知らない世界へ帰りたい(日本探求)

自分の祖先はどんなことを考えていたのか・・・日本人の来し方、行く末を読み解く試み(本棚10)。

七福神の由来

2017年07月30日 06時46分10秒 | 民俗学
 七福神に関する日経ビジネスの記事が目に留まりました。ちょっと興味があります。

■ 「なぜ七福神は外国の神様ばかりなのか?」(日経ビジネス:2017.7.8

 フムフム・・・自然崇拝の要素がある民間信仰や神道と異なり、応仁の乱後の不安定な社会情勢の中で、商人を中心に発生した信仰で、お馴染みの宝船に乗った七福神の姿は徳川家康が一枚噛んでいるようです。
 日本製(?)の神さまは恵比寿神のみで、ほかはインドや中国から借りたもの。もっとも、仏教でも外国の神さまを取り入れながら広まったという同じような構造がありますから、アジアの宗教はその辺が寛容なのかもしれません。

 ポイントを抜粋:

七福神の由来
大黒天 食物と財運の神 インド、中国の神様
恵比寿神 商売繁盛の神    日本の神様
毘沙門天 武運と財運の神 インドの財運の神様、後に中国で武運の神様
弁財天 福徳と財運の神 インドの神様
福禄寿 長寿と財運の神 中国の神様(道教)
寿老神 長寿の神       中国の神様(道教)
布袋尊 千客万来の神    中国に実在した僧侶

 7人のうち6人が商売繁盛、財運、先客万来など、商売にご利益がある神様である。さらに日本の神様は恵比寿神だけで、他の神様はインドや中国の神様。

七福神の生まれた経緯
 日本の神道は、山や川などの自然や自然現象、神話の神、怨念を残して死んだ人に“八百万の神”を見出す多神教である。そこに商売の要素はあまり見当たらない。商売繁盛の神様として最も知られる「稲荷神」も元々は稲の神、つまり農業の神様で、商売をはじめ産業全般の神様になったのは中世以降といわれている。京都にある総本山の伏見稲荷大社も、商人の人気を集めたのは江戸時代だったと伝えられている。だから、戦の世に商売繁盛を願う商人たちは、外国の神様に救いを求めたのかもしれない。

七福神巡りの発生
 日本最古の七福神(現在は「都七福神」)は、「応仁の乱」が勃発した室町時代の末から戦国時代にかけて、京都の商人たちが参拝し始め、庶民に広まったといわれている。
 戦乱が長引く中、京都の商人たちは一つの神様に参拝しているだけでは心が落ち着かず、他の神様にも参拝するようになり、「この神様、ご利益あったよ」などのウワサを聞くとたちまち参拝する、といったことを繰り返していた。そのうち複数の神様を参拝することが定着し、次第に七福神めぐりになっていったと伝えられている。

七福神と徳川家康
 世の中が落ち着いた江戸時代に徳川家康が七福神には「七福」があり、人の道に必要だと説いたことから隅田川周辺で「七福神めぐり」が盛んにおこなわれるようになった。このとき家康の求めに応じて狩野派の絵師が描いた絵が、現在の「七福神」の姿と「宝舟」であり、その後、定着した。よって、今に伝わる七福神像は徳川家康が広めたものといえる。

エビス神
 日本最古の七福神の中でも、最も商人にゆかりのある商売繁盛の神様「京都ゑびす神社」は、 鎌倉時代の1202年(建仁2年)、栄西禅師が「建仁寺」を開山したとき、鎮守として建てた神社。
 参拝の仕方は、本殿に手を合わせた後、左側の拝殿に回ってトントンと扉を叩いて参拝すると願いが叶うとされている。
 入り口に近い右側に「財布塚」と「名刺塚」がある。「財布塚」は松下幸之助さんが寄進されたもの。名刺塚は京都実業界の重鎮で105歳の長寿をまっとうされた吉村孫三郎氏の寄進。

大黒天
 応仁の乱後、政府の加護なしに自らの力で商売をせざるを得なくなった京都の商人たちはまず、恵比寿神と、比叡山延暦寺を開いた最澄が延暦寺の台所に祭った大黒天(毘沙門天と弁財天との合体神)を一対で祭るようになった。
 室町時代中期までは、恵比寿信仰と大黒天信仰はまったく別で、それぞれ別の宗派のように分かれていたのに、戦乱の世に2神を一緒に祭り始めた。
 さらに商人たちは京都の鞍馬寺に祭られていた毘沙門天にも参拝するようになった。
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