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白川古事考 巻ノ五 前編 廣瀬典編<桑名図書館蔵>に触れる

2019-03-16 12:58:02 | 歴史

 白川古事考 巻ノ五 前編 


(その1)
  古墟
一、搦目村城跡は結城宗広が居た。皇子義良と北畠顕家同じく顕信も暫くの間、ここに入っておられた。と光明寺残編にある。古の白川城と云うのが是れであり、永禄年中に小峰氏が白河を奪った時より廃した墟である。今の白川は小峰城である。臣(典)かつて宗廣、親光の為にその忠壮を感じて、「定信公」の三大字を請け奉り、その下に文章を綴って古墟の北崖、石壁の半腹に彫る。

   

一、菅生館は搦目古墟の西に当たる山に在り、菅生傳右衛門と云う者の墟であった。結城内に菅生氏は多いが年代不詳である。
一、舟田村の城跡の広さ、二丁四方(218m四方)ばかりの空堀あり。結城の旗下、常松関入道と云う者が居た。天文年中、石川郡龍﨑村館主須田紀伊守(岩瀬郡須賀川二階堂盛義の臣)の二男松五郎という者を、舟田善右衛門の養子とした。天正十七年舟田入道真海(関物語に舟田輿七郎友綱、後に舟田入道真海とあり)其の子與十郎友継、岩瀬郡大里村の城を伊達政宗に従って攻める。この城跡の下の大隈川に入道淵と云うところあり、何時の頃か城主舟田入道は敵の急な攻めに遭い、防戦利無くして自ら淵に身を投げて死んだ。それよりこの処を入道淵と名付けたとある。

一、同村小字百目木(とうめき)と云う所に、結城ノ臣百目木修理亮が居た。修理亮の忠死は実に古人に恥じない事であった。結城義親の条に採録する。

一、田島村は結城宗広の弟、田島輿七左衛門廣尭の館跡あり。其の子の田島信濃と云う数世の後に田島信濃守景久あり、佐竹と戦争して討死する。景久の時に此の虚において大蛇を害し、北面の崖に埋めて□(木偏に厭)を植えたので龍害の館とも云う。今でも古木の□あり。(蛇を害したのは親類の大塚宮内左衛門であるとも云う)景久の子田島信濃守は結城義親が白川修理大夫義顕を害しようとしたのを救った事によって、義親の為に攻め寄られた。信濃守は自ら城に火を掛け、打って出て切り死にした。それ以後は城を廃する。信濃守景久を法戦道閑と云い、田島村清光寺に位牌がある。清光寺に古碑多いものの字は皆堙没している。白川の地は石を出すこと多いが至って粗悪で、清光寺に限ったことでなく双石村坊の入り松林庵の跡にも、嘉歴二年の字のみ存する碑あり。この類いを惜しむに堪えない。

一、借宿村新地山は石井丹波という人の館跡であると云う。天正の始めより佐竹氏が度々白川を攻め、この道筋より兵を出したことで結城氏がこの墟に大塚宮内左衛門を置き、大隈川を隔てた木ノ内の館と呼応して防戦したと云う。宮内左衛門尉始めは同郡塙の羽黒の館に居たが、攻め落とされて関和久村に潜んで居た折り、結城氏がこの城を授けて防いだという。宮内左衛門の子同佐太郎は、佐竹が白河を攻めた時に加勢として大勢の枉内(=まがる、囲みの中か)へ切り入って戦ったが、今で云う波多下という所の深田へ誤って馬を駈け落してしまい、もはや叶わずと覚悟して「敵も味方も良く聞き候得、武士の戦場で叶わぬ時は斯くこそ仕り候へ」と手本を見せ置くとばかり腹を掻き切って死んだ。

 又その弟小十郎は天正十八年岩瀬郡大黒の城主矢田野阿波を攻めた時に、伊達政宗朝臣の催促に応じた結城義親により、小十郎をも加勢の衆に加えて遣ったが、大勢と戦ったあげく叶わぬ時を迎えて討死する。兄にも劣らぬ働をして家名を揚げた。その弟甚九郎も度々戦功を顕わしたが、結城家没落の時より関和久へ引き篭って農夫となり、その子孫は今にある。その弟の小八郎は合戦坂の軍に功を顕わしたが、後の今の白河町年寄り大塚半左衛門の先祖である。

一、本沼村の南羽黒という館は義家朝臣が奥州下向の時、人馬調練の為に暫く此所に滞留したという。結城を侵した佐竹勢が大隈川に沿って攻め上り、遂に此の館をも攻め落としたことが板橋農家の旧記にある。館主の姓名は伝わっていない。

一、同村民家の地で半ばより北は空堀を回せる館跡と言われるが、誰氏の居であるか詳ならず。天正の頃結城旗下に本沼下野守あり、此の人の館跡ではないだろうか。

一、泉崎村の墟は方九十間ほどで結城ノ臣辺見(人見とも云う)主膳正が居住した。天正十六年石川郡中畠城上野介二男右馬頭を家督に約束したが、主膳正が兄の下野國烏山の城主何某へ告げて知らせると、「他族より家督を迎えること有ってはならない」と許容されなかった。中畠上野介は此れを聞いて大いに怒り、軍勢を差し向けて泉﨑を乗っ取る。しかし一度は子と為し父と定めたこともあり、主膳正を助けて別の所に押し込めて置いた。今その所を『殿の入り』と云う小字になっている。
 その時の家老は、富窪と云う所に小林筑後、根岸に野崎筑前、枉内に三村若狭、中ノ内に鈴木若狭と、村の中四カ所に居していたと云う。
 按=下野烏山は那須家累世の居城であり、中頃他家に奪われる事も聞かず。佐竹の臣にも人見主膳と云う人あり、此の人が若しかしたら泉﨑の主膳と兄弟なのか、又はそうではないとしても同じ主膳を名乗る別人とも知りがたい。佐竹は那須の地を攻め取って烏山近くまで領した故に、人見をその近辺に置いていたのを、誤って烏山城主と云ったのかは未だ詳でない。

一、関和久村伊賀館は熊田伊賀の居、結城の老臣で忠氏と名乗る。子孫に若狭助兼氏あり。関物語には熊田輿惣左衛門光行、後に若狭と号する。佐竹勢後切りの時、河東田上総介、高田玄蕃、高橋安芸守等と烏峠に忍んで居て功を顕わす。この始終未だ詳しく聞かない。

一、同村上野館は回り三丁余、四方に堀跡あり。館主不詳(会津四家合考に義親が関和久に城を築き、伊達政宗、伊達成実に加勢した事あり、この城であろうか)

一、同村西端に館跡あり、家田刑部正居住する。
一、同村戌亥の方(北西)に館跡一ヵ所あり。東西一丁余溝跡があり、結城ノ臣加東田上総介家治居住する。
一、同村木ノ内山館=佐竹氏が結城氏を攻める時、此所で防いだ事古記に見える。
一、大和田村小屋ガ上の館は山上に空堀を巡らし、中央に石を積んだ亀のような跡あり。白石出雲守館跡と云う此の人の年代は不詳である。永禄の頃白石刑部大輔が此所に住んだ。(今の石川郡内白石村に住んだものか、石川昭光が佐竹に対抗して段々に土地を縮めた故に、刑部大輔も白石村を去って此の地に移ったのであろうか)南郷においては佐竹との戦い、浅川においては石川の臣浅川次郎左衛門との戦いに見える。永禄三年遂に新城の合戦に討たれる。その子孫の有無は聞かないが、その時より廃墟になったのではないか。

一、新小萱村に新小萱雅楽頭䔍綱の墟、東西一丁南北四十間あり。永禄三年新城の新城備後守須田源治郎が白川結城に叛いて、岩瀬郡の二階堂の旗下に属したのを、結城晴綱が怒って䔍綱を大将に白石刑部大輔を先陣として新城須田を攻める。この時白川勢は打ち負けて、白石は保土原江南齊の従兵、小松源六小松新介の為に討たれる。䔍綱は鎧の隙間に矢三筋を負って引き退いたが、その疵のために終に死んだ。この村の石雲寺の山後に䔍綱の碑があり、後の人の建立である。石雲寺は新小萱氏の建てる所と言われる。
 按=保土原江南齊は岩瀬郡保土原に居り、二階堂氏のもと代々此の地を有する。父兵部大輔行有は和歌を善くした人であり、江南齊は左近行藤と云われた人である。須賀川落城の後は伊達政宗に属して朝鮮陣へ赴き、大坂陣にも功ある事は系譜に詳らかである。

一、三城目村鷹巣館は往古は伊藤大学なる者が和州(大和)より来て館主になった。(今の村長である伊藤某の先祖であると、その家に言い伝わる。祐の字を代々用いる因を考えると、安積郡は文治五年に工藤左衛門尉祐経に頼朝卿より賜わってより、安積郡の村々に伊藤氏がある。この郡には他の姓が無いほどで皆祐の字を名乗る。「仙道表鑑、積達古館弁」等を見て知ると善い。其れならば大学も大和より来たのでは無く、隣郷の安積の内より来てこの城に住んだのではないか)石川郡中畠の上野介晴辰は永禄年中に是れを攻め取り、天正十八年白川結城没落後に廃城となる。晴辰は結城の家を継ぐべきなのを避け、中畠へ養子となって小家を継いだ。小田原参陣も義親に申し出て、太閤へ謁見するのを勧めた謀も議もある人である。義親の為に石川昭光に番うなど主のために尽くした。水戸結城の藏に(義親没落後の窮状が忍ばれ、石川との取りなしをした中畠上野介への労いの一筆=訳者註)

  

一、同村に陣ヶ岡館、郷蔵地館、和田ヶ館、古館、沢尻館、小松館等あり、館主は皆詳ならず。
一、長坂村小館山の館は安良勘解由という人が住んだ。羽太村大龍寺の由緒に「長福寺殿大安吉龍」の法号とある。此の人の年代事跡は不詳。
一、柏野村館跡は和知近江が住んだ。白川結城の臣である。
一、鶴生村の小名高助には結城の旗下斑目信濃守則常の館跡あり、岩瀬郡泉田村庄屋の斑目氏の由緒に『源頼朝公の御子が結城家へ養子となって参られた時、鎌倉より付き添われた四天王の随一、斑目越後守の末葉で増見村の城主斑目信濃守が後に鶴生の館に卒去する。法号を斑宗寺殿心翁淨位と云い、今の斑宗寺は此の人の位牌を納める所であり、十郎廣基の父である。廣基は別に南郷の城に居られたが、二男の越中は後に泉田の庄屋となる。

一、米村館跡あり、館岡入道という人が住んだ。年代不詳。
一、小田倉村西平野に館跡あり、事実不詳。結城歴代事実の部に載せた、蘆名盛氏が那須と合戦した時の館である。共側山の懐に岩山あり、喚く石と云って此方に喚けば彼方に答える所あり、その合戦の時も矢叫びの声が此れに響いて夥しく聞こえた。
一、飯土用村に高徳清光という者の館跡あり、其の人の事不詳。
一、益見村館跡は和知駿河守一慶が居た。永正年中に討死した人と云われ、源姓で実名は朝昌。法名は福正寺殿圓山大鏡。今その村に正福寺と云う寺あり、鶴生の高助に載せた斑目もこの村に住んだが、和知と前後するかは不詳。
一、下羽田村館跡は結城の臣南大膳という人が住んだ。
一、小田川岩久保切岸館=結城治部大輔義顕は白川城を義親に乗っ取られ、後は此所に居した。また殿上と云う所にも居たと伝えられる。同村山館館主不詳。
一、双石村館跡は結城の臣本名佐藤大隅守忠胤が居た。後に双石駿河守とも云い、関物語に「此の人上方より武者修行に来たのを、晴綱が留めて軍師にした」とあり、子孫は今双石村の庄屋である。伊達政宗の文書、白河町商家に伝わる。

 右文書は大隅守が白川に仕えた後か、又は浪人の間のものか知らない。伊達と岩城は元来親族であるが、中頃において不和のことがあり、大隅守が和平を取り持ちした。双石村坊ノ入りの熊野祠の上に故墟あり、佐竹と白川が合戦坂の軍の時、大隅守討死したと関物語に見えている。

一、白河城下関川寺の地は館跡である。土居空堀の跡が西南を回り、東南は本田能登守忠義が隠棲几景地を経営する時に切り開いてより土居等は存していない。元は誰氏の遺墟かは詳ならず。

南郷中ノ丸館、今は大清水と云い、結城旗下上遠野美濃守盛秀が居た。
按=上遠野は今菊多郡の地である。白川結城の旗下に上遠野氏多く南郷を領した。白川仲町高田屋伊兵衛の藏に
(義親号=不説からの文書、上辺に典の添え書きで『棚倉の近所にアマヤ《雨谷》と云う地あり』と記されている)


   

一、金井館は佐竹より高野八郎兼貞と云う者を差し置いて守らせた。白河結城義親に攻められて士卒多く死に、館も破却する。金井の城と云うのは、古より井戸型の石がある故に名付けて、今城跡に八竜神を勧請する。堀越村に在るので堀越八郎とも云う。高野八郎のことである。

一、新城村古墟二カ所あるが何人が居たのか詳にならず。白河郡と岩瀬郡の境目であるが、須賀川の二階堂に取られたことも有るのでは?二階堂続義と云うのは盛義の祖父であり、須賀川寺社或いは旧家に伝えられる系図には此の人見えず、仙台の家臣保土原氏も二階堂氏であり系図を伝えている。保土原氏と須賀川の二階堂の分かれを詳らかに載せて続義も載っている。此の人より天文五年、家人へ新城の内を与えたことで、須賀川領であることを知るべきである。借宿村農夫市右衛門所蔵に

   

後の永禄三年新城備後守須田源治郎は此の地に在って、白河勢新小萱䔍綱討死の事あり。上の新小萱の古城に詳らかである。その時暫くは白河に属し、再び須賀川に奪われたのに似ている。この城跡はその時の城ではないか。白川と須賀川とは界を接していれば、度々の治乱に付けて交じりもあるだろうに、この村の合戦のみ外に伝わることもなし。盛義の父二階堂照行の文書を仙台の白川家が蔵する。








一、南郷塙村羽黒館は天喜二甲午年源義家朝臣が始めて築かれたと云う。後に常陸大掾国香領する。関物語に『永正二年佐竹氏の属大塚氏が佐竹に背き、結城に属してこの城に居る』とあり、大塚系図には掃部介国久、越前守、大膳大夫、宮内左衛門尉と四代居たが宮内左衛門尉に至って佐竹に攻め落とされたと云う。佐竹に属して後は共に臣である阿野丹波守、天野下野守、柴田越後守、石川近江守、田崎相模守と相続いて居た。石川近江守は石川昭光の親族である。仙道表鑑に芦名田村この城を攻め落とし、近江守討たれる。田崎は東館をも領していた。その子孫は佐竹候の臣であった。

一、板庭村古舘、川下村古舘、中野村古舘、西川内村古舘、この四カ所は羽黒館に属し、勢援の為に築いたと云う。年代不詳。
一、中塚村に舘ヶ岡館あり、湯本因幡守が居る。因幡守の後はその村の長だと云う。大永二年の頃迄は白川結城の番城であったそうである。

一、中石井村の狐館は江田八右衛門という人が居たという。
一、伊香村に油館あり、鈴木大藏が居た。その前には湯本内匠之介居住したと云うが年代不詳。
一、関岡村の内、天神沢古舘は佐竹の臣秋山七郎が居た。同村に関岡館と云うがあり、中村大学正則が居た。白川の臣に中村氏多い。入道道忠の時には今の相馬の地迄も領したが、その節に中村氏が臣であったものの次第に土地は狭められ、後に猶臣として南郷の内を領したものである。また當基と云う人もあり、白河中町高田屋伊兵衛の藏に





一、高野村保木山館は白川と佐竹が戦争の時、佐竹より出張った館であると云う。
一、東館村に東館あり。結城ノ臣斑目十郎廣基、其の子能登守が居た。佐竹の為に攻め落とされた後、佐竹の親族の東中務大輔義久、同じく美濃守が居る。義久はこの城に居て、佐竹より軍を奥州仙道に出す時には、何時も先手の大将である。田崎氏も此れに居るという。

一、下河内村物見峠館は佳老山の北にあり、結城ノ臣斑目十郎廣基が居た。
一、赤館は今棚倉の城北にあり、何時の築城であるか、「鎌倉大草子」応永の頃に見えるのが始めで、其れより白川結城庶流が居たこと度々見えている。文明年中赤館源七郎という者が居たが、此れも白川の庶流といえる。後に白川より鹿子三河守を置く。佐竹より攻め取って和田大隅守及び其の子安房守為照に代わる。また松野上総介に代わる。慶長五年の乱には佐竹義宣が上杉景勝となれ合い、此所に出勢して暫く在陣していた。安房守為照の子玄蕃丞と云う。天正十七年伊達政宗会津を攻める。佐竹義宣は会津を救い、政宗方である田村の大平の城を攻め落とし、玄蕃は佐竹の先陣東中務大輔に従い功あり。白河中町近藤伝蔵の藏に和田玄蕃に当てた東義久の文書。


   

  巻ノ五 その2

その2
 丹羽長重棚倉を築いて移り、この城(赤館)を廃する。・
一、流村寺山舘は元亀の頃結城より深谷伊豆守治行、班目能登守両将を置く。天正年中佐竹より羽田摂津守を大将として秋山、横山等都合五百騎が百日程攻戦した。城中では手立ても尽きて終に明け渡す。これによって秋山と横山の二人は城中に楯篭もる(天神沢の館に居る秋山七郎のことか)。結城義親大いに憤り、兵を遣わして夜攻めを掛け、矢倉まで攻め上った上、門柱をも切り折りして無二無三に切り入った。郭内では馬を切り放して急に駆け出させると馬は驚いて突き立ち、白川勢へと向かって踏み荒らした。寄せ手が乱れて引き退く。
その後羽田氏に誤りあって呼び返され切腹する。四家合考に足利義氏朝臣の文書を挙げているが、この時のことではないか。

      

今宮浄蓮院と云って、常陸十二郡の山伏の先達に武勇あり、武士の業を事としていたので、佐竹によってこの城に置かれた。慶長二丁酉正月、天下の山城停止に付、山を下り館を営んでより廃した。
一、渡良瀬村古館は館主時代とも不詳。
一、富田村に菅生館あり。菅生伯耆守が居た。結城の旗下である。赤坂郷の赤坂尾張守の分家と云う。関物語に菅生舎人友国居城不分明。棚倉の押(領)であるが後に仙台へ行くとあり、棚倉は佐竹の押(領)であろう。元禄の頃迄は富田を菅生村と云っていたという。
一、硯石村古館は結城の臣穂積大学が居た。地名に因って硯石大学とも云う。赤館合戦に案内者であった大功者である。天正十八年廃城の後同村峯全院において死去する。
一、川下村狐屋(こや)館は船尾下野守(滑津村の方では山城守と云う)同郡滑津村より隠居して此の地に千石を領する。天正年中佐竹の招きにより佐竹へ属する。河上山賢瑞寺は船尾氏の開基にして位牌あり。
一、福井村仲丸館は往古田村姓の人が築いた。(田村郡田村氏の祖であろうが不詳)文亀年中城代として主将であったようで、文禄の頃断絶したという。
一、釜子村手城塚館は館主年代姓氏不詳。
一、須乗村物見城は昔小針山城守頼廣という人が住む。
一、川東田村天王寺山館は天正年中川東田大膳が住む。白川の旗下である。川東田上総守(或いは介)白川臣に見える。
 伊達郡上郡村農夫所蔵の文書
 
      

一、上野手島村御殿跡は本多弾正少弼が住んだと云う。白川に本多能登守が居られた時に分家された事が白川にある。分家の始めに住んだ所ではないか。
一、下野手島村坂本館は館主年号不詳。
栃本村小屋館は館主年号不詳。(白川親族に栃木右衛門と云う人あり、恐らく此の人の居館ではないか)
一、小貫村三城館は天正年中近藤若狭守が居る。
一、築森村城ノ越館は館主年号不詳。
一、滑津村館は船尾山城守が居た。天正十八年四月十八日落城する。その時領地二万石余で白河郡両野、出島、滑津、川東田、二子塚、小田川、太田川、泉﨑、松倉、鞜瀬、新城、石川郡澤井、赤羽、新屋敷、中野目、明岡、松崎、神田、中畑、外に川上、川下等が千石隠居の領であると云う。
一、踏瀬村の上ノ小谷村館は和田平内が住んだ。長陳場館、石関館、陳退沢館の三所は館主年暦不詳。
一、太田川村古館は三所あり。一カ所は結城の臣石射近江住む。村申酉(西南西)方に一所、寅卯(東北東)方一所は館主年代不詳。
太和久村館は多賀谷左兵衛尉住む。結城の長臣に多賀谷あり、下野國の結城にもある。この城は永禄年中に落城と云う。石川岩瀬二郡の境界であるから、須賀川の二階堂か又は石川の石川家の為に、攻め落とされたのであろうか。
一、堤村薬師館は角田伊賀守が居る。紋は松皮菱だとして今も村の鎮守、羽黒の社の箱棟に松皮菱の紋を付けてある。



一、  高野郡分合  南郷戦闘附き

高野の事は和名抄に白河の郷名高野と出て、又一カ所の注に『之良加波國分為高野郡』と既に郡を以て称していることも見える。また中古に高野へ属したのは十八郷で、今の棚倉を境にして南九郷北九郷があったと云う。今に八槻明神田植え祭の祝詞に『明神様の御田植え、殿様の御田植え、南郷九郷北郷九郷合わせて高野十八郷の殿原達、一人も残らず御出でヤレヤレ』と呼ぶ。これを田ウナイ触れと云い、また『高野十八郷の殿原達と五月女共に一人も残らず御出でヤレヤレ』とも呼び、これも田植え触れと云って久しく伝えられた祝詞である。
白川七郎の蔵に(幕府から結城親朝宛の書状)

      

一、南朝紀傳に斯波陸奥守家長と相馬胤平兄弟建武二年十二月二十三日高野郡において合戦あり。
上野入道と親朝宛ての文書

   

白河七郎の蔵に結城顕朝宛ての文書

   



   

↑文書の下にある添え書き「按、笹川殿と云っても鎌倉の満兼卿の弟を、奥州官軍の威を折らんが為に奥州安積郷笹川へ下し、その弟満直を岩瀬郡稲村に下された。応永六年の事である。其の翌年に此の旧領安堵の文書を下されたのではないか。此れは笹川殿の花押である。今の二両所に御所と唱える館あり」
 また岩瀬郡須賀川宿相楽七郎右衛門の藏に

   

上記の添え書き「経泰は唐橋肥後守也南朝紀傳に源為貞が男也、また修理亮とも古書にあり」


   

典の注書には「八ツキ明神鉢の銘に沙弥宗心あり、年号は応永十八年
十月十五日也」とある。

つづく

 これらの文書は全て高野郡と称していた時の事であり、高野郡を白川へ賜わって後に、伊達の領となり、平賀景貞の領となり、藤蔵人の領ともなった事実を知るべきである。伊達氏が此の地を領したことは絶えて知る人もなかったので、文書によって昔のことを証明されるのである。

一、鎌倉大草子応永九年に「宮方の余類、伊達大膳大夫政宗法名圓孝は隠課を企て、篠川殿の下知に従わず一味同心の族が蜂起する。同年五月二十一日上杉右衛門佐入道禅秀が大将となって発向する。伊達は兼ねてより赤館と云う所に城を構えて合戦となり、鎌倉勢を追い返して悉く討ち取る。然しながら近国の大勢が重ねて馳せ向うと、伊達は打ち負けて九月五日兜を脱いで降参した。(鎌倉九代後記、南朝紀傳にもこの赤館合戦のことを記す)
 按=赤館と云うのは、今棚倉城の北五、六丁隔てて遺墟ある所が此れである。この時笹川の御所より軍兵を催された文書を白河七郎蔵する。この文書に因れば応永七年の事で九年とは大草子の誤りか。

     


この合戦があって満貞朝臣より鎌倉へ告げられ、満兼卿からこの感状を賜わったのではないか。

     


 文書と地勢とに因って考えると、上杉は決まって常州を経て南方より向かい、白河結城は笹川御所足利四郎満貞に従い北方より挟んで打ったのである。故に伊達氏も遂には打ち負かされたのではないか。伊達氏が高野を失ったのは此の時であろうか、その跡は悉く白河の領となって来たのであろう。

一、「拾芥抄弁環翠軒節要集」にも高野郡の名は見えている。佐竹氏の勢が盛んな頃は、別部に出した依上の地を白河から斬り取り、下野那須郡茂武(モボ)の郷を那須家から斬り取る。
 (按=那須記に茂武郷の武士は皆佐竹に属し、烏山近く迄攻め寄せる事度々見えている。今の水戸御領が下野に及んでいるのは、佐竹氏の時の境界をそのまま領されたからである)

 その勢いは席を巻く如くで遂に高野の地へも兵を進め、白河と戦争数年に及ぶと見えている。結城義綱の時までは猶一力を以て佐竹と雌雄を争ったが、晴綱は蘆名盛氏の助力を頼み、義親は芦名の聟となって援兵の力を借りる事によって、漸く高野を持ち堪えていた。が、盛氏が死去してからは赤坂までも攻め取られ、一度は生け虜にまでなった義親は赤館を境に佐竹に領せられた上、会津の芦名と共に佐竹に服して、石川昭光や岩瀬郡の二階堂等と共に、佐竹の先手として安積田村の辺りまで打ち出て伊達と争った。

 土人の説に、大永年中暫く高野は蘆名盛氏に属した。と云うのは盛氏が白河に加勢して、度々佐竹を防いだ故に盛氏へ属したと口碑に残っている。その戦争の時に佐竹で切り取る時は高野郡と呼び、白河により取り戻す時は白河郡を以て唯南郷と称した故に、郡名の分合すること度々にして紛々とした事であった。(これは八槻大善院隠居幽墨齊の説を記す)そのような事で和名抄の時の以前のように、高野を合わせて白河の中に復したのは寛文年中、白河城下雨宝山龍蔵寺と八槻大善院が、霞同行の事で論争あって追々手広になり、終には両山の坊官先達越家等が江戸に召し出されて宗祇を糺され、郡中支配の義に争論相及び郡名をも上古に復される。

寛文八
戌申十二月二十六日御載許状を両山へ渡される。此のことは天下修験の大嶽訟である故に、将軍家御判物により寛文五年迄は高野郡を以て称せられ、貞享二年以後は改めて白河郡と書きしめして賜わる。そうであれば郡名復古は寛文八年と云う事になる。今、依上の境に高野村あり、コウヤ村と読む。これは郷名郡名となる本である。

一、関八州古戦録、佐竹常陸介義重は奥州の地を略する為に、陸奥常陸の国境、南郷と云う所まで出馬して駐屯した。此れを聞いた蘆名盛氏入道止々齊は、子息平四郎盛興を相伴って軍を発し、白河の結城左衛門佐義親を巨魁として彼の地へ出張り対陣した。標葉郡手越の相馬弾正少弼盛胤や石川郡泉の石川大和守昭光が詮議して、双方に講を申し入れた。佐竹は初め同心しなかったが、下妻の多賀谷を攻めようとする北条氏政が近日小田原を発つと云う風聞を得て、義重は多賀谷を救うため盛氏との和解に応じ、互いに軍を収めた。太田三楽父子が一方の武将として南郷表に在陣したものか、和談が成って双方振旅(触れ合う事か)の砌に至って、蘆名の先隊佐瀬源兵衛とは無二の旧故であり、老後でもありることから今生の暇乞いにと面会した。この時の軍であろうか出陣の前に祈願の書を八槻へ。大善院の藏に

      


     巻ノ五 前編終り

その3
 丹羽長重棚倉を築いて移り、この城(赤館)を廃する。・
一、流村寺山舘は元亀の頃結城より深谷伊豆守治行、班目能登守両将を置く。天正年中佐竹より羽田摂津守を大将として秋山、横山等都合五百騎が百日程攻戦した。城中では手立ても尽きて終に明け渡す。これによって秋山と横山の二人は城中に楯篭もる(天神沢の館に居る秋山七郎のことか)。結城義親大いに憤り、兵を遣わして夜攻めを掛け、矢倉まで攻め上った上、門柱をも切り折りして無二無三に切り入った。郭内では馬を切り放して急に駆け出させると馬は驚いて突き立ち、白川勢へと向かって踏み荒らした。寄せ手が乱れて引き退く。
その後羽田氏に誤りあって呼び返され切腹する。四家合考に足利義氏朝臣の文書を挙げているが、この時のことではないか。

      

今宮浄蓮院と云って、常陸十二郡の山伏の先達に武勇あり、武士の業を事としていたので、佐竹によってこの城に置かれた。慶長二丁酉正月、天下の山城停止に付、山を下り館を営んでより廃した。
一、渡良瀬村古館は館主時代とも不詳。
一、富田村に菅生館あり。菅生伯耆守が居た。結城の旗下である。赤坂郷の赤坂尾張守の分家と云う。関物語に菅生舎人友国居城不分明。棚倉の押(領)であるが後に仙台へ行くとあり、棚倉は佐竹の押(領)であろう。元禄の頃迄は富田を菅生村と云っていたという。
一、硯石村古館は結城の臣穂積大学が居た。地名に因って硯石大学とも云う。赤館合戦に案内者であった大功者である。天正十八年廃城の後同村峯全院において死去する。
一、川下村狐屋(こや)館は船尾下野守(滑津村の方では山城守と云う)同郡滑津村より隠居して此の地に千石を領する。天正年中佐竹の招きにより佐竹へ属する。河上山賢瑞寺は船尾氏の開基にして位牌あり。
一、福井村仲丸館は往古田村姓の人が築いた。(田村郡田村氏の祖であろうが不詳)文亀年中城代として主将であったようで、文禄の頃断絶したという。
一、釜子村手城塚館は館主年代姓氏不詳。
一、須乗村物見城は昔小針山城守頼廣という人が住む。
一、川東田村天王寺山館は天正年中川東田大膳が住む。白川の旗下である。川東田上総守(或いは介)白川臣に見える。
 伊達郡上郡村農夫所蔵の文書
 
      

一、上野手島村御殿跡は本多弾正少弼が住んだと云う。白川に本多能登守が居られた時に分家された事が白川にある。分家の始めに住んだ所ではないか。
一、下野手島村坂本館は館主年号不詳。
栃本村小屋館は館主年号不詳。(白川親族に栃木右衛門と云う人あり、恐らく此の人の居館ではないか)
一、小貫村三城館は天正年中近藤若狭守が居る。
一、築森村城ノ越館は館主年号不詳。
一、滑津村館は船尾山城守が居た。天正十八年四月十八日落城する。その時領地二万石余で白河郡両野、出島、滑津、川東田、二子塚、小田川、太田川、泉﨑、松倉、鞜瀬、新城、石川郡澤井、赤羽、新屋敷、中野目、明岡、松崎、神田、中畑、外に川上、川下等が千石隠居の領であると云う。
一、踏瀬村の上ノ小谷村館は和田平内が住んだ。長陳場館、石関館、陳退沢館の三所は館主年暦不詳。
一、太田川村古館は三所あり。一カ所は結城の臣石射近江住む。村申酉(西南西)方に一所、寅卯(東北東)方一所は館主年代不詳。
太和久村館は多賀谷左兵衛尉住む。結城の長臣に多賀谷あり、下野國の結城にもある。この城は永禄年中に落城と云う。石川岩瀬二郡の境界であるから、須賀川の二階堂か又は石川の石川家の為に、攻め落とされたのであろうか。
一、堤村薬師館は角田伊賀守が居る。紋は松皮菱だとして今も村の鎮守、羽黒の社の箱棟に松皮菱の紋を付けてある。



一、  高野郡分合  南郷戦闘附き

高野の事は和名抄に白河の郷名高野と出て、又一カ所の注に『之良加波國分為高野郡』と既に郡を以て称していることも見える。また中古に高野へ属したのは十八郷で、今の棚倉を境にして南九郷北九郷があったと云う。今に八槻明神田植え祭の祝詞に『明神様の御田植え、殿様の御田植え、南郷九郷北郷九郷合わせて高野十八郷の殿原達、一人も残らず御出でヤレヤレ』と呼ぶ。これを田ウナイ触れと云い、また『高野十八郷の殿原達と五月女共に一人も残らず御出でヤレヤレ』とも呼び、これも田植え触れと云って久しく伝えられた祝詞である。
白川七郎の蔵に(幕府から結城親朝宛の書状)

      

一、南朝紀傳に斯波陸奥守家長と相馬胤平兄弟建武二年十二月二十三日高野郡において合戦あり。
上野入道と親朝宛ての文書

   

白河七郎の蔵に結城顕朝宛ての文書

   



   

↑文書の下にある添え書き「按、笹川殿と云っても鎌倉の満兼卿の弟を、奥州官軍の威を折らんが為に奥州安積郷笹川へ下し、その弟満直を岩瀬郡稲村に下された。応永六年の事である。其の翌年に此の旧領安堵の文書を下されたのではないか。此れは笹川殿の花押である。今の二両所に御所と唱える館あり」
 また岩瀬郡須賀川宿相楽七郎右衛門の藏に

   

上記の添え書き「経泰は唐橋肥後守也南朝紀傳に源為貞が男也、また修理亮とも古書にあり」


   

典の注書には「八ツキ明神鉢の銘に沙弥宗心あり、年号は応永十八年
十月十五日也」とある。

つづく

 これらの文書は全て高野郡と称していた時の事であり、高野郡を白川へ賜わって後に、伊達の領となり、平賀景貞の領となり、藤蔵人の領ともなった事実を知るべきである。伊達氏が此の地を領したことは絶えて知る人もなかったので、文書によって昔のことを証明されるのである。

一、鎌倉大草子応永九年に「宮方の余類、伊達大膳大夫政宗法名圓孝は隠課を企て、篠川殿の下知に従わず一味同心の族が蜂起する。同年五月二十一日上杉右衛門佐入道禅秀が大将となって発向する。伊達は兼ねてより赤館と云う所に城を構えて合戦となり、鎌倉勢を追い返して悉く討ち取る。然しながら近国の大勢が重ねて馳せ向うと、伊達は打ち負けて九月五日兜を脱いで降参した。(鎌倉九代後記、南朝紀傳にもこの赤館合戦のことを記す)
 按=赤館と云うのは、今棚倉城の北五、六丁隔てて遺墟ある所が此れである。この時笹川の御所より軍兵を催された文書を白河七郎蔵する。この文書に因れば応永七年の事で九年とは大草子の誤りか。

     


この合戦があって満貞朝臣より鎌倉へ告げられ、満兼卿からこの感状を賜わったのではないか。

     


 文書と地勢とに因って考えると、上杉は決まって常州を経て南方より向かい、白河結城は笹川御所足利四郎満貞に従い北方より挟んで打ったのである。故に伊達氏も遂には打ち負かされたのではないか。伊達氏が高野を失ったのは此の時であろうか、その跡は悉く白河の領となって来たのであろう。

一、「拾芥抄弁環翠軒節要集」にも高野郡の名は見えている。佐竹氏の勢が盛んな頃は、別部に出した依上の地を白河から斬り取り、下野那須郡茂武(モボ)の郷を那須家から斬り取る。
 (按=那須記に茂武郷の武士は皆佐竹に属し、烏山近く迄攻め寄せる事度々見えている。今の水戸御領が下野に及んでいるのは、佐竹氏の時の境界をそのまま領されたからである)

 その勢いは席を巻く如くで遂に高野の地へも兵を進め、白河と戦争数年に及ぶと見えている。結城義綱の時までは猶一力を以て佐竹と雌雄を争ったが、晴綱は蘆名盛氏の助力を頼み、義親は芦名の聟となって援兵の力を借りる事によって、漸く高野を持ち堪えていた。が、盛氏が死去してからは赤坂までも攻め取られ、一度は生け虜にまでなった義親は赤館を境に佐竹に領せられた上、会津の芦名と共に佐竹に服して、石川昭光や岩瀬郡の二階堂等と共に、佐竹の先手として安積田村の辺りまで打ち出て伊達と争った。

 土人の説に、大永年中暫く高野は蘆名盛氏に属した。と云うのは盛氏が白河に加勢して、度々佐竹を防いだ故に盛氏へ属したと口碑に残っている。その戦争の時に佐竹で切り取る時は高野郡と呼び、白河により取り戻す時は白河郡を以て唯南郷と称した故に、郡名の分合すること度々にして紛々とした事であった。(これは八槻大善院隠居幽墨齊の説を記す)そのような事で和名抄の時の以前のように、高野を合わせて白河の中に復したのは寛文年中、白河城下雨宝山龍蔵寺と八槻大善院が、霞同行の事で論争あって追々手広になり、終には両山の坊官先達越家等が江戸に召し出されて宗祇を糺され、郡中支配の義に争論相及び郡名をも上古に復される。

寛文八
戌申十二月二十六日御載許状を両山へ渡される。此のことは天下修験の大嶽訟である故に、将軍家御判物により寛文五年迄は高野郡を以て称せられ、貞享二年以後は改めて白河郡と書きしめして賜わる。そうであれば郡名復古は寛文八年と云う事になる。今、依上の境に高野村あり、コウヤ村と読む。これは郷名郡名となる本である。

一、関八州古戦録、佐竹常陸介義重は奥州の地を略する為に、陸奥常陸の国境、南郷と云う所まで出馬して駐屯した。此れを聞いた蘆名盛氏入道止々齊は、子息平四郎盛興を相伴って軍を発し、白河の結城左衛門佐義親を巨魁として彼の地へ出張り対陣した。標葉郡手越の相馬弾正少弼盛胤や石川郡泉の石川大和守昭光が詮議して、双方に講を申し入れた。佐竹は初め同心しなかったが、下妻の多賀谷を攻めようとする北条氏政が近日小田原を発つと云う風聞を得て、義重は多賀谷を救うため盛氏との和解に応じ、互いに軍を収めた。太田三楽父子が一方の武将として南郷表に在陣したものか、和談が成って双方振旅(触れ合う事か)の砌に至って、蘆名の先隊佐瀬源兵衛とは無二の旧故であり、老後でもありることから今生の暇乞いにと面会した。この時の軍であろうか出陣の前に祈願の書を八槻へ。大善院の藏に

   

      
   

 

  









  

    






   

  








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