conparu blog

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天照らす王家

2014-11-07 10:41:35 | 随想

天孫族の系譜で最も上位にあるのは天照大神であるが、これは人名ではなく信仰の対象である。おそらく大陸にいた祖先の時から祭られていたもの、太陽崇拝信仰が背景にあるのだと思う。
人名で最初に出てくるのが太子天忍穂耳尊(アメノオシホミミ)と妃ヨロズハタトヨアキツシ姫(高木神の娘)であり、邪馬台国の卑弥呼や台与は出てこない。・・・となると古代の国家成立から考えて、北九州の群立国家の中で対外折衝に当たっていた官庁所在地は「伊都国」であるとされるから、実力から言って中心的な勢力圏を持っていた伊都国が、一時的に邪馬台国の卑弥呼に統括を認めたと考える。女王を以って争乱を抑えるためである。再び争乱が起きた後には台与を以って『邪馬台国』の消滅が訪れた可能性もある。

では「伊都国」がその後の九州を支配したのかと云うと、その痕跡も見られない。太子忍穂耳尊の登場を以って九州の新王朝(神の国=高天原)が出現したものと思う。おそらく朝鮮半島から渡来した王族の一人であろう。
一方出雲族の方は、早い時期から渡来して広い地域を支配していた。中世の桓武平氏が関東一円を支配していた構図と同じである。後発の清和源氏が関東の覇者となるには、平直方(後の源頼義=嫡流)を婿に迎えることで基盤が出来るのである。

他部族を排除するのではなく同化しつつ主導権を握っていく。天孫族が出雲族の中に融和していく過程が、天若日子と孫の饒速日の出雲族への入り婿であった。ただ、主導権までは得られなかったようである。古事記第五項「天照大神と大国主命」の「天若日子」の段では、若日子が婿に入ったまま、「8年経っても音沙汰がないのはどうしたものか」と高天原の神たちが騒いでいる。そうしているうちに出雲では若日子の孫である饒速日が事代主の妹御炊屋姫と結婚して宇摩志麻治を産むに至った。

目論見の外れた高天原では、追討軍として太子天忍穂耳尊を送ることにした。若日子も王子であったから兄弟と云うことになる。太子天忍穂耳は自分に代えて子の瓊々杵尊を送ることになる。
若日子から太子忍穂耳尊そして瓊々杵の行動がかなり躍動的に記されているにも拘らず、それ以前の祖親が記されていないのは如何したことか。語るに語れない理由があるのだとしたら、戦いに敗れて渡来したか、何かの理由で親から追放されたと云うことも考えられる。

古事記の謎のひとつに「豊葦原水穂の国」「葦原中つ国水穂の国」とがあるけれど、前者は「豊」が示すように日向や豊前豊後の九州東部の広範な平地を指しているのではないか。後者は出雲の支配する豊かな土地を表しているように思う。

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