知らない世界へ帰りたい(日本探求)

自分の祖先はどんなことを考えていたのか・・・日本人の来し方、行く末を読み解く試み(本棚10)。

岡倉天心の「Asia is one」という思想

2016年12月08日 17時04分43秒 | 寺・仏教
 NHK-BS放映の、英雄たちの選択「神と仏の明治維新 若き官僚 岡倉天心の挑戦」という番組を見ました。

解説
明治初年に巻き起こった仏教排斥の嵐。暴動化した市民が寺院を襲い、仏像を破壊した。それは、新政府の思惑をはるかにこえ、大混乱に発展した。「廃仏稀釈」(はいぶつきしゃく)である。それに危機感を抱いた若き岡倉天心は決意する。新しい時代の混乱の中で、日本の伝統的なものを破壊することは、日本人の心の否定につながるのではないか?日本人の心を守らねば…。17歳で、文部官僚となった天心の挑戦に迫る。




 明治政府は江戸幕府の庇護を受けて発展した仏教と寺を否定すべく「神仏分離令」を公布し、日本古来の宗教である神道を元に民衆の精神を束ねようと目論みました。
 しかし、政府の思惑を上回る形で「廃仏毀釈運動」が起こり席巻しました。
 仏像は破壊され、木造の仏を焼いて風呂を沸かしてはいるという罰当たりな行動もあったそうです。
 民衆はお寺に対して非難めいたまなざしで見ていたのですね。

 東京大学を卒業したての岡倉天心(※)は、外国人の雇われ教授だったフェノロサの奈良調査に通訳として同行し、破壊し尽くされた仏像の悲惨な姿を目にします。
※ 岡倉天心は17歳で東京大学を卒業した秀才だったそうです。

 さらに、この機に乗じて、日本の仏教系美術品の海外流出が止まりませんでした。
 「これでは日本の伝統的美術品がなくなってしまう」
 と危機感を抱いた天心は早速行動に移し、関西地域の古美術品の調査と管理を任されます。
 さらに、東京美術院(現・東京芸術大学)の創設に参加し、初代校長に就任しました。

 しかし時代は文明開化の波が押し寄せ、西洋文明礼賛の勢いに日本の伝統は押し流されてしまいがち。
 東京美術院にも西洋画学科が創設され、失意の天心は美術院を去ることになりました。

 下野した天心は逆境をものともせず、ボストン美術館の仕事を依頼されたり、茨城県の五浦に日本画の創作場をもうけて、横山大観などと行動を共にしました。
 
 その後、インドへ美術調査目的で訪問し、奈良で見た仏教美術の源流がここにあることを実感しました。
 インドや中国の美術が流れ着き集積し昇華したのが日本美術であることに気づいたのでした。

 「日本美術は西洋美術に劣ることはない。アジア美術の結晶が日本美術なのだ。」
 という考えに至り、後に著した「茶の本」に「Asia in one」と記したのでした。

 素晴らしい。

 現在の日本人の中にも、西洋信仰が根強く残っています。
 この番組を視聴して、日本の立ち位置をどこに設定すべきなのか、あらためて考えさせられました。

 髪の毛を染め、西洋の真似をして「文明国」面をするのか?
 それともアジアを代表して西洋に臨むのか?