押しても駄目なら

風が吹けば、と共に非線型現象の第二例でしょう。

周恩来秘録上下 高文謙 文芸春秋¥1857+外税 X2

2007-07-27 10:35:30 | 齧り書き
はじがきに依ると、著者は党中央文献研究室委員、周恩来生涯研究小組長を務め、中国国内で周恩来と文革を多年にわたって研究してきた。中国を出国する以前に国内の公式出版物である『周恩来年譜』、『周恩来伝』、『毛沢東伝』の文革部分を執筆した。・・・
 一方、筆者は1989年に学生たちが起こした天安門事件(愛国民主運動)に理解を示し、支持したため、事件後に審査を受けて処分され、いまは米国に住んでいる。・・・
 文革期、周恩来は自分の政治上の晩節を汚さないため、文革を推進する役割を演じ、仲間に迎合し、毛沢東に追従して心にもないことをした。保身のために毛沢東に対しては隠忍自重し、内心では人知れね悲しみ苦しみ、そして空しさを抱えつつ、その政治哲学、品格、手腕そして個人的素質の中に潜むすべてをことごとく使い尽くした。・・・周恩来が生前、死後に数多い毀誉褒貶を受けたのもまた、この時代に根ざすものである。

上巻をパラパラと読んだところで貸し出し期限が来た、残念。ある時期までは周恩来は紅軍で毛沢東より上の地位を占めていた、と初めて知った。毛沢東の長期的見通し、深い思考力、権謀術数などなどによって、地位は逆転し、国家主席につき、周恩来は首相として実務を執行するようになった。あれこれの人物、劉少奇、林彪、などなど、が出現し、それぞれの野望、思想、権力に基づき行動し、敗れてゆく。まるで三国志を読むようだ。そうした物語的な面白さが横溢している。
その一方、コミンテルンによるソ連、スターリンとの確執、これには日本共産党も被害を受けた、党内でのその分派との戦いなども書かれている。これを読んでいる時に宮本顕治が死んだ。宮本賢治についてもこうした今だから話そう、のような文書が出てくるのだろうが。

また改めて読んでみたい。

すごい生き方 雨宮処凛 サンクチュアリ出版 2006年 ¥1300-外税

2007-07-26 00:32:00 | 齧り書き
Studio Voice 2007/August の対談で小熊英二と雨宮処凛の話、意見を読み、雨宮処凛の著作を図書館で借りた。結構借り手が多く、最初に入手できたのがこの「すごい生き方」である。ぱらぱらと読んでとても面白かった。
表紙、題名に続いて、いみめられてよかった。で1ページ。白紙があって、次にリストカットしてよかった。また1ページ。また白紙があってから、自殺未遂でオーバードーズで胃洗浄でよかった。また白紙があり、次の見開きに両面いっぱいに行きづらさ万歳! 次の見開きに、すべて私が生きるために必要なことだった。次の見開きは白紙で、続いて「リストカット」「オーバードーズ」「すごい生き方」の説明がある。

ここでやっとすごい生き方・目次があらわれる。
はじめに・・・・・・・・・・・・・・・017
生きづらかった私の話・・・・・・・・・023
生きづらい人が増え続けている・・・・・061
なぜ生きづらいと思うのか・・・・・・・069
生きづらい人たち・・・・・・・・・・・121
生きづらい人たちのイベント・・・・・・189
すごい生き方の人・・・・・・・・・・・195
いきづらさから逃れるための10章・・・223
おわりに・・・・・・・・・・・・・・・227

この本はある種のハウツーものの体裁を持っている。しかし、そこに書かれている具体例は著者の経験、学習、調査などに基づいていて、大変説得力がある。題名のすごい生き方の著者の解釈はリストカットやオーバードーズをしたり、「生きづらい」「死にたい」とおもった経験をバネにして、思いっきり自由気ままに、気持ち良く生きていく方法、とある。

30才まで死なないで、何とか生き延びると、死にたくなくなるそうな。

安部晋三さん、小沢一郎さん、福島瑞穂さんなどなどに読んで貰いたい気がする。

中越沖地震

2007-07-17 10:14:38 | 気になる記事
中越沖地震が2007年7月16日10時13分に起こった。個人的には東京に住まっているので、地震波が伝播する時間の後に、私は感じたのだと思うが、10時20分頃机に向かって椅子に座っていた。ゆらゆら揺れて、椅子の具合でも悪くなったのかと感じてからああこれは遠い所で起こった地震だと判った。テレ、ビラジオをつけて、新潟県が震源かと知り、その昔の新潟地震、流砂現象とアパートがひっくり返ったのと原油タンクの火災など、を思い出した。あの時も同じようにゆらゆら揺れた。渋谷で井の頭線の停車中の電車に乗っていた。

さて、現地の被災者は大変な経験をされていて、同情申し上げたい。この地震に関連して、幾つかの問題が気になった。

1.日本海側の地震が近年頻発しているようだが、その発生機構、メカニズムの研究にも太平洋側のプレート境界型大地震の研究に劣らず、力を入れる必要があるとおもう。境界型地震は6cm/年程度のプレート運動が例えば50年蓄積して数mの変位になり、それが活断層で弾けて地震になると考えられている。日本海側ではプレートから遠く離れているので年々の地殻の歪は多分1cm以下で数mの蓄積に達するのは数百年になる可能性がある。だから地震がない?と言う事を推定してしまっている恐れがある。古い文献の調査、古地震の調査、など地道な研究を行い、日本海側地震の発生頻度、周期、なぜ活発な時期があるのか、などなどを明らかにして欲しい。

2.今回の中越沖地震と三年前の中越地震とは40km程度しか震源が離れていないそうで、地殻の歪がそのような距離で開放されないのか、何故頻発したのか、併せて研究課題として欲しい。地殻歪の時空間的変動の研究とでも言うことでしょうね。

3.こうした基礎的な研究、資料に基づかないまま建設されたのが柏崎刈羽原発、東京電力であることが今回明らかになった。東京電力がこの原発を製作するに当ってメーカーと交わした設計仕様書を公開して欲しいと思う。どの程度の地震にどのように耐えられるのか、などを仕様書にどう書かれているのか、知りたい。この刈羽原発で様々な事故が起っている事がその後明らかになって来ている。これまでの諸電力会社の隠蔽体質から、今回何処まで今の時点で明らかになっているかは判らない。新潟県知事は政府にIAEAの調査を実施するよう要請し、渋っていたようだが、選挙中であることも幸いしてか、これを実施する事になった。これは原発が大規模地震を経験すると言う初めての事例を徹底的に調査する、と言う意味で重要である。

4.超低周波振動がこの地震からまた東京で観測された。六本木ヒルズではエレベーターの半数程度が検知して最寄の階で停めて数十分停止状態にあったそうな。

5.中越沖地震とは直接関係ないようだが、一日後だかの真夜中近くに京都の北方で地下370kmを震源とする地震があり、関東、東北、北海道で揺れた。北海道が深度4で一番大きかった。日本列島の地下へ滑り込むプレートの奥深くで発生した地震で、大変珍しいらしい。


Studio Voice 2007 August ¥680-

2007-07-12 11:14:44 | 齧り書き
松井孝典先生の「われわれはどこへ行くのか」を読みながらこの雑誌を読み始めたのだが、読み進んだら。手放せなくなって、とうとう最後まで読んでしまった。

まず、対談 田中康夫X宮台真司 についてはさわりを前の日記で紹介した。

もう一つの対談は小熊英二と雨宮処凛 表題は War or Union? だが、プレカリアートについて雨宮処凛の作品に展開しているあれこれの切り口を小熊英二先生が上手にまとめて、規既成政党が如何に自己保身に走り、こうした格差されて若者が虐げられているかの現状とどう行動しなければならないか、を方向付けしている。とても面白い。小熊英二先生は多少知っている積りだが、雨宮処凛サンは、遅まきだが、初めて知った。近頃の若者の力強い味方らしい。フリーターとか落ちこぼれとかは格差社会の中で自己責任を負わされている表現だが、プレカリアートはレーガン、サッチャー、ブッシュ、ブレアー、小泉、サルコジ、・・・等のニューリベラリズムの流れの中で生み出された新たな階層で、それの位置づけが未だに不十分のようである。ミギからヒダリへそしてアウフヘーベンした雨宮処凛サンの努力は大いに評価すべきである。

International Politicsという項目で、田中宇(たなか さかい)が国際情勢解説者としての力量を見せつける切り口を米国の戦略の破綻、中東、北朝鮮情勢について述べている。北朝鮮と米国との関係は今や蜜月のようで、日本は米国べったりではどうにもならなくなるよ、と警告している、と私の理解。拉致、拉致では六カ国協議の本題、主題から外れてしまうのだが・・・。

これらのインタヴュー記事で柄甚原権三(Gonzo Edinburgh)というペンネームの方が活躍している。相方から上手く易しく論点を引き出さている。渋谷陽一とは違うが、自分の言葉、考えを持っているからだろう。

われわれはどこへ行くのか 松井孝典 ちくまプリマー新書 ¥735-

2007-07-10 15:05:23 | 齧り書き
以前に「松井教授の東大駒場講義録」について読後感を書いた。今回のこの本は一般向けに書かれた本で、資料は更新された部分もあり、一般の読者には大変読み易いだろう。難しい図版、表はなくて、イラスト(川口澄子)があり、これも親しみ易さの一助となっている。
あとがきにかえてー「わかる」とはどういうことか、がある。「判る」は誰がやっても同じ結果を得ることが出来る事柄であるが、自然科学の「判る」は全てこの類の物である。
「判る」事が出来ない世界では「納得する」とか「信ずる」とががこれに取って代わる。社会科学、人文科学、宗教ではこうした「納得する」の世界である、が松井先生の判断。
さて、この本はこうした「判る」に基づいて書かれている。第一章われわれはどこから来たのか、もこのことを強く意識させられる。第一章第四節「地球学的人間論」でなければ文明も環境も語れない、なんて表題を見ただけで緊張が走る。
第二章われわれはどこへ行くのか、もまた然り。第二章第七節現在の人間圏では地球の時間が10万倍の速さで進む、は新しい概念を提起している。第二章第十一節何のために豊かになるのか、も面白そう。そして第二章の最後の節には人間圏は今世紀半ばに破綻する、とある。おお、恐ろしい。正確に言えば、人間圏の共同幻想が破綻する、と言う事でしょう。

ここらを読んでいる時に、偶々Studio Voice2007年8月号特集「政治を考える」の巻頭対談田中康夫X宮台真司「政治のモチベーションを転換する」に目が移った。
田中「・・・政治は何も特別なものじゃなくて、日常生活のものなんだよ、究極の総合愛情サービス産業ってこと。」「・・・昨日いたりあんだったから今日はあっさりめの和食が食べたい、なあんて生意気というか好奇心旺盛な国民性なんだから、いつまでも政治だけ同じでいいなんていってちゃいけませんよ。」

私から見ると松井孝典先生の仰る非自然科学の「納得する」は「判る」まで納得しないで、田中康夫前知事のように、政治の執行者を代えてみよう、と言う事のようだ。

そう言えば、欧州諸国は百年スケールでEUへ統合しようと努力している。中国は数千年を数百年の周期で統一・分裂している。ロシア・ソ連・ロシアの統合と分裂。米国のような統合異民族国家もある。さて、日本は短期に発展・没落・再生・停滞を繰り返しているように見える。さて、「判らない」事を判るようにするにはどうすれば良いのか。

蕪村春秋 高橋治 朝日文庫 ¥588-

2007-07-10 11:38:03 | 齧り書き
これも暫く前に買って、折に触れて栞を挟んで、頭から続けていた。進まなくなって、巻末の季語を手繰って、面白そうな季語から本文を読み、新たな楽しみ方を見つけたような気がしている。
著者は作家の前に映画監督をしていて、映像に造詣がある。だから風景を読む蕪村の俳句をまた別の切り口から解きほぐしている、と思った、感じた。

では、二三・・・。

名月やまづしき町を通りけり

月天心まづしき町を通りけり

別の句に35mmレンズで撮った映像のようだ、と言う説明があった。これはさしづめ28mmで撮ったのだろう、さもないと天心の月が画面に入らない。

雨後の月誰(た)ぞや夜ぶりの脛白き

デジカメならば大口径標準レンズでiso感度を最大限に上げて、月明かりと夜釣りの火の灯りだけで撮る、現代でも映像化することが難しい題材。赤い火で脛が白く写せるのか?気になる。


・・・とあれこれ想像しながら読み描くのが楽しい。


おくのほそ道、松尾芭蕉、ドナルド・キーン訳、講談社学術文庫¥798-

2007-07-09 11:59:06 | 齧り書き
読んだのは暫く前だが、印象を書いておくのを忘れた。最近読み直して、印象を新たにしたので、書留めておく。

文庫本は右からは縦書きで本文四十五章?があり、左からは横書きで英文、英訳、の45章が綴られている。その間に「芭蕉における即興と改作」と題する講演(2004年伊賀上野市)の集録がある。これが面白い、と私は思った。そこを引用しよう。
「閉関してから、草庵の中で芭蕉は何をやっていたか、よくわからないが、『おくのほそ道』の原稿を何十回もいじっていたのではないかと思われる。十年ほど前に大阪の古本屋で『おくのほそ道の』決定稿が見つかった。本物であるかどうか専門家の意見はまちまちであるが、私は紙のすばらしさに驚いた。三百年経っても全然傷んでいない。芭蕉の時代でも大変高価なものだったにちがいない。よほど大切な作品でなければ、芭蕉はこの雁皮をつかうことはなかった。次に驚いたのは原稿の上に数ヶ所、薄い紙が貼ってあったことだ。薄い紙に書いてあったのは、『おくのほそ道』に出ている俳句だが、下にある文字を機械を使って読んでみると、この発見まで全く知られていなかった芭蕉の俳句であった。」ここまでは前置きで・・。途切れなく続く・・・。
「私は原稿を見て次のように思った。芭蕉は最後の最後まで改作をしていた、と。普通の紙を使っていたら、改作する時、一枚の紙を破って新しい紙に文章を書き直しただろうが、雁皮を捨てるのはもったいないと考え、薄い紙に新しい俳句を書いてからはったのだろうと思った。この説が正しいかどうか保証できないが、最後まで改作に及んだのかは、いかにも芭蕉らしいと思った。」

同行した曾良の日記との違いをあれこれ言われているが、私はこのロナルド・キーン説に妙に説得力があると感じ、面白かった。

このメモを書きながら、「最後まで改作に及んだ・・・」は芭蕉の場合は早く死んだので、ボケの影響が改作の作業に及ばなかったようであるが、最近の長命の作家では困った事になると聞いた。また、画家でもそうしたことがあるらしい。