押しても駄目なら

風が吹けば、と共に非線型現象の第二例でしょう。

第三の男とカサブランカ

2005-02-27 21:05:39 | おもいつき
余丁町散人の隠居小屋に第三の男の面白い解釈があった。『「第三の男」……正義のために自分の親友を殺すのが人間の道なのか?』
  http://homepage.mac.com/naoyuki_hashimoto/iblog/C1310380191/E2104406103/index.html
と言うものである。

こういう見方もあるのか、と感心した。クリックすれば簡単に余丁町散人の考え方は読めるので引用はしない。

私はこの作品を映画で五回くらい、ビデオで二三回、DVDでも二三回見たと記憶する。後になる方が新しい発見があったりして、面白いなァ、と感じていた。DVDを見た時に感想をある演出家にしたら、ヨーロッパ向けとアメリカ向けがあるらしいよ、とのコメントを述べられた。

私が最後に面白いと思ったのは、ジョセフコットンの西部劇三流作家?がある文化サークルに招かれて、散々馬鹿にされる行があり、そのシーンに長々と時間を割いていたと感じた。ウイーンを管理する連合軍のイギリス将校、トレバー・ハワード、のアメリカ作家に対する苛立ちなども連合軍内での齟齬が感じられた。そうしたことが欧州文化とアメリカ文化とのある種の対立として捉えられ、最後に墓場からの長い道でのシーンに結実するのだと私はその時初めて感じた。

原作はグレアム・グリーンで結末は良く知られているようにハッピーエンドであるそうだ、読んでいない。しかし、脚色もグレアム・グリーンだそうな。キャロル・リード監督が撮影現場で結論を変え、グレアム。グリーンも説得され、納得したのだろうか。これはイギリス映画。

そんなことを思いながら、その後、カサブランカをDVDで借りて見た。バーグマンの亭主、ポール・ヘンリード、はクーデンホーフ・カレルギーがモデルだと聞いたことがある。また、彼こそ今日のEUの基礎となる欧州統合を初めて唱えた人物とも聞く。どちらも曖昧であるが、今は論旨とは直接関係はないので、ここままにしていおく。

これはアメリカ映画でやっぱり底が浅くて、ただただボギーを格好良い人物に仕立てているだけの映画なのである。年をとってから見たら、バーグマンの役なんて二人の男の間で悩んでいる風では全くなくて、ただアメリカ風に男の言いなりになっているだけなのである。ここにもアメリカ映画のアメリカ文化の浅さが如実に見えるのである。

陰暦と荷風散人

2005-02-27 20:14:09 | 読みちらし
断腸亭日乗を読んでいると荷風が陰暦を愛用していたことが判る。ある時期陰暦が入手し難くなり、困り果てたが、翌年だかには手に入れて悦に入っていた記述があったと記憶する。今手元に日乗がないので、何処に書いているとは指摘出来ない。

Blogネットサーフィンしていたら、「Kafu 荷風塾学校通信 No11 荷風と月 ー『断腸亭日乗』の驚くべき正確さー」と言うサイトがあり、
  http://homepage.mac.com/naoyuki_hashimoto/iblog/C1774610913/E317970214/
「天文学的にも荷風日記は正確なのだ!」と追い討ちがかけてある。

ちょっと待たれよ。陰暦を懐に入れていれば、1945年3月10日の月齢がいくつで、いつ頃月の出かは誰でも判ったのである。また、あのころは暗かったし、灯火管制があったなんてご存知かな?、月明かりを頼りに歩いたりしたものらしい。

日乗にはフィクションがあり、それは何処何処であれこれの証拠がある、との指摘がこれまでも盛んにされている。最も有名なのが弟の著作とか言われている。奇観本とかで私は見たことはない。それはそれで正しいのだろうと私は思っている。

私が気づいた幾つかの天変地異のケースでは極めて正確であった。大雨、地震などの日付、規模などである。

つまり、私の理解する所、荷風先生は事実を正確に把握しながら、ここはこうフィクションを加えると面白くなるなァ、と楽しむ物書き、小説家、であった、というだけのことなのである。

今発売中のダカーポ

2005-02-25 21:06:43 | 読みちらし
ダカーポ555号を図書館でパラパラと見たら面白いので買った。何が面白かったかと言うと特集1は「若い」だかその次はニッポンを叱るとあり、その特集の中に宮崎学と若松孝二との対談があり、そこで北朝鮮に対する日本国内の論調の不自然さ、不真面目さについて語っている。この事が新聞、雑誌、マスメディアにこうした形で取り上げられるのは初めてかな?と思う、感じた。
確かに今の日本はそういう意味で異常である。60余年前の状態に極めて似通っている。鬼畜米英の論調が世の中に漲っていた。北朝鮮憎くしが漲っている。頭を冷やしたい。

暫くサボっている

2005-02-22 15:36:21 | おもいつき
その言い訳はあれこれの報告書の資料探しで時間を取られている。どういう訳かこの一二月に一度に二つ重なってしまった。並行してやろうとしたら、資料整理をしそこない、かえって仕舞い忘れが起ったりして、結局逐次方式でやるしかなくなった。

そこで今までのようにじっくり読んでから書くことは当分なかなか出来ないので、ちょっと思いついたら、とりあえず書き込んでおくことにする。詳しい考証は後でまとめてやる事にしよう。

ドレスデン空襲(1945/2/13)60周年

2005-02-15 00:35:21 | 読みちらし
日経に表記の記事があった。

    http://www.nikkei.co.jp/news/kaigai/20050214AT2M1400H14022005.html

連合軍(主力は今も同じ米軍)の通常爆弾による空爆である。この爆弾の開発は米国の砂漠にドレスデンの町並みの模型を作り、どのような性能の爆弾が必要か実験した、と読んだ。その隣で、日本の町並みの模型も作り、焼夷弾の性能テストも行われた。これが最も大規模に使われたのが1945/3/10の東京大空襲である。
これらの空爆に使われたのはB29で、その開発は米国の対日参戦直後から始められた、と読んだが、記憶は怪しい。
これらと平行して原爆の開発が行われていた。ナチスドイツは1945年5月に無条件降伏したが、日本帝国が無条件降伏したのは8月だった。

経済論戦の読み方 田中秀臣 講談社新書 ¥756-

2005-02-13 13:59:02 | 奥村宏関連
経済論戦の読み方 講談社現代新書 著者: 田中秀臣 出版社:講談社 発行年月: 2004年 12月 本体価格:720円 (税込:756円) という本を書店の平積みの山の中から手にとってパラパラ。十冊ほどの本を槍玉に上げていて、奥山宏の「法人資本主義の構造」も取り上げられていて、面白そうだが、買い求める気にまではならなかった。ちょっと感情的な取り扱い方が、批判というレベルには達していない印象。そこで図書館で予約。全て貸し出し中だった。借りる事が出来たら、この欄で取り上げたい。

その隣に中根千枝のたて社会の人間関係が並べてあった。そうだ、この本こそ社畜に象徴される社会構造、会社内人間関係を組織的に取り上げた本だった。二十年くらい前に読んだ記憶がある。奥村宏の分析と関連させて読み直してみよう。確かアジアの社会構造と対比させて議論を進めていたと記憶するが、忘却の彼方か。出版は1967年、書き始めたのは60年代か。



法人資本主義の構造」奥村 宏著 岩波現代文庫 その3

2005-02-11 08:46:34 | 奥村宏関連
結び 2.株式会社の犯罪
この字句は今日的である。毎日の新聞紙面を賑わしている。「四面」の最下段には謝罪文が必ず掲載されている。では早速引用から始める。

引用
 チッソの水俣病をはじめ戦後日本の公害事件の多くは株式会社による犯罪であり、これは「私害」であって「公害」ではない。ミドリ十字などの薬害もそうだし、三菱自動車などの欠陥車、あるいは東京電力や関西電力などの原発事故も、それはすべて株式会社の犯罪である。
 われわれ人間=個人が他人に危害を加えたり、人を殺したりすれば、当然その人は刑務所に入れられる。死刑になればもちろんだが、刑務所に入れられたら、その間はもう犯罪を繰り返すことはできない。ところが株式会社であるチッソはいぜんとして事業を続けているし、ミドリ十字は合併して三菱ウエルファーマという名前で存続している。三菱自動車も東京電力も、関西電力も同様である。
 株式会社という法人を死刑にすることはできないし、刑務所に入れることもできない。といって現在の法律ではこのような株式会社を解散させることはできない。町の食堂で食中毒事件を起せば、食品衛生法によってその食堂は一定期間、営業停止になるが、三菱自動車は欠陥車を製造して人を殺したにもかかわらず、いぜんとして自動車を製造し、販売し続けている。チッソや三菱ウエルファーマも同じである。化アブ四季会社がもし株主のものであるとするならば、チッソや三菱自動車の株主が殺人罪で訴えられるということになるが、そのようなことは考えられもしない。株主はなんの責任も追及されていない。ただ、株価が下がった分だけ損しただけである。
 日本の刑法は、犯罪を犯すのは意思のある人間で、法人には犯罪能力はないという考え方に立っている。チッソの場合は元社長や元工場長が、また三菱自動車の場合も元社長やもと副社長などが業務上過失致死罪で訴えられている。もし元社長や副社長が公害や欠陥車の事実を知らなかったとするなら、罪にはならない。事実、三菱自動車の河添克彦元社長や宇佐美美隆元副社長などはそのように裁判所で主張している。公害や薬害、欠陥車などはいずれも株式会社がその事業活動の中で行った犯罪である。それは法人としての企業犯罪であるが、それは罰せられない。せいぜいのところ道路運送車両法違反で軽い罰金を科せられる程度である。

コメント
 ここの文章はちょっと判り難い。「法人としての企業犯罪で、その企業の責任者はそのことでは罰せられない」という意味でしょうか。「法人としての企業犯罪で、法人は罰せられない」ではないようだ。

引用続く
 株式会社が大きな社会的影響を与え、それが人びとの生命を脅かしているにもかかわらず、法人であるため株式会社は罪を問われない、そのような株式会社が社会的に存在することを許されてよいのか。おそらく19世紀なかばのイギリスであったなら、そのような議論が議会でたたかわされたに違いない。

コメント
 度々この話は引用されるが、本書p154 第二編 株式会社の構造 第一章 会社が会社の株式を所有する意味 1 株式会社の原理 に詳しく書かれているので、そこで説明したい。

引用さらに続く
 ところがその株式会社が他方では巨額の政治献金をすることで政治を動かしている。アメリカでは20世紀のはじめ、企業の政治献金は違法だという判決を裁判所が下した。そのためにPAC(政治活動委員会)とか、ソフト・マネーなどというさまざまな便法があみだされているが、日本では1970年の八幡製鉄政治献金事件の判決で政治献金が公認されている。そのため、企業は堂々と巨額の政治献金をし、カネで政治を動かすということがビジネスのようになっている。
 こうしてわれわれ人間=自然人以外の法人が政治を動かしているだけでなく、法人=株式会社が社会的責任を果たすと称して学術研究などに寄付をしたり、慈善活動をしている。一方では犯罪能力がないとされている株式会社が、他方では政治活動をしたり、慈善活動をしたりしている。
 こうして現代の株式会社は19世紀なかばに近代株式会社制度が確立したころには考えられもしなかったようなものになっている。それはあたかもわれわれ個人と同じような権利を持ち、そして自然人を圧倒するような力を持ち、さらにわれわれ個人をカネと力によって支配している。
 このような株式会社のあゆみを他国に先駆けて突き進んでいるのが法人資本主義の日本である。それはもはや株式会社とはいえないような不可解な存在、ホッブスの言うリヴァイアサンか、ビヒモスのような怪物になっているのである。


コメント
 浅学菲才を露呈。リヴァイアサン、ビヒモスについては、ネット検索されたし。取り敢えずは、
http://jupitorj.at.infoseek.co.jp/p02.html
を見られたし。

以上でこの項終り。

2005年2月9日の日本・北朝鮮のサッカー試合

2005-02-10 21:56:53 | Weblog
昨日のサッカー戦を見ていて映画「パッチギ」を思い出した。映画の方が問題を率直に提起していると思う。昨日の試合は抑圧された、感情の発露されない、不思議な情景に思えた。
ところで昨日の新聞だったかにあの映画の監督の井筒和幸が皆さんこの時期にこの映画を見て下さい、と述べていた。

法人資本主義の構造」奥村 宏著 岩波現代文庫 その2

2005-02-10 07:46:19 | 奥村宏関連
その2は 結びの 3.もはや株式会社ではない を取り上げる積りだったが、読み直すと、1.無責任株式会社 から始めた方が良いと考え直したので、そのようにする。

引用
結び
1.無責任株式会社
 1990年代になってバブル経済が崩壊したあと、まず問題になたのが住宅金融専門会社(住専)の経営破綻であった。地価の暴落によって日本住宅金融をはじめとする住専各社は6兆4000億円の不良債権を抱えて経営が行き詰まったが、この住専各社に対してその設立母体であった銀行(母体行)が3兆5000億円の債権を放棄し、その他の銀行も1兆7000億円の債権を放棄した。そして残りのうち5300億円を農協系金融機関が贈与し、6850億円を公的資金で負担するということで住専問題を処理した。
 農協系金融機関の贈与といい、公的資金の負担といい、いずれも住専各社に対する債権を放棄する方法として行われたことに変りない。借りたカネは返さなければならないーこれは人間社会の基本的ルールだが、そのルールに反することを政府の主導のもとに大規模に行ったのである。かつて日本では鎌倉時代から室町時代、戦国時代にかけて「徳政令」がしかれ、それによって「借金棒引き」が行われたことがあるが、20世紀末のにほんで「平成の徳政令」が大規模に行われたのである。
 住専各社のあと、さらに飛島建設、青木建設、フジタ、佐藤工業、ハザマ、長谷工コーポレーションなどのゼネコン各社から藤和不動産、日貿信、殖産住宅相互、西洋環境開発、兼松、トーメンなどに対して銀行は数百億円から数千億円規模の債権放棄をした。そひてダイエーなどのように巨額の債権放棄が何回も行われるというケースもあった。
 銀行がこのように巨額の債権放棄をすれば、当然のことながら銀行自体の経営が破綻する。そこで行われたのが銀行に対する公的資金の投入である。1998年、大手銀行18行、地方銀行3行に対して1兆8000億円の公的資金が投入され、さらに99年には1行、地方銀行3行に対して7兆4582億円の公的資金が投入された。これとは別に経営が破綻した北海道拓殖銀行、日本長期信用銀行、日本債権銀行、そして実質上経営破綻したりそな銀行などに対しても公的資金が投入され、日本長期信用銀行、日本債券信用銀行は一時国有化され、りそな銀行も事実上国有化された。
コメント
 凄い!思い出した。ここに書いてある言葉、単語は今や古くなっている。と言うか、日常の新聞紙上には出て来ない。しかし、かつては連日のように紙面を賑わしていた熟語である。しかし、当時はバラバラにこれらの単語が並べられ、それらの関連、論理的な説明は皆無だった。時を経て、こうして条理をつくして説明されると、隔世の感がある。ゼネコン各社が身の程わきまえず大金を行使して、借金を作り、破綻し、そのカネを貸した銀行がその借金を棒引きし、銀行がその借金から生じた不良債権を政府が公的資金を差し出して、借金の肩代わりをしているのが、現状なのである。そのツケが累積して600兆円とか。
引用続く
 中世の「徳政令」では、借金は棒引きされ、借りた側はそれで救われたが、貸した側はそれによって損失を蒙った。ところが「平成の徳政令」では貸した側、すなわち銀行には公的資金が投入されて、それにおって救済された。それはすなわち公的資金という名前の国民の負担で銀行の損失をカバーしたということである。日本は自由主義、あるいは市場経済の国であるというけれども、実はそれは国家資本主義であったということになる。
解説
 うーん、恐ろしい。銀行が潰れると預金がなくなるから、銀行を助けるために、つまり自分の預金を保障するために、公的資金の導入を止むを得ない、是とする、と思い込んだが、結局はこういうカラクリだったのか。
引用さらに続く、耐えられたし
 本書では何回も述べたように、株式会社の最大の特徴は全株主が有限責任者であるというころにある。言い換えるとそれは、もし会社が倒産したら最後に責任を持つものがいないということである。そこで株主が払い込んだ資本金を担保と考えてカネを貸せばよいではないか、そうすれば倒産しても、資本金に見合った資産を売却することで債権を回収できる。そのような前提で、株式会社の有限責任が認められるようになったのである。ということは銀行が相手の株式会社の資本金(あるいは自己資本)を無視して過大な融資をするならば、それは株式会社の原理に反することで、貸した側に責任があるということになる。
コメント
 そうか!バブルの原因は銀行がこうした資本金以上の資金をあれこれの株式会社に貸し付けて、不安定な状況を造り出していたのか!だからマッチ一本で火がついて。取り返しのつかない大事が始まったのか。

引用さらにさらに続く
 ところが、このような株式会社の原理に反することを大規模に行ったのが日本の銀行であった。そひてカネを貸した相手の会社が行き詰ったために、それに対する銀行の債権を放棄し、その銀行に対しては公的資金、つまり国民の税金で損失をカバーしてやる。住専各社の株主は株券がタダの紙切れになったし、またゼネコンなどの株主は株価の暴落で損したが、それ以上の責任は問われない。そればかりか、りそな銀行の場合などは、株主の責任さえ追及しないで、公的資金を投入した。経営破綻した銀行は減資によって株主が損失を負担するというのが株式会社の原則だが、それさえしないで、公的資金で負担したのである。
 これは株式会社の原則が踏みにじられ、株式会社が最終的には誰も責任を取るものがいない無責任会社になっており、その付けを国家が負担したということである。このような会社、そして銀行はもはや株式会社とはいえない。そのような無責任な会社は社会的に存在を許すべきではないという、19世紀なかばのイギリス議会で行われた議論がそのまま現代の日本にも通用する。ところが不思議なことに政府の財界も、そして学者たちも、このような無責任な株式会社について全く問題にしない。何10兆円もの国民のカネを使いながら、問題の本質は放置されたままである。
コメント
 恐ろしい!頭にくる!!銀行は預金には利子は払わない、てら銭はボッタくる、酷いとおもっていたが、この行(くだり)を読むととんでもない事をでかしていることが判る。中世の徳政令の方がずっとましだ。
 イギリス議会の話は本書154ページにあるので折を見て解説したい。

頭にきたので、本日はこれで終り。

法人資本主義の構造」奥村 宏著 岩波現代文庫 その1

2005-02-09 22:50:27 | 奥村宏関連
ちょっと読み進み、とても感心した。勘所から、解きほぐす。従って、順序はデタラメ。目次を見ると、序論、三篇、結び、となっている。三篇は第一篇株式会社の法人化、第二編株式所有の構造、第三篇法人資本主義の矛盾である。
結びは
1.無責任株式会社 2.株式会社の犯罪 3.もはや株式会社ではない 4.株式会社信仰からの脱却 となっている。
これも後ろから始めようか。
4.株式会社信仰からの脱却
引用
 法人資本主義(コーポレート・キャピタリズム)は1955年ごろから日本に確立したシステムであるが、それが日本の高度成長をもたらすと同時に、バブルを発生させ、やがて20世紀末になってその矛盾を露呈した。
解説
 1955年ごろから、の話は第一篇第四章の表題が1955-64年にかけての流動化となっていて、ここらに詳しい解析・説明がある。後ろから読んでいるので、こうした事になる。
引用つづく
 この法人資本主義を支えているのは巨大株式会社であるが、世界的に株式会社は危機に直面している。そのなかで日本が株式会社の矛盾を最も早く、最も先鋭に発言させているというのが、この最新版での私の主張である。
 では株式会社の危機に対して、われわれはどうすべきか。
<中略>
 これに対して、どうするのか。それは現場の人がそれぞれ考えを出していく以外にないが、しかしその方向性について語ることはできる。これまでの株式会社の歴史、そhしてそれがいま直面している問題について考えるところから、向かうべき方向はどちらかということを示すことはできる。
 なによりも巨大株式会社の矛盾は、それが大きくなりすぎたということにある。そのために巨大株式会社は経済を動かしているばかりか、政治や社会、文化、教育にまで支配力を行使している。そして人びとを「社会人」ではなく「会社人」にしてしまっているが、その内部組織は肥大化して、”大企業病”におかされている。そうであるとするなら、まず必要なことはこの巨大株式会社をできるだけ小さな組織に分割し、そして上からこれを支配することをやめるべきである。これが私の唱えている「大企業解体論」である。
<中略>
 このような人びとのさまざまな試みのなかから新しい企業が生まれてくるだろうが、そこでだいじなことは、一つの企業形態だけが圧倒的な力を持つという姿は危険だということである、巨大株式会社だけが経済を支配するというような状態は人類に不幸をもたらす。さまざまな形の企業が存在することが人びとの自由な働き方、生き方を保障する。それ以外に人類に希望はない。
 このように人間のさまざまな生き方、働き方に適した企業をそれぞれが作り出していく。これがこれからの方向だが、そのために必要なことは人びとの企業に対する考え方を変えることである。なによりも巨大株式会社を絶対的なものと考える株式会社信仰から脱却する事である。
解説
 これが著者の言いたい事なのですね。それにしても人間が作り出すものは単一化指向があるのだな。これは面白い。著者は別の言葉で言うと多様性が大事だと言いたいのですね。

 次は、3.もはや株式会社ではない です。今日はこれでお仕舞い。

富本憲吉展、パッチギ、・・・

2005-02-05 15:21:17 | まちあるき
人間国宝の日常のうつわーーもう一つの富本憲吉を国立近代美術工芸館で見た。彼はかちらこちらの窯場へ行き、そこの生地に自分のイマジネーションを重ねて、優れた日常のうつわを数多く製作した。全体が概観できる楽しい展示だった。
http://www.momat.go.jp/CG/Tomimoto/

建物は昔の個の近衛師団の駐屯していたものとか。浦の庭を回って、池の橋を渡り、烏の行水を見て、武道館の脇を通り、九段坂下から渋谷へ行き、時間があったので、映画パッチギを見た。面白かった。朝鮮と日本との複雑な関係の今日的な一面をちゃんと描写してしていると感じた。
http://www.pacchigi.com/index.php

「判断力」奥村 宏著 岩波新書 ¥700(税別)

2005-02-04 11:33:37 | 奥村宏関連
カバーのうらに短い紹介があるので引用する。「長い間自分で判断する必要がなかった日本は、いま内政・外政、経済など、あらゆる局面で独自の判断を迫られている。しかし、外国に判断を任せる政治家、責任感欠如で判断しない経営者、外国理論をまくしたてる経済学者が相変わらずはびこる。なぜ判断を誤るかを検証し、判断力を養うために何が必要かを具体的に考える」とある。著者の著作などからの引用があり、この部分は説得力がある。
しかし、判断力を養う具体的方法はちょっと古い。考えながら、新聞(資料)を読み、分類して切抜きを整理する、これは著者がそうしてきたから、勧めるのだろう。
これは間違っていない。しかし、後発者がこれをすると時間が掛かって、永遠に追いつけない。また、専門家でなければ、こうする必要はない。
インターネット検索は著者も使っていて、その便利さ、有効性を知り、理解している。多分、最高齢の理解者であり、ユーザーだろう。
だが、ネット検索では知識を得るだけで、考える力が育たない、は著者の独断と偏見である。私はBlogサイトはトラックバック、コメント、リンクなどなどを巧く使えば、かなり有効な議論、論議、対話が出来るのではないかと期待している。このサイトを立ち上げた目的の一つもそこにある。有態に申せば、最大の目的は備忘録である。あるいは刺激の継続である。
ふと思い出した。野口悠紀雄はwebsiteの有効性を初期から主張した一人でした。

これは結果を見なければ、あるいは結果で示さなければならない、ので時間を掛けてやってみよう。

補足 ちょっと面白かった個所を二三上げよう。
1.政府審議会・諮問委員会などの委員になって、どのようにして御用学者に陥るか!と言う話。
これは怖いなァ。教育関係では中教審と言うのがありますね。この委員の学者関係がこのように  骨抜きにされた上で、文科省に都合のよい意見を述べているとしたら、恐ろしい。教育は数十年  後に結果が出ますね。中国の反日教育と対抗する日本の偏見的教育がぶつかり合うなんて、不毛  かな。
2.満鉄調査部にどうして優秀な人材が集められたか?と言う話

武士道の逆襲

2005-02-03 10:57:30 | 気になる本
武士道精神というのは明治維新で途切れたそうな。この本にはそういうことが書いてある、との紹介が朝日新聞(2005年2月2日夕刊)に紹介していあった。ちょっと気になってネットサーフィンしたら、既に読んでいる人がいた。
http://www1.odn.ne.jp/kamiya-ta/busido-gyakusyu.html
正しい読み方のようである。漫画についての薀蓄が主要のサイトらしいが、あれこれについて硬派の語り口のようにお見受けした。・・・で忘れないように、トラックバック。こういう使い方もあるのかな。