Sweet Dadaism

無意味で美しいものこそが、日々を彩る糧となる。

冬の耳。

2005-12-21 | 春夏秋冬
 今日こそは課題のレポートを仕上げようと思って図書館へ行った日のことだ。
目に付く紅いマニキュアをした女が本を何冊も両手に抱えて、どっこいしょ、という感じで僕の隣の机に腰を下ろした。ぼろぼろの背表紙と愛想のない黒や茶色の本たちの間に爪の紅が食い込むようで、そのアンバランスさが妙に綺麗に見えた。

僕も女も、黙々と本に目を落とし始めた、つもりだった。
女の呼吸は下手くそな篳篥のようなひゅぅひゅぅいう音を立てて、その音が微かであればあるほど余計に耳についてしまって、僕を苛々させた。久しぶりに図書館に来たっていうのに、席取りを失敗したかな、と思って僕は忌々しい気分とともに女のほうを一瞥した。
 
 女は、本のページをめくるたびにはらりと落ちてしまう前髪を邪魔そうに耳にかける仕事を繰り返していた。僕の目はその耳に釘付けになった。細い髪の束が耳にしっかりかかっている間のみ確認できるのだが、耳が明らかにぱたぱたと羽のように動いている。自分が見たものの意味が判らなくて、女がページをめくって再びはらりと髪が落ちると、もう一度その髪をかき上げて耳が露わになるのを待った。二度目のときも、やっぱりぱたぱた、と耳は動く。僕がぽかんと口を開けてしまっているそのときに、女は髪を右手の指に絡ませたまま、僕のほうに視線をふっと向けた。

女はまず、僕の顔を見てくくっと笑った。
「あ、気になる?ごめんなさいね。」
「あ、いえ、そんなことは。どうもすみません。」
何を言っているんだ僕は。ばか丸出しのような台詞に自分ですら呆れる。

「わたし、暖かいところで生まれたから、冬が苦手なの。冬になると空気が冷たくて気管支がきゅうぅって縮こまってしまうの。だからその代わりに、耳で補助的に呼吸ができるようになっているのよ。」
「は?耳で、呼吸?」
何を言っているんだこの女は。見たところおかしな人でもなさそうだし・・かといって僕もおかしくないぞ。その耳がおかしくなくて、何がおかしいっていうんだ。
混乱している僕を置いてけぼりに、至極当然といった調子で女は続けた。

「あぁ、あなたはまだ会ったことないから知らないのかしら。わたしの場合は耳だから目立っちゃうんだけど、結構いるのよ、わたしみたいな人。逆に夏の暑い季節になると気管支が拡張しちゃうから困るっていう人もいるしね。わたしの知ってる限り、他の人は耳じゃなくてたとえばそうね、爪とか、髪とかが一般的だけど・・面白いところではおへそとかで呼吸を補助できる人もいるのよ。いいわよね、そういう人は目立たなくって。私の場合は耳だから、どうしても呼吸に合わせてぱたぱた動くのを止められないのよ。」

 そう話している最中も、女の耳は会話の途中で、普通だったら息を継ぐタイミングでぱたた、と動く。
確かに僕は札幌生まれだから寒さはそれ程苦手じゃない。かといって、夏にも別に呼吸に不便を感じることはない。今まで僕が出逢った人の中には、こんな不思議なシステムを持つ人は居なかった。いや、本当に居なかったと言えるのか?

相変わらずうむむと唸っている僕を見て、女は再びくく、と笑った。
「ごめんなさいね、お勉強の邪魔しちゃったかしら。でも、わざとじゃないから許して頂戴ね。今まで知らなかったかもしれないけど、こういう人もいるのよ。もう邪魔しないように移動するから、じゃぁね。」

軽く手を振るのに合わせてその耳をぱたぱたっと振りながら、女は何事もなかったかのようにまた重そうな本を抱えてどこかへ行った。


 生物系の研究をしている友人がかつて云っていた言葉が脳裡をよぎった。
『人間・・に限らないんだけど、まぁ生物の身体ってさ、本当に複雑なんだけど、本当によくできてるんだなぁって最近特に思うんだよねぇ。』