Sweet Dadaism

無意味で美しいものこそが、日々を彩る糧となる。

さよなら、私の、

2008-12-29 | 徒然雑記
出逢いがあるなら等しい数だけ別れがあることくらいわかっている。
頭ではよくよくわかっている。


先日久々に訪れた渋谷で、いつものように立ち寄るはずだった喫茶店が閉店していた。遺された看板の小さなスポットライトだけが乱暴に取り外されたさまが寒々しかった。

7メートルもの一枚板のカウンタがすきだった。
本を読むには少々薄暗い店内がすきだった。
ショパンのピアノや、バッハのヴァイオリンソナタの微音量がすきだった。

マスターが一粒ごとにチェックする豆で淹れた珈琲は勿論、
珈琲に合わせることしか考えていないチーズケーキも
扉のステンドグラスも
化粧室の静かなお香も
豪勢に飾られた花も
機械仕掛けの店内装置も

なにもかもがすきだった。


カウンタの左から三番目、右手のあたりに大きな木の節がある席で
13年前にはフランス語の宿題をこなし
11年前には卒論の文献を訳し
8年前にはマスターにシリアの写真を見せて
5年前には引越しの報告をして
3年前には帰京の報告をして
今年には普通に笑顔でお話をして
来年は。


わたしの上京から今日までの景色の一部、わたしにとっての「東京」の景色の中にに必ずそこはあって、それはわたしにとって掛け替えのない何かで、わたしの一部はそれによって充たされていた。

それがない明日。わたしにとっての何かが欠けた東京の景色。
そこは、私のなんだったんだろう。

適切な言葉を見つけることができないままに、冬のせいだけじゃなく非常に寒い。