ライダー、阿部典史さん(32)が7日、川崎市内で起きた交通事故で死亡した。」「 関係者によれば、この日、ノリックは横浜市の友人を訪ねたあと、ほかに移動するため川崎市を走っていて事故に遭った。ノリックは日本ではレース以外で2輪車に乗ることはなかったが、今年大型スクーターを知人からもらってとても喜んでおり、今回もそのスクーターに乗っていたようだ。」

朝日ドットコムを引用すると「 7日午後6時20分ごろ、川崎市川崎区大島1丁目の市道で、川崎市幸区、レーシングライダー阿部典史(のりふみ)さん(32)のオートバイと、横浜市鶴見区東寺尾1丁目、運送会社員千野智彦さん(51)のトラックが衝突した。阿部さんは午後8時50分過ぎに死亡した。阿部さんは世界GPで過去3度優勝して「伝説のライダー」と呼ばれ、国内のオートバイファンの間で人気があった。」

バイクに乗った経験は殆んどないに等しいが、バイクとスクーターとは違う乗り物だと思う。バイクライダーがバイクに乗っていたら、この事故では死ぬような事にはならなかったのではないかと言う気がする。中日スポーツの記者は正確にスクーターを記述したのは、良かった。もう一歩突っ込んで、何故避け切れなかったのか、を、例えば、一般道を走る経験のあるライダーの意見を聞いて、加えてくれると、有難かった。

戦後日本の社会運動ーその1 小熊英二 論座2007.11 80頁

2007-10-05 16:39:00 | 気になる記事
副題はー歴史と現在 プレカリアート運動はどう位置づけられるか である。初めに「左翼」の定義が曖昧だそうで、そこらから教えてくれる。小林よしのりさんが作った「薄甘いサヨク」という呼称があるそうな。小熊さんは「塩辛い左翼」と言う呼び方をして昔の左翼に使って、整理してくれます。

話を戻して、小熊さんの解釈だと思いますが、戦後日本の社会運動には、大きく言って1955年と1970年の2回、転換点がありました。今も転換点かも知れません。

いま「サヨク」といえば、戦争責任、男女平等、環境保護、マイノリティーの人権などの問題を重視する人々が想定されるようですが『へーェ、そうなんですか!』、70年以前の「塩辛い左翼」は、こうした問題を重視しませんでした。それは手短に言うとマルクス主義の下部構造が上部構造を決定する、と言う荒っぽい理論に立脚していたからだそうです。

55年の転換点をもたらした原動力については小熊さんは述べていないようです。私の勝手な意見を申せば、第二次大戦後の冷戦構造が顕在化したからだ、ではないかと考えます。最も象徴的な出来事は朝鮮戦争、1950年、でした。日本の役割について米国は態度を鮮明にし始めたのでした。1952年の講和条約による占領体制の終結があり、55年には自民党の結成、統一社会党の結成、共産党の六全協での武闘路線の放棄、などなどがありました。自民党は自主憲法制定を掲げ、社会党、共産党は護憲論を唱えて守勢に立たされました。

70年の転換の前には60年安保闘争があり、安保改定は阻止出来ませんでしたが、岸信介内閣は倒れました。そして憲法改定の動きは弱められました。代わって登場した池田勇人内閣は所得倍増計画を打ち出し、経済成長を提唱しました。この所得倍増計画の評価はこれまできちんとはされていないように私は思っています。この経済発展の前段階に朝鮮戦争による「特需」があったとは思いますが、農村から安い労働力を駆りだして、工業生産の労働力に充当する、と言うやり方はその後のアジアでの市場経済国家発展のビジネスモデルとなっていることは、明らかです。そうした大事な正の側面が評価されずに、公害などの負の側面だけが大きく取り上げられるのは、物事の本質を見失うことになり兼ねないでしょう。
さて、60年代に入ると「改憲より金儲け」に転換した自民党と、「これ以上は議席が伸びない」と自覚した社会党の間で、なれあいの「国対政治」が定着する。『今、福田内閣が法案作成段階で野党とも良く話し合いましょう、と言っているのはこれだな』自社の国会対策委員長が裏交渉で筋書きを事前に決めてしまい、与野党が国会で激しくぶつかり合うようなことがほとんどなくなってしまった。

ーつづく

グリーンスパンのご託宣

2007-10-03 11:20:33 | 気になる記事
日経夕刊2007年10月2日二面に小さな記事。一日にロンドン市内で講演したそうな。見出しは「中国株はバブル」次は「米の金融緩和行き過ぎ批判に反論」。見出しだけでは論旨は判らないので、本紙を見られたし。
私が気になったのは、これに、この講演、先立つ別の講演では「日本の金融市場はサブプライムローンの影響は直接は受けなかったが、この影響を受けた欧州の投資家が日本株を売ったため、日本の株式相場が急落した(私の要約)」と指摘した。私の印象を解説してくれた。やっぱり!そういうことだったのか!と言う感じです。

福田首相の施政方針演説

2007-10-02 23:23:35 | きのうきょうの話題
福田首相の施政方針演説に対する新聞各紙の反応が鈍いようだ。例えば日経社説を読むと野党との話し合いを述べている点について批判も評価もしていない。私は野党との論戦は法案提出段階に議会で行うべきで、法案作成段階で裏交渉、下交渉のような形で協議するのは不適切で民主主義に反すると思う。しかし、社説の論旨は曖昧である。読んでいてモドカシイ感じがする。
野党は具体的に何をするのか、が述べていないと批判している。私はその通りだと思う。これでは段々化けの皮が剥れて行くことになる。