Sweet Dadaism

無意味で美しいものこそが、日々を彩る糧となる。

柳に関するファンタジィ

2009-04-28 | 春夏秋冬
 もう枝垂桜も八重桜もあらかた散りおわって、街路はみどり一色に変貌してきた。
 オフィスの窓から見下ろす柳の葉の色が日々色濃くなっていくのを感じる。

 「枯れ際の花はいやらしいよね」 とあるとき友人が云った。
そういう意味で、いやらしさの筆頭にあげられるのはくちなしだと勝手に思っている。

 友人もわたしも、部屋に活けたままの枯れかけの花をどうにも捨てられない。
首がくたりとして、花弁が一枚ずつぽろぽろと泣くようにこぼれて、泣きつかれて諦めたように茶けた色してやつれ干乾びてゆく過程も、あでやかな花がかならず辿る「花らしい」すがたのひとつだと思うからだ。べろり、なんて音がしそうな、秘めやかさも華やかさも捨て去った(それはつい今しがたまで持っていたものだからこそ)だらしのない枯れざまが、「いやらしい」と形容される最も大きな要因か。
 大概、ひとは誰かが徐々にやつれゆくさまや回復の兆しを見せずに弱り続けている様子をじっと見つづけるに耐えないから、視界からはずす。それと同じような理屈で、美しさの骨頂をすぎようとする花を人は躊躇いなくゴミ箱へと追い遣る。「花がおわっちゃった」と云って。


 枯れかけの花とさして遠くないいやらしさを、柳の木は持っていると思っている。
西欧の庭園にありがちな、葉をざわざわと茂らせたユーカリのような威勢のいい柳ではなく、川沿いにあって朝の爽やかな光などてんで似合わない日本の柳。何年を経てもなかなかふくよかにも豪壮にもならない細い幹は、木々の葉が太陽を向いて威勢よく萌え出す季節にあっても、下を向いたままけだるそうに小さな葉をしゅるりと芽吹かせる。

 まだ二十歳そこそこの小娘が崩し結びの帯にいっぱしに着物の襟を深く抜いて、川面を眺めながら無理な恋の相手のことでも力なく考えているような風情。そんな女は多分世界にいっぱいいるのに、自分がすべて、自分の世界がすべてだと信じて疑わない初々しさ。柳の若い枝が夜風に揺れるさまは、やさぐれた諦念と、本人すらも気付いていないまっすぐな若さが同居する屈折した美しさを想起させる。

 隅田川の川べりに立ち並ぶ柳が夕暮れの残照を背に揺れている。
 川に飛び込む気なんてほんとうはさらさらないのに、川岸の間近で逡巡するふりをして。