このところ、江南の 「 踊る埴輪 」 をネットで調べていて、初めて知った事がありました。
常識なのかもでありますが、不勉強な私にはちょっとした驚きでありました。
それまで、私の中では100%、全く疑う余地もなく、これらの埴輪は、
踊っている姿で、大きい方は男、小さい方は女でありました。
■本物の踊る埴輪 ※画像は東京国立博物館のコレクションから
以下、同サイトの説明書きであります。
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埴輪 踊る人々
野原古墳出土
復原高 64.1cm,57.0cm
古墳時代 6世紀
踊る男女とも呼ばれる特徴的な人物埴輪である。
双方とも下半分を推定復原しているが,小さい方の美豆良をつけ,
腰紐の後ろに鎌をさしている方が男性で,おそらく農夫を表しているのであろう。
大胆にデフォルメされた顔に,左手を挙げたポーズから剽軽に踊る人々を連想させるが,
同じ古墳からは儀式に参列する人物を表したとみられる埴輪が多く出土しており,
おそらく殯などの葬送の場における歌舞の姿を写したものともみられる。
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あぁ、小さい方は男だった! .....じゃあ、大きい方は女?それとも男? うーみゅ。
「連想させる」「おそらく」なので、いろいろはっきりとはしていないのでありますね。
それから、以下のちょっと古いニュースを見つけて読んだときに、
私の頭の中で、何かがカチャリと壊れた音がしました。
2006年のオンライン新聞記事で、ソースはもう削除されておりますが、
転載されていたのをコピッてきました。
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「踊る埴輪」に「馬を曳いている姿」説浮上 町、戸惑い
[2006年06月02日15時27分] 朝日新聞
「踊る埴輪(はにわ)」の学説をめぐって、発掘場所の埼玉県江南町が踊らされている。両手を上下にやったしぐさが「踊っている」と言われ続けてきたのに、実は「馬を曳(ひ)いている姿」という説が固まりつつあるからだ。町は、キャッチフレーズや特産品のキャラクターPRなどに、「踊る埴輪」を積極的に使ってきたとあって、戸惑いを隠せない。
「踊る埴輪」は1930(昭和5)年、江南町野原宮脇で2体出土した。一つは高さ約57センチ、もう一つは64センチで、現在、東京国立博物館に所蔵されている。
発見直後、考古学者が「踊る」という表現を使い、その後は長く「定説」となってきた。
しかし、この10年、全国の研究者の間で「踊っているのでなく、馬曳き(馬子)の姿」とする見方が広がり、ほぼ主流になっている。こうした流れを、朝日新聞も4月20日付朝刊の文化面で伝えた。専門家によると、手を上げた埴輪は、馬の埴輪と一緒に出土する例が全国的に増えていることも「馬子説」を後押ししているという。
この指摘に困惑しているのが江南町だ。
町のホームページを開くと、埴輪の画像とともに「踊る埴輪の里」というキャッチフレーズが目に飛び込んでくる。街頭の看板や広報誌の表紙に使われるなど、町の象徴として町民に親しまれてきた。
地元農協の地場産品として「おどるわいん」も販売されていた。町づくりの基本構想にも「豊かな収穫に感謝するために踊った古代人の姿から、夢とロマンにあふれるまちづくりをめざす」と、埴輪が大きくかかわっている。このため、従来の解釈を「おいそれ」と変更するわけにいかない事情もある。
有力視される「馬子説」に、町教育委員会の新井端次長補佐は「江南町の場合、馬の埴輪が近くから出土したわけではないし、記録もない。馬子だったかどうかは、もう古墳がないため、永久に確認できない」と見直しには消極的だ。
学術論争が熱を帯びる一方で、「踊る埴輪」の存在感は健在だ。来春のオープンをめざし建設中の町文化財センターでも、入り口付近に原寸大のレプリカが配置される。ただ、説明で、踊る説と馬子説の両論を併記する予定という。
江南町は、来年2月の熊谷市との合併で、町史にピリオドが打たれる。
福田征芳町長は「今まで『踊る埴輪』できていたのである意味ショックだ。しかし、学説は学説。合併しても地域のシンボルであることに変わりはない」と話す。
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記事の出だしがちょっとうまい。わはは。
これを読む限りは、発見直後の見た目の表現が固定化したというあだ名のようなものと、
さまざまな発掘調査を元にした推測とでは、「踊る」は分が悪いように思うのであります。
だとすると、男女でもなければ、踊ってもいない。
うーみゅ。
「もう古墳がないため、永久に確認できない」とか、「学説は学説」とか、
駄々っ子のようなことを言っておられますが、私もそれに乗ることにしました。
なので、頭の中で壊れた何かをカチャカチャと組み立て直しました。
こっ、この江南の埴輪は、おっ、おっ、踊る、だだ男女の、はっ、はっ、埴輪であります。
■あくまでこうであります.....。
して、単なる興味で、馬曳き(馬子)の埴輪というのを、ネットで探すとたくさんありました。
■矢田野エジリ古墳 ハイルヒッ
■配置的にはこうであります。 ※江南の隣の隣の嵐山町の「丘陵人の叙事詩」より
それにしても、上記二つの古墳の埴輪を見ても思うのですが、
表情に乏しいというか暗いというか、そういう印象があります。
比べて江南の踊る埴輪の、まんまるの目とまんまるの開いた口が作る表情は、
なんておおらかで愉快なことでありましょう。
国宝や重要文化財が並ぶ東博の考古コレクションの中でも一線を画しております。
※画像は東京国立博物館のコレクションから
左は国宝の「 挂甲の武人 」 群馬県太田市飯塚町出土。
右は重文の「 腰かける巫女 」 群馬県大泉町古海出土。
江南の踊る埴輪と同じ6世紀ということでありますが、とても精巧緻密な作りで、
同じ時代とは思えないほどビューティフルであります。
すごいぞっ、群馬の埴輪づくりの人!
江南の踊る埴輪を作った人の作風?であれば、
もし、馬子の埴輪があるならば、こうなるはずであります。
■うーみゅ。