知らない世界へ帰りたい(日本探求)

自分の祖先はどんなことを考えていたのか・・・日本人の来し方、行く末を読み解く試み(本棚10)。

「氏神さまと鎮守さま〜神社の民俗史〜」(新谷尚紀著)

2018年01月07日 15時04分12秒 | 神社・神道
氏神さまと鎮守さま〜神社の民俗史〜
新谷尚紀著、講談社選書、2017年発行



<内容紹介>
日ごろ意識することは少なくとも、初詣や秋祭り、七五三のお宮参りと、私たちの日常に神社は寄りそっている。我々にとって、神とは、そして日本とはなにか? 民俗調査の成果をふまえ、ごくふつうの村や町の一画に祭られる「氏神」や「鎮守」をキーワードに、つねに人びとの生活とともにあった土地や氏と不可分の神々や祭礼を精緻に探究。日本人の神観念や信心のかたちとしての神や神社の姿と変容のさまを、いきいきと描き出す。


 私の興味を持つ「民俗」と「神社」・・・ど真ん中のストライク本です。 
 それもパワースポットとなる有名神社ではなく、村の鎮守さまレベルのお社が人々の生活の中でどう位置づけられてきたのか、を扱った内容です。
 まさに「知らない世界に帰りたい」。

 記述はわかりやすい啓蒙本ではなく、資料を根拠にした論文と言っても差し支えない高いレベルで、よほど興味がなければ読破は困難と思われます。
 漢字の羅列の古文書や昔の人物の名前がイヤと言うほど出てきます。まるで「イヤなら読むのをやめてもいいんだよ」と試されているかのよう。

 縄文時代、弥生時代の定義が学会レベルで揺らいでいる事実から始まり、神社祭祀の方法の変遷、氏神・産土神・鎮守神の違いを文献から紐解いて説明し、ある神社を取りあげてその歴史的変遷をたどる作業など、目が離せない内容が続きました。

 読了してみて、日本の神社ってひとことでは説明できない複雑な歴史的経緯をたどってきていることがわかりました。
 自然崇拝・民間信仰をベースに、修験道、外来宗教(仏教・道教)などの影響を受け、さらに時代的に荘園制度や不安定な社会情勢(→ 熊野神社)、武士社会(→ 八幡宮)でその管理者と神様の勧請が変遷し、最終的に現行の氏子制度に落ち着いたのは江戸時代のようです。
 これらの多様な神社が、一部は変化し、一部は残り、それらが混在して現在に至っています。
 著者はこの現象を「神社の上書き保存」というパソコン用語を用いて説明しています。上手いこといいますね〜。

 神さまの種類や性質は変わっても、その底流に流れているコアなものは、その地域・が結束するための装置・システムではないか、と感じました。
 現在でも、境内に公民館や自治会館が設置されている地方の神社は珍しくありませんし、そのように地域では神社がきちんと生き残っていますね。

“まえがき”から
 日本で稲作が普及したのは紀元前後。
 それまでの狩猟採集と異なり、稲作には継続的な集団労働と統率力・結束力が必要なため強力なリーダーが必要になります。つまり権力者の出現です。
 7世紀の飛鳥時代の中央集権を担った天武・持統天皇は仏教が浸透したことが有名である一方で、神社祭祀が国家的な規模で整備された時代でもありました。
 その神祭りの中心が稲の祭りであり、稲と米は権力と祭祀に密着したもの、政治の結晶として結実し、1000年以上経った現在でも引き継がれています。
 祭祀の上では天皇の毎年の新嘗祭(にいなめさい)や天皇即位に際しての大嘗祭(だいじょうさい)。
 政治の上でも、古代の律令制下の田租、古代中世の荘園公領制下の年貢、近世の幕藩制下でも稲と米の生産高を基準とする所領支配と徴税システムとしての石高制が整備され、そのもとで年貢米が重要な意味を持ちました。


“おわりに”から
 文献記録と民俗伝承から明らかとなったのは以下の7点;

1.氏神とは、
①氏族の祖神
②氏族の守護神
③氏族が本貫地で祀る神
という3つの例があり、③は産土の神に共通する。

2.鎮守の神とは、文字通り反乱を鎮圧する守護神という意味で、旧来の神社に対して、あらためて王城鎮守・国鎮守・荘郷鎮守という位置づけがなされる例がみられたり、新たに勧請された神社の例もあった。

3.荘園領主が祀る荘園鎮守社が、中世には在地武士の氏神となり、近世には村落住民の氏神となるという展開例が近畿地方の農村では多くみられた。

4.その近畿地方の農村での氏神の祭祀においては、中世武士や近世村民が順番に一年神主(当屋)を務める宮座が形成される例、つまり、宮座祭祀という方式が形成される例が多くみられた。

5.中国地方など、荘園鎮守社が設営されなかった地方では、戦国武将が領内の農民と呼応して、武運長久と五穀豊穣と庄民快楽という双方向的な現世利益を願う形の氏神の神社が創建されたり再建されていき、それが近世社会では村民が氏子として祀る氏神へとなっていった。

6.その中国地方の例では、宮座祭祀という形ではなく、戦国武将の家臣の内から有力な神職家が出てその氏神の妻子に当たり、その神職家が筋性から近現代まで継承されている例が多い。

7.その戦国武将が覇権を握った領地にさかんに再建をしていった氏神の場合も、もともとはそれ以前に領主や村民が祀っていた神々が存在しており、その神格は素朴な山や田や水などの神々から、外来の黄幡神や大歳神など霊験豊かな神々へ、さらには中世武将が勧請した熊野新宮や八幡宮へといういわば祭神の上書き保存が繰り返されている例が、一つの展開例として注目された。

■ 神を祀る方法は「祓え清め」
 神々を祀る方法の基本は「祓え清め」である。
 人々がその祓え清めを行った上で祈り願ったことは、平和(天下泰平)・豊作(五穀豊穣)・生命(子孫繁盛)という3つの基本的な願いである。

日本の神々
 日本の神々とは、自然の恩恵と脅威が心象化されたものであり、稲作の王権を生み出したその沿革を語る記紀神話が神々の中心である。
(天照大神)高天原と太陽の象徴
(月読命)つくよみのみこと。夜の世界と月の象徴
(素戔嗚尊/須佐之男命)大海原と雨水の象徴
ーである。
 しかし、現在の日本各地の神社や神祇の信仰の実態は非常に複雑であり、古代の神話が語るそのままではない。歴史的な日本の信仰伝承の展開の要点は以下の通り;

①古代日本の神々への神話的なレベルでの神祇信仰とその伝承
②中国から伝来した陰陽五行の思想や道教の信仰や呪法などの受容とその消化と醸成
③古代インドで生まれ中国に伝えられてそこで醸成され、6世紀半ば以降に韓半島を経て日本に伝わり、またその後も7〜9世紀までの遣唐使に随行した僧侶たちによって伝えられた仏教信仰

ーという三社の併存混淆状態であった。

 中世世界では、この三本交じりの本流が複雑怪奇に展開する。
・神祇信仰も古代の素朴なままではなかったし、陰陽五行信仰も卜占や防疫や呪術の信仰として中世的な進化を遂げていった。
・山岳信仰と神仏習合を核とする山岳修験の活発化もめざましく、仏教信仰も密教化の勢いを加速させながらその顕密体制の根底は維持しつつ、一方で新たな宋学禅宗の伝来や新仏教諸派の旺盛な活動によって動揺し活性化していった。
・律令制の動揺から荘園制の形式へという古代国家の根幹の転換が、神仏信仰の世界にも響き合い、さらに武家政権の誕生と大陸貿易の活性化は、新たに中世的な神仏信仰や霊異霊妙な信仰を生み出していった。そして、
④さまざまな霊妙怪奇な神仏信仰(牛頭天王、毘沙門天、大黒天、帝釈天、吉祥天、弁財天、茶吉尼点:だきにてん、宇賀神、第六天魔王など)の創生と流通が起こり、とくに室町期以降に流行した七福神などさまざまな庶民信仰の流布
ーであった。 
 中世社会はそうした多様な呪的で霊妙な神仏信仰の混淆や展開がみられた時代であり、それら4本の信仰潮流が混合混淆しながら近世社会へと一般化していき、また近代現代へと伝えられてきて今日の日本の信仰世界を作り出してきている。
 しかしそのような複雑で混淆的な信仰伝承ではあっても、神祇信仰、陰陽五行信仰、仏教信仰、中世的な呪的霊異神仏信仰、という基本的な四者は、決して混合融合してしまって元の形や仲美をなくしてしまっているわけではない。
 長い歴史の流れの中で、時代ごとに流行した様々な霊験や現世利益を求める信仰や呪法が取り入れられていながらも、その一方では、自然界の森や山や岩や川やそれらを包む森林に清新な神々の存在を感じ、それを信じて敬い拝んできたという基本だけは守り伝えられているのが日本の神社である。
 神社とは祓え清めの場であり、精神性を基本とする、大自然の神の祭りの場なのである。

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