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白川古事考 巻ノ四 前編 廣瀬典編<桑名図書館蔵>に触れる

2019-03-15 23:02:05 | 歴史

  白川古事考 巻之四<前編>

 その1

 氏朝が父満朝と共に下総結城で敗死した後、氏朝より二代後の政朝(義永とも云う)の次男、資永が那須資親の婿となり家督を継いだものの、資親に男子が産まれてから資永の存在が疎ましくなってきました。やがて資親の遺言によって資永は攻め滅ぼされます。白河の兄である顕頼がこれを怒り、岩城氏の助勢を得て那須を攻めるも堅牢にして落ちず、白河へ帰還します。結城氏の隆盛も昔日の如くならず、衰運は更に落日へと向かっていきます。那須家の諸将と資永を守る僅かな将率との戦いが活写されて、四巻の幕開けとなるのですが、余りにも凄惨な場面が展開されているので、一時は省略していました。思い切って載せてみます。

 結城歴世事実下
顕頼は政朝の子である。共に左京亮道永長渓と云う。仙台白河の系図に政頼左兵衛祐としている。

一、那須記に、上那須福原の城主那須播磨守資親に女子三人あり、男子無く白川義永の子を第二の娘に嫁して家督を譲り、須藤太郎資永と云う。その後、資親に男子が産まれ、山田の城へ移して山田次郎資久と呼び、金丸肥前守や大関美作守を後見とした。家督資永には大田原出雲守を始め佐久山、芦野、伊王野、稲沢、河田等出仕する。そのような時に資親が病に臥して、今際と見える時に及んで大田原出雲守、同山城守父子を枕辺に呼んで「恨みとするのは山田次郎に家督を譲らず資永に与えたことだが、本意では無い。何とぞ資永を亡ぼして次郎を立てるように」と云って終に息絶えた。大田原は此の由を大関に語れば大関は喜び、兎にも角にも偏に頼みますと言い残して山田の城へ帰って行った。大田原は資永を亡ぼして次郎を立てるべく、大関、金丸に示し合わせて芦野、伊王野、稲沢等と語り合えば、皆賛同して近隣の武士に呼び掛ければ、大輪、河田、稗田、梁瀬、鮎ヶ瀬沢村を始め狩野百村の野武士共が馳せ参じて都合五百余騎にもなった。

 資永が此れを聞いて関十郎その他を招き、大田原が謀叛を企て大勢で寄せ来ると云い、味方は劣勢で万が一にも勝ち目はなく、白川へ注進して加勢を乞う間もない。我この城を枕として討死する故、面々は急ぎ白川へ落ち行き、父義永へ(父義永は永正七年既に死亡しており、顕頼であろう)事の由を言って、重ねて大軍を催して敵を打ち本望を遂げるように云ったが、奥州より付いて来た者は誰も落ち行く気色が無い。その時の有り合わせの人々には関十郎義時、境俊音坊宥源、旗野藤次秀長、苅田次郎兵衛秀安、大隈川賴善坊昌範、国見沢入道高義、田川太郎兵衛時清、石田坂石見守國隆を始め五十余騎、雑兵共百余人の俄のことであるから、城の近辺の堀を少し切って上の山より大木を伐り落とし、箒川の岸に逆さ茂木を引き渡して川中に乱杭を打たせて待ち構える。

 これは永正十一年八月二日、蛭田原に陣を取って福原の城の体を見渡せば、赤白旗数十流翻して武者二三百も有ると見た。寄せ手は義永の加勢を待って暫く控えていたが、芦野は敵の形勢を見て畏れるなと言い、甲斐なき人々続けと馬一散に駆けだし、川へ颯爽と打ち入った。味方五百余騎がドウっと一度に打ち入れると、此れを見た五十余騎も矛先を並べて打って出、喚き叫び攻め戦う。

 寄せ手も引かずと東西へ切り回っていたが、俄に叶い難く(勢いが落ちて)見えるところへ、大関美作守が一散に駆け入れば、津田八郎政信、松本弥一国友を始めとして三十余騎が命を惜しまず切って入り火を散らして攻め戦う。大田原出雲守が城の西へ押し寄せて在家に火を放ち、敵が途に迷うところを引き包み取り囲んで射取る。関十郎が此れを見て、取り込まれたなら皆此所で討ち取られる、先ず城中へ引き取れ!と引き退いた。

 寄せ手が付け入ろうとするのを旗野藤次秀長、苅田兵衛秀安が進み出て、苅田が熊手を以て兜の□(しころ?革偏に周)に打ち掛けて引き寄せれば、旗野が長刀で下掛に斬り落とす。寄せ手の方より河田五郎成信、大田原弥七義国と名乗り懸けて戦うが、気力尽き果て四人一所に死ぬ。資永は緋縅の鎧を着て三尺二寸の小長刀を脇に挟み、四十余騎を前後に立て、敵の兵が左右に打ち囲む中に破って入り、戦ったけれども大敵ゆえ遂に叶えがたく残兵二十七騎になってしまった。

 資永は戦い疲れて一先ず城へ引き退こうとするが、敵が付け入ろうとするのを俊音坊賴善坊が取って返し、敵の五騎を切って落とす。残る勢を追い散らす間に資永は城へサッと引き返す。ここに芦野の郎党木村甚九郎が賴善坊に飛びかかって組み合わしたが、賴善坊が木村を取り押さえ首を掻き落として立ち上がるところを、芦野馳せ来て賴善坊の草摺りを畳挙げに刀差し、弱るところで首を取ってしまった。日も暮れて城を囲み陣取る所三日、敵よりは攻めず城の変を待っていたようだが、城内では日を尽くして酒宴を施し興を催している。

 資永が言うには、我が運命は尽きた、明ければ敵陣に駆け入り思うほどに戦い、心静かに自害しよう。只恨むべくは資久を討たないことが不本意であると言うと関十郎が承り、幸いにも今宵は風雨に紛れて山田の城へ忍び入り、次郎殿を討って参りましょう、お待ちください。田川太郎兵衛時清を同道して上下八人が足早に山田の城へ懸け着く。十郎が言うには、城内に入ったら礫を打って知らせるから、その時西の出櫓より侍町まで放火せよと言い捨てて城へ忍び込んだ。

 合図をしたので田川が火を放つと、宗徒の兵は皆福原へ出陣して、残る者は女童という思いもよらず騒動するところへ、乳母と思しき者が資久を抱きかかえて「殿の御供をして何方なりとも除けているように」と言えば、十郎しめた得たりと駆け寄り、「此れへ」と資久を抱き飛ぶようにして還ってきた。資永は此れをみて大変喜び、我、汝のために此の囲いにあう、今宵限りのその恨みを報えるため此れへと呼び寄せた。其れ計らえとあって田川太郎兵衛が畏れて首を打ち落とす。

 斯くて夜も明ければ主従二十四人、大勢へ懸かり入って切り合い、引いてみれば八騎だけとなり、此れまでと城中に引き退き腹を掻き切って伏せたところを、関十郎解釈してその身も自害して失った。(続武家閑談には、永正十三年丙子六月七日上下の那須一統し畢《終》わるとあり、年月に異同あり)白川義永は我が子の仇であるからには、那須を亡ぼすとして岩城常隆(岩城風土記に両人の常隆あり。可山と号する常隆は永正より前にあり、左京大夫常隆は天正の頃である。続武家閑談に岩城次郎守隆とあり、此の説はこれであろう)と語って手勢五百騎、岩城一千余騎が那須山田の城(続武家閑談にこの時の城主は那須資房の子壱岐守政資)へ押し寄せる。頃は永正十七年八月十二日。岩城白川の両将は岩下の峠に陣を取る。

 城の案内を検分して白川は岩下の峠を下り、城の西より押し寄せる。岩城常隆は城の南の山が難所であるから、道を拵えて登るようにと人夫を集め、路を作り攻め上がる。此の所を今に岩城坂という。岩城の先陣志賀備中守貞弘二百余騎。大関、大田原、金丸、佐久山等の士卒は火を散らして戦った。稲沢播磨守、伊王野次郎左衛門百二十騎、芦野沢村八十余騎が馬烟を立て山田の城の後詰めに駆け来る。城の士卒が此れを見て味方を城中に入れようと、その勢百六十騎が打ち出て双方より揉み合いになる。寄手は戦い疲れて猶予するところを後詰めが力を得て駆け破り坂中まで進んだ。山田の注進が烏山に聞こえると、資房(那須資氏より上の庄下の庄に分けて二家としたが資永亡き後資房一人上下の庄を領した)都合五百余騎が山崎に陣を取る。

 寄手は此の由を聞いて烏山の大勢に引き包まれては叶わない、中途へ駈け合い一戦を遂げようと、関孫三郎、佐貫三郎、須釜次郎左衛門に五百余騎差し添えて山田の城に残し置く。岩城白川の両将九百余騎は中川を渡り佐良土の家を焼き払い、縄鈎の台へ打ち上がり見渡せば烏山勢が鬨の声をドッと挙げて押来る。味方も同じく声を合わせつつ梅園に入り乱れて攻め戦う。烏山多勢に切り立てられ、山崎指して引き返す。ところが藤田、大島、大輪、石沢、鮎ヶ瀬等那須随一の強弓が差し詰め引き詰め散々に射放ち、前に進む軍兵の十六騎が射落とされる。白土淡路守は藤田の矢頭に掛かり空しくなる。白土の手勢は大将を討たれて志賀備中の手と一つになろうと東を指して引いて行く。

 志賀は白土が討たれたと聞き、此所を引いては末代までの恥であると、那須勢の真ん中に駆け入り蜘蛛手十文字に切って回れば、敵味方の手負い死人その数を知らず。備中今日を限りと思い一足も引かずに戦ったが、余りにも疲れ相引きに引き暫く息を継いでいたところ、鮎ヶ瀬源蔵が進み出て弓に矢を打ちつがい、ヒョウッと発せばその矢は志賀の兜の鉢を断つように後ろへ抜けて、馬より落ちるところを石沢新五郎(続武家閑談に佐竹浪人で歳十七とある)が走り寄って首を取る。岩城白川両将は士が白土討たれると聞いて引き退くかと色めき渡るのを、資房太鼓を打ち攻め懸かれば常法寺中務、千本十郎、森田帯刀、奥野長門、池沢主税、高瀬藏之助を始め我も我もと箒川を打ち渡り、佐良土の宿を馳せ通り湯津神原に追い詰める。

 蚊ノ又筑前、大越豊後、栗出久太郎以下の士卒が引き返し散々に戦うが、残り少なく討死する。両将は遙かに落ち延び、本国差して帰ってきた。湯津神原において討ち取る首百八十三獄門に懸け、骸は一所に集め塚を築き侍塚と呼ぶ。(今にその塚あり、水戸義公嘗て此れを見られた)岩城白川打ち負ければ、山田の城から須釜次郎左衛門、佐貫三郎が陣所を引き払い落ちて行った。城中より此れを見ていた大将政資は打って出て、佐貫三郎が篠女沢で討たれ、大将関孫三郎もこの沢で討たれる。須釜次郎左衛門は河渡の沢で金丸の為に討たれる。佐貫の死骸は塚に築き佐貫塚と名付けて今にあり。須釜の躯も河渡の沢に埋めてこの沢を須釜沢と云う。(続武家閑談にこの戦を記して、今度始めて鉄砲が岩城の陣中に響き、天地を動かしたとあり、白川辺で鉄砲の伝わったのはこの頃か)

 岩城常隆は山田の戦いに味方が若干討たれたのを憤り、嫡子貞隆(貞隆は後の常隆の子。実は佐竹義重三男であると云う。これ又誤りであって、大永の頃の岩城左京大夫重隆の代である)を始めとして一千余騎、白川義永三百余騎を催した頃は、大永元年十一月朔日野州へ那須へと押し寄せる。兼ねて申し合わせていた小田宇都宮二千余騎を率いて同三日出陣する。政資上の庄の軍勢七百余騎で岩城白川を支える(応戦する)為に烏山の城を守る。資房は五百余騎を相具して小田宇都宮を支える為に、上川井出雲ヵ館を出城に調い移られる。

 岩城白川は先ず山田の城へ押し寄せ鬨の声を揚げたけれども、烏山へ篭城の残兵共は一戦にも及ばず、城に火を懸け落ちて行った。常隆と義永は門出よしと悦び、直ちに烏山へ寄せるべく中川を越える。小田宇都宮は喜連川五月女坂に陣取り、那須の兵が上川井に篭城して待つと伝え聞き、岩城白川の両将へ告げると両将も喜連川に赴いた。同四日午の刻に岩城白川小田宇都宮三千余騎が川井の城に押し寄せ、十余日まで攻め続けたが城は落ちるとも見えず、寄手の諸将が評議して、今日は戦いを止めて堀や深田を埋め、かけ引き自由にして大勢一度に攻めるがよしと下知すれば、兵共近辺の民舎を壊し運んで我先にと埋めた。

 川井出雲大将が前に出て云うには、敵は明日一同に攻めてくる気色が見える。敵は大勢、味方は僅かの五百余騎、取り込められたら利は無い。今宵烏山へ篭城してこそ然りと云えば、資房も同調して其の夜、子の刻ばかりに裏の山より忍び出て烏山へ引き篭る。明ける十七日寄手が城中に乱入すれば、兵は一人もいない。それなら烏山へ押し寄せようとの言に、宇都宮の鹿沼徳雪齊が言うには、このような小城に十余日も経ているのに、相支える烏山は那須中の軍勢が悉く篭っているのであれば、この城を攻略することで御本望と思し召して御開陳されたら如何かと言うと、諸将も尤もだと同意して各国へ帰って行った。   

一、奥相茶話記に、伊達植宗は子の晴宗の為に妻を迎えようと、相馬顕胤を介して岩城重隆の息女を婚約したが、中頃になって白川へ嫁すと云う巷説を聞き及んだ。相馬より河井出羽を岩城に遣り、志賀寒虫にその旨を糺した。寒虫が重隆の前に出て尋ねられると、重隆が答えて言う。「白土輿七郎が言うには、伊達は遙かに遠く郡々を隔てているので、何の用にも仕える事が出来ない。白川殿は何度申し合わせても隣邦であるから便宣あり、又御子が出来たら貰って家督を継がせることも易いことだと、内々白川殿よりも望まれて度々某方へ申し参られた故に、次の手を待つ処へ伊達の御志と承り、以外で御分別に違う程に早くも伊達へ先約してしまい、難儀と言えば其れは白河と岩城が一和すれば何方よりも手を携える時に仕様がある。是非白川殿へ参らせよ、左様に計らいと云った」(白土も一族で寒虫と両輪の重臣である。白土は白川への取り次ぎ、寒虫は相馬の取り次ぎ)この違約によって相馬と合戦始が始まり、相馬に打ち負けて(合戦の次第は省略する)和を乞うに至り、娘を伊達に嫁がせることになった。白川はこの遺恨によって岩城を攻めること度々であった。然るに佐藤伊勢(軍師)の軍法により勝利したと云う。この相馬岩城の戦いは大永四年の度とあれば、白川は顕朝義綱の時であろう。(仙道表鑑にも此の事有るが、白川は誰の時と詳述していない)

一、会津四家合考天文三年申午会津伊達岩瀬石川興岩城白河戦
  按=これ以前の白河は戦にも独立して戦ったが、永正より勢い減じて始めは岩城に従い、その後天正十年頃までは蘆名に属    し、其れより佐竹に服し終いに伊達へ身を委ねた。


一、同書天文四年巳未白川結城氏皈(かえす)白河曽漂白在会津二十有五年
  按=これ政朝の条に載せた永正七年、会津へ走った白河五郎ではないか。小峰が内応して白河を追出し、岩城を引き入れて二十五年間白河を保った顕頼なんとは小峰氏ではないか、不審である。且つ此の人(顕頼)は明応四年に左兵衛佐に任じ、その前に宮内少輔であることは何れの年に任ぜられたのか、政朝永正七年死が何歳であったかは知らないが、顕頼を実子とすれば父子の年齢も都合しないと云うべきか。

仙台白河の蔵に

  上卿  小倉中納言  花押

  
   明応四年九月二十日  宣旨
   宮内少輔藤原顕頼
    宣任左兵衛佐
    蔵人右中弁藤原守光奉


 岩城より顕頼の任官を賀する文書(左)  那須と戦の時の文書では?白河仙台の蔵(右)

   

 義綱は顕頼の子である。左兵衛佐と称し法名は門舟院と云う。上杉謙信は佐竹と約して北条を攻めていたが、佐竹が謙信と違約した事で謙信は佐竹の敵である白河へ交わりを通わせたとする文書が仙台白川家の蔵にある。
 
  

晴綱は義綱の子である。左京大夫と称し晴の字は足利将軍より拝領する。始めは晴廣と云った。

一、白河記、晴綱の代に常陸境関御渡しの城(今で云う河内がこれ)に斑目十郎廣基、塙の城には大塚掃部介綱久(関物語に嫡子越前守も同じく守る)、流れの城には深谷伊豆守、旗本には新小萱雅楽頭、藤原䔍綱、菅生上総介家治、(関物語には河東田の館に此の人を置くとあり。按=棚倉東三里に冨田村あり、元は菅生村と云って菅生氏が世々居た処であるが、後に佐竹に攻め取られた。それ故に河東田に置いたのであろう)大和田に白石(しらいわ)、田島、舟田、関氏、皆一城を以て従う家中には和知左馬助重政、芳賀遠江守晴則、郷土佐守朝之(太田川村庄屋となる子孫がいたが、今は絶えている。その系図には郷ではなく大江氏であって江である。平清盛に怨みあり松殿関白に一味して討手に向った江判官遠茂嫡子左衛門尉家茂は大勢を打ち払い、頼朝卿を頼みにしたが遂に討ち死する。二男何某が関東へ下り頼朝卿の臣となったが、弥左千代丸の結城への養子となられる際に結城へ付けられた)

 忍左京進(関物語に宗憲と名乗り白川根田に居る)、熊谷六郎、山本兵庫、多賀谷左兵衛、鶴生に斑目信濃守廣信、八代丹波守(下野大島村に居る)高橋安芸守、和田平九郎(踏瀬村に居る)、柏木隼人(今子孫岩瀬郡勢至堂村にあり)、高田主計(領知南郷に有と云う。別の文書に今、白川中町で高田屋と云うと見える)、渡辺孫兵衛、三森安芸守、和知民部少輔等々付き従う。

中畑上野介晴辰、結城の婿となる(婿とは誤り、系図に依り見るべき)。河東田大膳(白川雑記に上総介の弟とある)。家田治部少輔、以下居城して出仕する。

一、関東公方義氏朝臣の文書、仙台白川氏蔵する。


一、白川義綱晴綱の頃に至り、佐竹の為に責め威されて難儀の余り、同家の結城正勝と佐竹を挟み打ちにしようと計り、小田原北条に音信を通わせた時の文書十余通あり、その要を揚げてみよう。(晴綱の頃と思われる)
       
一、那須記に蘆名盛氏は畑田将監、中野目式部、佐瀬源七、平田周防守(皆、盛氏の臣)を召して、「佐竹へ押し寄せ、日頃の鬱憤を散らそうと思うが如何に」と問う。平田が白川関の入道と語らったほうがよろしい、然るべしと申したので、盛氏は中野目式部を白川へ遣わして事の由を告げると、入道喜んで某も佐竹に宿意があるとして、一戦を遂げようと存じても微力の身であり、大敵を傾けることは叶い難く年月を送っている。小勢にあっても御味方致し大敵を攻め靡(なびく)くべし、と事安らかに了承して使いを返された。

 永禄三年三月十六日(続武家閑談には二十六日)盛氏は一千余騎、嫡子十郎盛興も二千余騎を率いて出陣する。白川関入道義親子息晴綱(これは伝聞の誤りであろう。下の奉納文にも晴綱親子とあれば、父子を転倒して書いたこと疑いなし)を始め五百余騎で盛氏を待ち、打ち立とうとした。佐竹左京大夫義昭は予め此の事を聞き、五千余騎を催して打ち立とうとしたが、伊達政宗岩城常隆(これ又誤り、政宗は永禄十年の出生。常隆も永禄の頃は未生である。伊達は政宗の祖父晴宗、岩城は常隆の祖父重隆の代である)が押し寄せると聞いたので、古内一桂進み出て伊達岩城出陣の事の真偽を語っていないが、白川御発向の跡へ攻め来るならば安危難計一と、先に那須を頼み奥州へ差し向けられてはと申し上げると、佐竹は自判を据えて書簡を送る。

 ここに那須修理大夫資胤は何となく白川が勢いを催すと聞き、彼は当家に含む宿意あれば斯様寄る事もと、上下の庄へ軍勢を催すところに佐竹の書簡が到来したので、資胤は了承して一千余騎を率いて白川へ発向した。関入道は此の由を聞き、五百余騎を率いて陸奥と下野の境である小田倉原にて(小田倉原に館跡という土居あり、この戦いの跡か)両陣行合い、福原中務、稲沢播磨守百騎ばかりで五百騎の勢へ破って入る。火を散じて戦ったが過半は討たれて危うく見えたので、大関、金丸、芦野、伊王野、大田原、一手になって掛かり、追いつ返しつつ時が移る迄攻めていたさしもの白川勢も駆悩していたところへ、黒川勢(会津勢)二千余騎が物陰より切って回れば、那須の兵是れに囲まれては危うしと思ったか我先に引き退く。

 勝ちに乗る中に敵を取り込もうと大将の陣近く迄攻め寄せると、資胤二百余騎前後を囲み群れ立つ敵中へ駆け入り黒煙を立ちあげ切り回る。敵は大勢であるけれど切り立てられて、その陣がサッと崩れたのは大桶大俵平治右衞門で、その日の軍大将であったが諸軍勢に下知をして、関与右衛門、束原三郎右衛門に追い太鼓を討たせて、叫びながら駆け向かった。始めは敗軍の上那須の士卒も是れに力を得て、皆一同に引き返し攻め戦ったので、奥勢馬足を翻し引き退く。池沢主膳、岡源三郎、同藤右衛門、那須随一の弓の達者と聞こえた此等が、歩立ちになって小高い所より差し詰め引き詰め散々に射ると、奥州勢は三十七騎が矢庭に倒れ死ぬ。中でも盛氏宗徒と頼れる佐瀬源七以下の勇士ども多くの命を落としたので、那須小勢と云えども侮り難しと思えたか、陣を引けと許りに我先に落ち行く。その中に白川義親(年代を以て考えると是も又晴綱であろう)の次男十三才が如何して遅れたのか、主従五騎で落ち行くところを熊田肥前、執事佐藤越中政重主従が追いかけて、郎党を切り捨て義親の次男を馬より引き下ろし、生け捕りにして反り来る。烏山那須家氏神の藏に次ぎの記録がある。

 奉呈御戸三間右ノ意趣ハ藤原朝臣資胤為佐竹合力向奥州白川出陣之砌神前祈請シテ曰八幡大菩薩者是日域宗廟之神故守朝家慈箕裘之臣抽諸神佐武勇之将依之不捨玉ハ和光利物本誓者立処決勝利親咸討敵挙名于諸邦続先祖之家流傳誉于子孫給へ偏奉拝神慮誓約而于時永禄三年上章涒灘向小田倉地号成動白川晴綱親子五百余騎之中勇健之兵不守大将之下知晋一陣追捲闘戦覃数度然処同国黒川之兵卒二千余騎合力従物陰差出並馬頭馳懸闃(?)諸卒見敗北之気色処馬立進二百余騎引纏晋太鼓振団勇兵等得力引返々々当家勢大奮誉八州耀威於東山東海北陸之街是併依神徳挙名処也為備後代之亀鑑謹記之畢
 永禄三庚申臘月吉日  修理大夫資胤
            
筆者藩州住玄照坊佛恵


 
巻之四 その2

この合戦について続武家閑談にはほぼ同じく載せてあるが、北越軍記に有るのは異なっているので載せてみる。

 永禄三年春上杉輝虎公小田原へ乱入の催促に応じ、関東の諸将皆出陣するなかに那須一統だけが出陣しなかった。その訳は関東諸将が居城を打ち立て出陣した後の隙を見て、白川結城左衛門佐義親と蘆名盛氏の人数併せて三千余騎が、奥野境小田倉原へ出張り那須塩屋の両郡を刈り敷く欲があった。(蘆名氏軍を起こす意は前説よりもこの説の方が勝るかも)此れによって那須修理大夫舎弟福原弾正左衛門資経を次将として金丸下総守、沼野井摂津守、秋元越前守、塩谷丹波守、松平美作守以下七百余騎を率いて烏山を発ち彼の地へ駆け出す。三月二十六日巳の刻あたりに両陣矢合を始め、未の刻に至って大いに接戦となったが、烏山勢打ち負けて上那須の輩は悉く敗走した。資胤も薄手を負って残兵を駆け纏め、敷き草に座って舎弟弾正左衛門に向い「吾が運既に尽きた。腹を切って死ぬが御辺は急遽烏山へ帰り、予が一跡を相続して仇を亡くす術を為されるのが肝要である」と申した。資経は「某は生涯仕るべき」と最後の論をして時を経る処に艮(うしとら)の方、柏原より敵兵三百ばかりが味方を追い立て来る時に、下那須三輪村の野武士五十余人が矢芒を揃えて待ち掛る中に、岡源三郎生年十七才と名乗って会津四天王の粋一、佐瀬不及の嫡子源七郎が乗った馬を射る。どうと倒れるところを岡藤右衛門が走り掛かり首を打ち落とした。資胤は此れを見て討死の時だとばかり太鼓を打ち下知しながら馬を回し、百余騎一斉に声を出して闘いを作り、面も振らずに斬りかかる。敵は散々に策を捨てて逃げ行くと、那須勢勝ちに乗じて白川口皮篭原まで追い入り、民家に火をかけて烏山へ帰納した。
 この戦の前後と思うが、謙信の出頭人山吉孫次郎の白川へ送った文書、白川町年寄り大森忠右衛門が蔵している。(文中の三は永禄三年の意)    
                 
                      

一、奥相茶話記に「田村隆顕文武兼備謀略の大将にて威勢近郡に振るい、白川領四十二郷の半分を田村へ取り、残る二十一郷を領分として白川へ、白川も田村の旗下なり」とあり、(典按=典が考えるに隆顕は天正二年死亡であることから、本文の白川は晴綱であろうか。また仙道鑑に「田村左京大夫利顕英雄の聞え隣境に隠れなく、岩城、中村、棚倉、白川、安積の端々を切り取って、その威漸く仙道に振るう」と見え、利顕は隆顕の祖父に当たる)

一、晴綱の子を義顕と云い治部大輔という。和知美濃守と云う家老と一門の頭小峰義親(典按=白川の事は書伝を経たものが多く、義親を晴綱の実子として白川の正統のように言い伝え、仙台の白川上野の系図にも義親を晴綱の嫡子のように記していて、前にも記した相楽七郎右衛門系には次男のように記している。この本文は秋田の白川七郎の家に伝えられた説で、義親は白川別家の小峰氏とする。この説は正統であって外の説は義親が白川を奪った後に、本家を奪ったことを忌みて自らを正統のように言ったものである)

 今の白川城下近辺は皆義親に服従したと云っても、小田川、太田川、踏瀬、大和久辺りでは後々までも義顕方にあり、義親には服せずに義顕の正統なる事を大和久村芳賀市郎右衛門の伝書にも歴然としている。今に於いて仙台の白川上野の通行には、城下並びに五か村辺りの旧家で民間に落ちた者の中に見られ、紋付きの肩衣などの贈り物を見る。白川七郎へは太田川、大和久、辺りの百姓に見るが詳しくは下に記載する)

 事の起こりは義親が白川の城を乗っ取り、義顕が未だ幼年である故に郷土佐という者を供にして会津柳津へ行かれたこと。別当を頼って住んだ後、別当の取り扱いによって再び白川へ戻り、今の小田川八幡の山岩窪切きいしの城(意味不明ながら原文通り)に移って居る。(此の事年月不詳であるけれど永禄年中である。会津旧事雑考など白川五郎の事を記しているのは、この義顕を誤り年月を記したものではないか)

 白河記には此の事を記して曰く、義親の近臣に侫人(男?)有り、君治部大輔殿を討ち取って御安座になりましょうと申したので、田島信濃守を頼り義顕を失脚するように申した。(白河記に本文のことを記して、義顕と義親との如何な経緯如何な意趣があっての事か記していない。然し言葉の要を考えると、何となく義顕は義親よりも尊きように思われることから義顕は白川家、義親は小峰だと云えよう。また田島村清光寺位牌に大勢院殿法戦道閑大居士田島信濃守景久とあり、一つには宝積院に作るも此の人であろう)

 田島畏れ候として義顕を討つように見せ掛けて偽り、郷、忍、柏木以下を呼び寄せて詳しく義親の憤りを語り、彼らを付けて義顕を落とし行かせた。義親が田島に如何取り計らったのか尋ねると、義顕事何方へ落ち行きて行方が分かりませんと申した故に、義親大いに怒り早速信濃守を討ち取るよう大勢を田島へ向かわせる。信濃守は兼ねて期していたので居城(土人がリョウカイ館と云う此れである)に火をかけ討ち死にする。

 さて義顕は郷、忍、柏木を供として下野へ落ちてから会津へ行き、柳津虚空蔵に托して暫く年月を送っていた。然る処天正十一年蘆名盛氏が虚空蔵に参詣した折り、事の由を聞いた盛氏が義顕に対面してその後、松本右近を以て佐藤大隅の方へ申し越され、和睦が成立してその年の九月に義顕は白川へ帰住した。(蘆名家記に天正八年六月十七日、盛氏卒すとあれば、本文の天正十一年は疑うべき)天正十八年太閤秀吉公が白川家を断絶した節、(此の事下に記す)義顕その子治部左衛門朝綱(幼名を竹千代と云う)父子は太田川の民間に潜んで居て、家老始め譜代の者は何れも田畑を作り或いは商いをして父子を養い、時を待ったけれど義顕は死去してしまった。(今、太田川村にあり)

 大坂陣の節、譜代の者大いに悦び白川家再興の時節到来と騎馬七八騎歩卒五十人ほど集めて、佐竹の陣を借りて出陣するところで朝綱が病気になり、その儀が叶わずに譜代の者は力を落とした。此の度の時節を外しては又斯様な事も有るまいし、と云って長浪人も如何と思い秋田へ下り、佐竹の臣となったのである。佐竹の臣に和知善右ヱ門と云う者がいて、朝綱の母方の舅であるところから扶持を得て居るところ、善右衛門に子がなかったので養子となった。其の子久右衛門の時寛文七年九月中、白川在住の者より白川家伝証文に訴状を添えて、苗字を結城と改める願いを佐竹の老臣へ出してより、和知を改め白川と名乗ることになった。その節に差し出した書き付け三通あり、内一通を記しておく。(他の二通も大意同じ)
一部抜粋

      
 
文書に当たるところを抜粋しました。
延々と続き中頃に請願する諸氏の名前が連なり、末文の久右衛門の署名に繋がります。

   

一、義親は(初は関七郎或いは上野入道、又は関入道などと呼び、号は不説と云う。左衛門佐とも云う)義顕の家を奪い佐藤大隅より会津蘆名盛氏の臣、金上兵庫頭盛政方へ盛氏の娘を申し受けて義親の妻に成されたい旨申し遣わしたところ、盛氏が承知したので義親の威光は繁盛した。(四家合考に「弘治元年乙酉蘆名盛氏の女嫁白河結城義親」会津旧事雑考には「天正十年八月二十四日盛氏女白川義親の妻卒す」と見えている)会津四家合考には白川義親は盛氏の婿であるが
、佐竹白川と確執があるため、芦名北条と一味し度々佐竹と戦いがあった。其の始めの頃と思われる氏康の消息に


   

一、仙道表鑑に義親累年高野郡において石川大和守昭光、(石川城主実は伊達政宗の弟、石川家の養子)下野國那須の輩と境を争い合戦止む時もなし。石川の一族浅川次郎左衛門という者は武勇の名あり、度々白川勢を手強く当たって義親を従属させようと、多年に渡って軍兵を遣わして攻め立てていたが、城は堅固にして落とせなかった。浅川は常陸の佐竹義昭の旗下に属して念願を果たそうとしていたのを、佐竹が此れを知り我が旗下(浅川)の城を容易に攻め伏させては無念のことと、既に常陸を発し下野へ回って白川へ乱入しようとした。白川義親は斑目信濃守に総勢二千余騎を先陣させて浅川の城へ押し寄せ、火水を浴びても攻め立てた。

 浅川も身命を捨てて防戦する。信濃守は自楯を引き、側をしめて息を凝らしていた者共が真っ先に喚きながら懸かり入り、白川勢大和田右近、白石式部等は我れ先にと討たれる者を乗り越えて、揉みに揉んで攻め戦うほどに、浅川の城を即時に破って白川勢が込み入れば、次郎左衛門は雑兵三十ばかりになって本丸一つに立て籠り、矢種を惜しまず鉄砲玉薬を限りに射立て打ち立てる。

 白川勢も精力疲れて少し手を緩めたと見えた処に、次郎左衛門が緋縅の鎧に高角を打った兜の緒を締め、金作りの太刀を帯、源太栗毛という馬に黒鞍置いて打ち乗り、鶴の紋を書いた白地の大旗を真っ先に進めて、其の勢八百余人で同音に鬨の声を揚げてどっと突いて出ると、寄せ手は一度に捲り落とされて討たれる者数を知らず。中にも大和田右近、浜尾十郎、白石式部、志田玄蕃頭等一騎当千の兵共三十六騎が三の丸に於いて一丁に打たれてしまった。

 白川勢は終に打ち崩されて敗北する。次郎左衛門尉はこの一戦に利を得て、一城堅固であっても始終こらえ難いと覚えたので佐竹へ斯くと告げる。佐竹義昭此の事を聞いて白川へ発向する時であると、嫡子常陸介義重を大将に茂武左馬助同じく和泉守、河合甲斐守を始めその勢三千余騎が下野より回り、那須勢を先立て白川へ発向することになった。

 白川に於いても此の由を聞き及んで、那須境関和久の城を(今の地勢を見ると関和久村は那須の境にはなく、昔はこの村の在所が国界にあったのでは?四家合考にも那須の界関和久と見えている)堅固なる関の明神の山に斥候を置いて、中畑上野介、石橋薩摩守、舟尾弾正を先として一千余騎が備えを固めて陣を取る。一方会津にても佐竹の白川への発向の由を風聞して、若輩な義親を攻め伏(降伏)させては縁盟の甲斐もない、如何にするかと思案して芦名修理大夫盛氏自らが馬を出して、後詰めとして白川表へ出張る。

 盛氏の先手は平田左京亮、同周防守、同尾張守、冨田美作守、松本伊豆守、佐瀬大和守、中ノ目式部大輔、沼津出雲守、沢井備前守、新国上総介(岩瀬郡長沼城主)同下総守、猪苗代弾正盛國嫡子盛胤(四家合考古文書等には盛種に作る)、鵜浦甲斐守、三橋越中守、三坪大蔵少補等各先頭に進み白坂まで出陣する。

 佐竹の先手が出向いて少々小競り合いがあったものの、華々しい激戦はなかった。(白坂村元は今の地より半里ほど西、黒川の側にあり。川を隔てて下野那須の内木戸戦等の村があり、古戦場に類した名であれば白坂は戦争の地であるか)斯く処に相州小田原の城主北条左京大夫平氏政、同陸奥守氏照兄弟が佐竹の奥州へ出陣の隙を伺い、三万余の大軍を率いて下総国へ発向し、関宿の城を攻め落として直ちに常州へ攻め入る態勢にあった。

 雲霞ノ如く攻めて来るさまを、梁田中務大輔より早打ちを以て急を告げること三度に及べば(梁田は古河公方政氏の老臣で関宿の城に住む。後に公方に背き佐竹へ興す。北条軍記には「元亀二年秋、北条氏政常州にて佐竹義重と対戦する。天正元年癸酉の冬に下総国関宿の梁田中務大夫が謀叛(佐竹に走る)する。北条氏政出馬して攻める。佐竹義重後詰めとして出陣すると云いども叶わず。義重大いに引退」とあり本文は此等の時であろうか)

 義重大いに驚いて、大敵を拒み留めて置かなければ我が国の難儀であるとして、白川表を打ち捨てて那須、芦野、大田原、佐久山等の城々に兵糧を運び込み、軍令堅く申しつけて早々に佐竹へ引き返す。芦名も他国まで攻め入るべき支度も無ければ、会津へと引き返した。四家合考に此の時会津より田村を催促して盛氏後詰めに出張るとの故に、北条氏照が田村へ寄越した消息あり。
(訳註=古文書の本跡は原本を忠実に再現した江戸時代の筆写です)

   
      
 また別の古文書にも会津芦名と常陸佐竹の争いに、小田原北条の関わりを記したものがある。古文書は省略して本文のみを訳載する。
 元亀二年四月中旬芦名盛氏入道止々齊は白川結城左金吾義親を魁将(首将)として常陸の国境へ軍を動かし、佐竹義重、太田三楽齊(武州を追い落とされ佐竹を頼って住む)父子と対陣あり。相馬弾正少弼盛胤、石川大和守昭光が合い計って和解を入れる。佐竹は初め同心無かったが下妻の多賀谷(下野守政経のこと、此の人小山の臣であったものの、小山は北条方であることから小山を離れ佐竹へ属する)を攻めるために北条氏政近日発向するとの巷説により、義重は此れを救おうとして芦名と無事を作り無難となって互いに軍を収める。この陣中に止々齊は脚力衰え急ぎ府へ送られる趣あり、帰路の後に止々齊の家臣松本右京亮方へ謙信より書を投じられる。



 白河記に石川大和守源昭光は佐竹義重の妹を妻とする。義重の臣長倉渋井以下石川往来の節に白川旗下と不和になり、因って後に合戦に及ぶ。兼ねて義重は奥州をも攻め取る願望があり、それ故に渋江内膳(渋江を渋井に作るも是れ、シボ井と云う所ありその地の領主である。大坂陣に於て討ち死にする。シボ井は茶を産するところの意)下知をして白川関の明神へ押し寄せ(此の白川の関と云うのは常陸界のオオヌカリ(大垬)の関である)合戦する。

白川の旗下斑目、大塚、河東田等命を捨てて防戦する。天正三年六月九日佐竹は大勢を以て白河界大ヌカリの関を打ち破り討って入れば、斑目大塚は叶わずに東館から引き退いた。その時大塚は討ち死にとなり、皆が諫めて一先ず白河へ引き給えと引いていった。佐竹喜び棚倉赤館を居城とする。按=考えるに佐竹に赤館を取られたのは天正二年以前である。義親より榒村松林寺への文書に



 渋井内膳を城主とする白河の旗下大塚、斑目兄弟、河東田が評議して、諸勢を交えず敵を常陸へ追い出すことにした。それを内膳が聞いて防戦の支度を整え、石川大和守昭光に加勢を乞う。昭光は加勢五百余騎に家臣浅井丹波守重隆、旗下矢吹薩摩守光頼(此の人始めは何地に居たのか詳ならず、前は浅川に居て天正十七年伊達政宗が須賀川を攻落とし石川昭光に与える。昭光より薩摩を城代とした)

 浅井丹波、矢吹薩摩を両大将とし、近藤帯刀、瀬屋、西真木、丹内左京行國を始め六月二十九日早天に野出島まで横合いに討ち入りする。それが聞こえた白川勢は兎角石川勢を追い散らし、重ねて棚倉を攻めようと、釜の子まで討ち入ったところで河東田、大塚、舟田勢掛け合いながら火を散らして戦った。七月二日棚倉より内膳が打って出ると聞き、白川からも星、忍、熊谷、多賀谷等追々馳せ合わせ、既に大勢となって喚き叫んで戦った。ここに河東田の家の子に近藤藤九郎と云う者が八尺余の棒を振って、石川の先陣近藤帯刀の勢へ割って入り、東西へ追い散らす。河東田大膳が此れを見て、九郎討たすなと掛け合いする。石川勢の内より須藤源六と名乗り九郎に戦を挑んだ。九郎はツツと入ってムズと組取り押さえ、首を取って立ち上がる所を、溝井六郎重晴(重時にも作る)が弓を引っかえ射ると、鎧を射通してついに九郎の首を取る。

 両陣は戦い屈して相引きとなり引き退いた。去る程に義親は諸臣を集め、棚倉を攻める手立てを評定して天正四年四月二十七日、密かに河東田に至り朝貞の方に詰める。義親は子細有って出張の跡に心元なく思われて(留守中義昭に奪われることを恐れて出なかった)佐藤大隅守忠秀(関物語に忠胤と云う白河城北の飯村の城主で土人の者ではあるが今飯村という地は無い、近頃飯土用の城主と記した物を見たが、飯土用昔は飯村と云ったのではないか。白河城北二里にあり)を軍師として河東田に参着する。忠秀は諸勢に向い、「合戦の習いは勇を以て好とせず、謀るを以て要とする」と言い、先に夜討ちをしたいが誰か赤館の案内を知る者はあるかと尋ねれば、則彼の城主であった保住(一には穂積に作る)大学が此れを聞いて「某の事、赤館を攻め落とされ兼ねてより無念である」と云い、大学を一手の大将として大塚斑目の勢と近在の侍を添えて搦手へ向かう。

 未だ夜の暗い山中に忍び入り、味方の作る鬨の声を今や今やと待ち構えていた。残りの勢は先陣大塚、二陣は河東田、三陣斑目、大将には大隅守、後陣は深谷、忍、熊谷、山本、柏木、青木等がじわじわと次第に詰め寄る。白川勢此所彼処に忍び入って搦手へ回る時刻を待っていたところ、保住勢が攻め寄せて鬨の声を上げる。追手の大勢も同じく鬨の声を合わして攻める。城内は思いよらない事であるから敵味方も見えず分ち難い事から、渋江内膳も妻を熊沢藤吾に十五騎添えて落とし行かせた。その隙に郎党共大手の門を防がせ、その内に鎧を着た二十五騎で打って出て、駆け破って落ち行かれた。

 搦手に向かっている保住勢が此れを見て、只今落ち行くは大将内膳なり追いかけて討ち取れと、大勢で是れを追う。渋井の手の者横山大助と名乗り、四五騎返し合わせて戦う内に渋江は寺山指して落ちて行く。大学の勢が彼の者共の首を取って引き返す。その外は城中へ討ち入り一人も残らず討ち取った。斑目の手の者が内膳の女子二歳を生け取りし小貫五郎左衛門という者に申しつけて内膳方へ送り返した。皆斑目の情を感じ入った。同年七月三日佐竹が大軍を率いて棚倉白川を攻める。後陣は農人共が青田を刈り取って進むので白川の郷人が困窮に及ぶ弊に乗じて以後、出陣の利を得る為である。

 この奉行に渋江内膳が申しつけられて言うには、棚倉夜討ちの時斑目兄弟は我が娘を返してくれた志を思い、使者を以て申し入れるは「此の度は青田刈りを取り候、貴殿領内は何なりとも印を立て置き給え、然らばその場所を相除き申すべく申し候」斑目は此の由を聞き勇士は合戦に容赦有るべからずと返事したにも及ばず、野武士どもが麻ガラを立て標を置いた。

 さて、佐竹勢が棚倉へ攻め入り、大軍であるから防ぎようもなく釜ノ子まで進出した。後より渋江、刎石(はねいし)が青田を刈って通る。斑目の領地を除いて佐竹が常陸へ帰ると、棚倉の旗下保住を始め釜ノ子迄青田を刈られた者たちが「斑目領だけが残っている」と注進あり、義親は斑目の心替わりと覚えて、斑目兄弟を密談すると呼び寄せ召して石井弥源太、箭田内藏助に三十人を付け置いて殺害する。(板橋村に伝わる古記に、廣基(斑目)は本文の如く殺されたけれど、其の子息能登守は家を継がせたとある)其の後は赤館棚倉も佐竹に奪われたが、この前後の事と思える、会津より加勢して佐竹を赤館から追い落すとする書状が那須家の蔵にある。



天正六年三月十八日石川旗下浅川の矢吹薩摩守居城まで(浅川は前に浅川次郎左衛門が住したこと見える)白川勢押し寄せる。


その2 おわり

白川古事考巻之四 その3

 天正六年三月十八日、石川旗下浅川の矢吹薩摩守居城まで白川勢が押し寄せる。(浅川は前に浅川次郎左衛門が居住したと見える)石川方にも岩城常隆の旗下竹貫三河守(竹貫に館跡あり)その他赤坂下野守を先として大勢が駈け合い戦う。此所に竹貫の郎党水野勘解由左衛門は、猫くくりと名付けられた八寸の矢根をもつ無類の矢で精兵五人でもって弓を張り一矢に二、三人づつ射殺すので白川勢は我先にと引き返す。
(竹貫の家は今水戸家の臣となり、水野の子孫は羽州酒田、酒井家の家老となっている。水野の弓勢が如何ほどか知るよしもないが、此の人の持っていた槍と云えば、大身の槍の常で並の者には持てないしたたかな物である。近頃、
余語克携の民間より得て予も見ているのである。またこの三河守の子中務少補は、岩城より須賀川二階堂の加勢に遣わされて、天正十七年十月栗屋沢において伊達勢に討たれる)

 大将大塚大膳(吉久)も射られて死ぬ。土人憐れんで吉久を葬り、塚を築いた。今に大塚と云う古墳あり。(大塚の先祖は佐竹左衛門貞義の四男佐竹掃部助師義が始めて常陸の手綱大塚という所に居城して大塚と名乗る。師義の嫡男上総介興義が鎌倉に在って上杉入道禅秀逆乱の時、持氏を守り名越の谷において父子四人討ち死にする。其の後綱久の代永正の頃に佐竹旗下四天王の一人と呼ばれたが、故あって大塚を立ち退き白川義親に属し、白川郡塙の城主となる。今の塙に徳林寺と云う菩提所があり徳林寺綱久の法号である。天正十八年結城家断絶の後、吉久の弟為久、為久の孫小八郎が民間に隠れていたところ、関右兵衛佐一政が士官を勧めたけれど辞して民間にあり、今の町年寄り大塚半十郎並びに久徳氏の家臣大塚嘉兵衛など皆その後の家紋は「扇に日の丸」である)
此れによって白川勢は力を落とし、白川指して引き返す。天正七年五月十五日佐竹大勢を以て河東田大膳を攻め落とし関和久の新知山に迫る。(前に記した那須堺の関和久ではなく、此の所は疑いもなく今の関和久の地である)


 河東田大膳も山王の森(関和久の地内の木ノ内山というところで、今は松茸山と云っている)に陣を取り防戦を敷く。為久の男大塚宮内左衛門,保住大学、田島信濃守、舟田監物(舟田村の館主)以下が二十騎、或いは三十騎となって駆けつけ、此所を大事と防戦する。また河東田方には和泉﨑右馬頭に駆け付けた大畠大学、中畠上野介、石塚、野崎、野木、青木、渡部等が山王森に控えていた。(和泉崎村、元は逸見主膳と云う人が領していたところ。中畠の館主上野介二男右馬頭を養子にする約束であったが、遺変により右馬守が主膳を攻め滅ぼして此の地を領し、和泉﨑右馬守と名乗る)

 佐竹の先陣、渋江内膳は阿武隈川を渡り、新知山を破って白川に入らんと鬨の声を上げる。新知山を防ぎきれないと見越した白川勢は白川に注進する。因って旗本の忍右京、芳賀越後、和知、多賀谷、星等が追々駆けつけ、更に大隅守、雅楽丞が大勢で駆けつけ、三日三夜相戦っていた折節に五月雨が頻りに降ったので、両勢とも退屈して互いに陣場を引き取った。そうした処に敵が釜の子より打ち入って関山の下合戦坂に到る、と聞いて義親は引目ガ橋へ向かったが、関和久の軍が心もとないので評定をした。大塚小八郎(十八歳)が進み出て、某が合戦坂へ向って佐竹勢を見参ってきますと云えば、義親大いに喜んで若輩ながら為久の二男(大塚の系図には孫とあり)程にあるとして盃を授け、手許の指物に鎧を添えて賜わった。郎等二人を召し連れて大塚合戦坂へと向かったところ、佐竹の物見として主従五人が引目ガ橋の辺りに近づいてきた。小八郎は此れを見ると空かさずに突き掛かり、互いに勇んで争ったが終に佐竹の士が討たれてしまった。此れより大塚は郷の渡し近くまで駈けていったが、弓手ノ山際に人馬の声がしたので暫く伺って見ていた。すると千賀という山間に数千騎の伏兵が見えた。(千騎谷、または姥ヶ懐と云う所)

 又、郷渡村の近くには五本骨日の丸扇子の旗を押し立て、数万騎が陣取っているのを見届けた小八郎は、急ぎ立ち返り物見の首を取ったことや敵の大軍が郷渡し原に屯している様を申し上げる。義親此れを聞いて皆の前に大塚を召して感賞した後、軍評定に入った所へ佐藤、須藤、芳賀、浜毛、中畠、小針等が馳せ集まる中で、浜尾将監景成、須藤対馬守重清が進み出て、「軍の習勢の多少に寄るべきではなく、心を一つにして天運に任せ、郷渡原へ馳せ行って相戦うべき」と申し上げた。義親は尤もだと、いち早く軍を到着させた。その勢は僅かに千余騎であったが二手に分け、一手は合戦坂口へ、もう一手は双石口より押し出す方へ廻る。佐竹勢は一揃いに備えていて、始めは矢合で遠攻めに見えていたが、その内に白川勢が突いて掛かると、佐竹は荒手を入れ替え入れかえして戦う故に白川勢が色めき、半丁(約五十メートル)ばかり退いたところが引目ガ橋であった。

 然る処に白川口より十四五歳の童子二人が忽然と現われ、佐竹勢へ突き掛かると佐竹勢は大勢の襲来とみて一人も向かうことなく後も見ずに引き退いた。追いかけて討ち取る首の数は三百八十余であった。味方は百余が打たれた。彼の童子は義親に向い「我は舘合不動の従神矜迦羅制吒迦なり」と申した。さて、この舘合味方不動とはこの時から言われたものである。(今も土人は味方不動と言い、この奇怪な説を解く事として延享の頃記した物には、舘合近辺の畑より器物色々掘り出したとあり)

 さて、関和久においては大隅守が兼ねて大塚宮内左衛門に星、和知、上寺等を付けて二子塚を回り、河原を登って佐竹勢の対岸にあるのを見た。大塚勢は鬨の声を上げ、大雨の降る夜にも拘わらず三王山の勢横合いに目を掛け、陣屋へ打ち入った。此れを見て新知山の勢鈴木若狭、大越信夫が我もわれもと討って入る。常陸勢心ならずも川へ飛び入り渡ろうとするところを討ち取られ、佐竹勢は散々になって釜の子へ引き退いた。白川勢にも泉崎右馬頭が深入りして疵を蒙り引き返し、多賀谷、白石は討ち死にする。高橋輿四郎は手疵を蒙り、その他にも討ち死に多く、その夜も明ければ皆それぞれの陣へ引いていった。

 佐竹は棚倉赤館に陣取って居た処へ、常陸より長倉近江、佐治一郎、高部五郎を先として参陣してきた。佐竹がこの新手を以て白川を攻めると伝え聞いた義親は早速軍評定をした。佐藤大隅守が言うには、「佐竹勢が白川を望んで押し寄せるとあれば、君先に鶴生へ引き取り、重ねて西方野武士を召し寄せられるべき。某はその旨を会津へ申し遣わしてから押し寄せると云い、中畠、大畠、保住の衆は一所になって関和久新知を塞ぎ、佐竹を小峰の城に包み込んで合図を定めて三方から攻められれば、どれ程か敵が疼くことであろうと勧めて謀らいを決した。佐竹勢は鹿島の前、蛇の尾口より攻め入り小峰に入ったところで、白川近辺の寺院並びに岩城会津相馬より(仲介の)扱いが有り、和睦となった。棚倉よりは佐竹領分と成って帰陣する。この時の文書であろうか、下野那須郡寺子村農夫の藏にある文書である。

 (文中晴朝は下総の結城であるが、同家ゆえに和睦の計らいをしたと見える)
    


白川古事考 巻の四<前編>終り













            



  





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白川古事考 巻ノ三(全)廣瀬典編<桑名図書館蔵>に触れる

2019-03-15 21:22:20 | 歴史



   
 

      

     

      

 按=系図中疑うところ多い。それを証明する者が補書する。
小峰より白河を奪うこと二度あり。永正七年小峰が謀って白河を逐い、二十五年経て還れば(会津四家合考旧事雑考に出ている)その間は小峰が主であるも同然で、顕頼は実に小峰氏であって永正七年より十六年前の明応四年に宮内少輔から左京亮に任じていることから、若年とも言い難い。永正七年に親族が大勢討死する。白川正統の政朝のみでなく、顕頼も独死している。白河の地を取った白河五郎が出奔し、大永二年に当主として居住する、子の義綱に代を譲ったのではないか。白河家の地を復したことも知れず、また義顕に至って小峰義親が白河を奪ったのであるが、親族の争い故に佐竹にも岩城にも多くの地を攻め取られ、太閤の小田原陣所へも出ず遂に祖先の跡を絶やしたことは、戒めとしなければならないだろう。


白川古事考巻ノ三 その1

 この巻は白河結城氏の系図に尽きる。頼朝の乳兄弟である朝光(頼朝の子とも云われる)を始祖とし、地頭識に任じられて権勢を振るう。南北朝時代に至り宗廣は南朝の北畠顕家顕信親子に従い、後醍醐天皇に味方した功績で結城総領の綸旨を賜わったとある。白河結城氏が尤も華やかな時代を迎え、後々までも存在を示した絶頂期ではなかったか。宗廣の子親朝は父の遺言に叛き、衰退の見えた北畠顕信を捨てて北朝の足利尊氏に鞍替えした。当時は家運隆盛の赴くところに従い、主筋を代えるのは当たり前であったようだ。この辺の歴史事情を廣瀬典の論考で述べてみよう。

 結城歴世の事実 上
仙道表鑑(二本松木代定左衛門の著述)に、結城七郎朝光は伊達泰衡等追討の功によって、白河、岩瀬、名取の三郡を源頼朝卿より賜わるとあり、此れより白河は結城氏の領するところとなるが、その身は下総の結城に在って遙かに白川を領したことになる。
 按=土人の説によると、朝光より六代の先祖太田別当行隆より白川を領すると有るのは誤伝であって、仙道表鑑の説の如くになるのである。また白河古伝記という土人の記伝には、泰衡対治の功により葛西六郎清重を奥州の奉行として白川の関に残し置いたが、後の建永元年に清重を鎌倉へ召し、結城上野入道朝広に白河を賜わったとあるけれど、朝光の時に葛西は奥において別の賞地を賜わったのであり、朝光は白河等を賜わったのである。


一、東鏡文治六年、泰衡は郎従大河原次郎兼任が謀叛した時、近国御家人結城ノ七郎朝光以下奥州に所領ある輩において、一族を召し具せずとも面々急ぎ下向するように、と仰せ遣わされた。
 按=この本文においても朝光が文治五年より白河を賜わったと見える。 

 朝広は朝光の長男である。結城七郎と号し後に従五位下大蔵権少輔上野介に任じる。(白川結城において上野を名乗るのは、此れを継ぐものである)頼朝卿の子であるが、尼御台の嫉妬の怒りを避けて密かに結城に養わせたのである。幼名をヤサ千代と申したという。これは白川民間旧家の者より、秋田の白河七郎へ由緒を書き出した説である。薩摩大友も頼朝卿の落とし種であるから同じ類いである。康元元年十一月二十三日、北条相模守時賴が出家せられた時、朝広も同時に白河で出家し法名を信佛と云ったのは、朝広が老いて白河に在していたということではないか。

一、東鏡嘉禄二年『詐称して公暁と称し、奥州白河において謀叛する者あり。朝広は浅利知義と共に撃って平らぐ』とある。
 祐廣は白河弥七左衛門と云う。兄広綱は父朝広の跡を継いで下総の結城に在り、次男祐廣は白河に在住して白河結城として別家となる。
 按=祐廣より白河結城となることは、大日本史にも家譜を載せて証しとしている。列封略伝併せて仙台の白河、秋田の白河等は皆祐廣を始めとしている。只本朝通鑑のみ朝光の男朝長は結城家を継ぎ、朝広は別に奥州に封じて白河結城と号し、一流の祖とするとあり、朝長のことは外の書に詳しく見えず、此の書が何の拠り所であるか知らない。


 宗廣は祐廣の子である。結城上野入道と云い、文保二年の文書には白河上野前司とあり、入道して上野入道と称したのであろう。今の城東搦村の墟に在って、其の頃は其処が白河と言われた地で、今の城は小峰と云われる処である。宗廣は武勇人に勝れ、奥州においては肩を並べる者も無い武士であった。弟が二人おり、片見彦三郎祐義、田島輿七左衛門廣尭が白河の内の片見村と田島村に在り。子は親朝と親光である。

 太平記元徳二年に「後醍醐帝関東を呪詛し玉う。北条高時是れを怒り、円観上人等の僧侶を鎌倉へ呼び下す。忠園僧正の白状によりそれぞれ罪過に処せられる。同年七月十三日円観の計らいは遠流一等を赦して、結城上野入道に預けられて奥州に具足し奉る。(この文によれば入道は鎌倉に在していたと見られる)上人が名取川を過ぎるときに一首の歌を詠まれた。(歌は略すとあり)名取川は名取郡にあり、白河より遙かに隔てて奥之地であるが、朝光の時に白河に添えて賜わったもので道忠(君山道忠は宗廣の号)の頃までは名取郡を領していた故に、円観をその地に遣ったものと思われる。今白河城下の永蔵寺由緒に「円観白河に在る時此の寺に居られた」と言い伝わるのは、名取へ往来の時に暫く滞留したものであろう。

一、桜雲記元弘二年八月、赤松円心は播州苔縄の城を構えて先帝の味方に属し、正成は千剣破城を築いて楯篭る。九月高時は一族大佛貞直、阿曽時治および二階堂道蘊等大軍を率いて上洛した。元弘三年(当今正慶二年を用いる)正月関東の大軍が相分かち、護良の皇子が守る吉野城と楠が守る千剣破城併せて正成の家人が籠る赤坂の城を攻める。この時道忠も関東の催促に応じて上京し在京していたのではないだろうか。白河七郎(白河結城本流であるが絶家の後秋田佐竹に奉仕)所蔵文書に二通あり、共に元弘の年号を用いている文書の故に、先帝の綸旨であると言っても先帝は隠岐に在して居たのだから、日吉臨幸のことなど有るべくもない。且つ先帝の御味方としては京都に当てはまらず、元弘の年号を用いて当今持明帝より賜わったものと思われる。

   

 続いて結城総領の綸旨を賜わる宗廣は、二男家にして庶流であるが当時年も高く、武勇も勝っていたことで格別の御恩遇であったのではないか。

      

 間もなく宗廣は関東に下り、鎌倉に在していたところへ後醍醐帝より綸旨を賜わる。新田義貞も千剣破城より引き帰り、鎌倉に在ったので謀り合わせて高時を討つ。その時の綸旨が次の通りである。

   

宗廣の嫡子親朝へも綸旨があった。文言は大抵同じようなものである(相類する)
これは下の親朝の条に出すのであるが、その宗廣の請文に

   
この請文によれば、太平記の中で宗廣が北条を撃って後、円観上人を伴って上洛した際は、君法体の不躾事を悦こび、思し召して聞き本領安堵の綸旨を下された。と言うのは誤りで、鎌倉に在って義貞に応援の功があったこと疑いない。また大塔宮の令旨、足利尊氏卿の書あり。道忠(宗廣)からも皆請け文を奉る。

 

   

   

 按=此の時、諸将共に綸旨を戴いたが、尊氏卿が先ず諸将に合力を申し遣わされた事は、既に諸将を指揮する気ありと窺える。以上の文書は白河七郎所蔵である。
鎌倉平定の後、道忠は上京して同年十月義良親王、併せて鎮守府将軍源顕家卿をもり立て陸奥へ下る。(関城書裏に道忠が補佐した故に速やかに功を著わしたと、道忠を讃えて記している)この時は陸奥の檢断識補をされていたのではないか。水戸結城家所持の文書に

   

 また白河七郎蔵に

   


 巻ノ三その2

 太平記建武三年正月陸奥勢山門に着き、その翌日三井寺の戦いに一番は千葉介、二番顕家卿、三番結城上野入道と伊達信夫の者ども五十余騎が入れ替えて面も振らず責め戦う。其の勢三百余騎であった。討たれて引き退く三井寺の敵を遂に敗れたと追い打ちにして進めたが、尊氏卿は三条河原に打出て将軍塚の敵を打つべし、と高師泰に下知し二万余騎が二手になって駆け上る。此れには脇屋右衛門佐、掘口美濃守、大館左馬助、結城上野入道、以下三千余騎で向かっていった。

 また同月二十七日軍に楠判官、結城入道伯耆守三千余騎が糺ノ森の前から押し寄せるとあり、梅松論には建武三年正月京都の軍に義貞白旗を差し、親光の父結城白河上野入道とともに一千騎を以て返し合いしながら、白川常住院の前や中御門河原口を駆け抜けた時は、いずれ溜まるとも見えぬ勢いであったが、そこへ小山結城一族二千余騎が入れ替わり火を放ちながら戦ってきたから、敵は(同族で敵味方に分かれた)打ち負けて鹿ノ谷の山に引き上っいった。残り少なく見えた敵の上野入道も味方の結城も共に一族であるほどに、互いに名乗り合って合戦している間に両方の討ち死に百余人となり、敵も味方も同家の紋であるから、子筋の直垂を着た後々の合戦では味方打もあるとして、小山結城の勢は右の袖を割いて冑(兜)に付けることを定めた。太平記には此の戦いに楠、結城、伯耆三千余騎が人馬を休めるために、宵より西坂を下り下松に陣を取るとある。

一、本朝通鑑延元元年三月、奥州の官軍唐橋経泰(按=顕家卿と共に奥州に至る人)及び相馬胤平が(按=胤平は相馬親族に引き分かれて官軍に属した人か、相馬系図には見えず奥相記に親類官軍に属すと云う)霊山(顕家卿の城であり名山で眺望の良い山である。土人が近頃碑を立てる)の兵を率いて敵将相馬光胤の小山保河俣(今の伊達郡霊山西南にあり)の城を攻める。光胤は敗走して結城道忠の家僕である中村氏(奥相記に中村六郎とあり白河の家臣に中村氏代々見えている)兵を宇多庄熊野堂へ出し光胤と戦う(熊野堂は今相馬城下中村の西南十丁許りにあり、川一つ隔てて城塁の跡がある)。光胤退いて小高の城(中村より三里ばかり南にある)へ入る。以下は奥相記を継いで書いてみる。

「この時光胤は遂に打たれ、甥の胤頼は山林に隠れ、官軍威を得ること甚だしい。尊氏卿より斯波式部大輔兼頼を探題として向かわせ、官軍の威を押し潰そうとした。胤頼は時を得て建武四年(南朝延元二年)一揆郎党を促し、熊野堂へ押し寄せ中村六郎を討ち取るとあり」按=建武延元の間、奥州の乱を書籍に見るのは稀であるとは言え、官軍には奥州宇津峯に親王二人迄相続いて下り玉わり、国司は顕家顕信、越後守秀仲、軍監有実、唐橋経泰、中納言顕時卿等下り、武家は斯波兼頼、畠山高國、同國氏、吉良貞家、石黨秀慶等追々下向し、伊達田村は始終官軍に志を固くし、白河は半ばにして武家へ属する。石川、岩城、相馬、蘆名等は親族が両方に引き分かれて、相共に隙を伺い戦闘する。若し詳らかに記録するなら戦いの止める日もなく虚しき月もなし、と云うべきか。(この年の戦いは親朝の伝にも見ることができる)
 太平記には「延元元年将軍より和議を申し上げられた故に、主上は十月十日京都へ還幸あり、一宮へ御位を譲りなされ義貞供奉して北国へ落ち、越前金崎へ入り奉る」その時の文書を白河七郎所蔵する。


「尊氏直義己下朝敵追討の先度仰せられ且つ裏(?ウチ)に綸旨を発して十月十日臨幸有る所越前国敦賀の津也云々」
 按=太平記に「一宮に従い奉り北国へ落ちたる人の姓名に洞院左衛門督實世卿あり、右衛門督なし。此の右衛門督は實世卿にして左右の字を誤るものである。別に同文字の綸旨あるが名氏は左中将と計りあり、義貞朝臣であろうか同じ詞ゆえに記載せず。
主上吉野へ還られた御文の写し白河七郎蔵する。

   


 

   

 武家感帳記を偶々(たまたま)見るとこの時の請文あり。
「勅書併綸旨回状跪(ひざまづいて)拝見候記 臨幸吉野天下大慶社稷(しょく=きびしい)安全甚以此事候頃馳参之處当国擾乱之間令對治彼餘賊忽可企参洛候去比新田方申送候間先達致用意千今延引失本意候此間親王御座灵山(霊山)候虜凶徒円城候之間近日可遂合戦候綸旨到来之後諸人成勇候毎事期上洛之時候也
   正月二十五日         顕家
     千葉とのへ」(下総の千葉一家は引き分かれ、南朝へ属した人もある。その人宛であろう)

 桜雲記に「延元二年正月八日結城上野入道源秀、熊野堂に至る。同二十六日於熊野堂白河入道道忠武家方相馬松鶴丸一族と合戦日々に及んで双方討死甚だ多し」とあり、また奥相記に「宇多郡は相馬の本領なれども国司顕家に奪い取られ、顕家の城である霊山の搦手であるから、白河入道道忠の知行として(別に道忠に賜わる文書あり)熊野堂に城を構えて五十五年の間、合戦の止む時も無し」按ずるに南北朝の間五十七年であり、親朝武家へ下った後は相馬と戦争は稀である。何を指して言うのであろうか。此の春は北国において義貞の軍甚だ窮迫であることを太平記に見えている如くであり、金崎に籠らせ玉える一宮より賜れる綸旨(次ぎに掲げる)

   

 その3

 太平記に「奥州の国司顕家系は去る元弘三年、鎮守府の将軍になり又奥州へ下る。其の翌年に官軍は破れて君は山門より還幸されて花山院の故宮に幽閉せられた。金崎の城は攻略されて義貞朝臣も自害したと聞かされるに及び、終に伊達郡霊山の城一つを守るのみ。守るべき城が無いような状態に居られた處で、主上は吉野へ潜幸されて、義貞は北国へ打ち出たと披露されたので、何時の日か人の心も替り(綸旨の)催促に従う人も多くなった。顕家卿は時を得たと悦んで回文を以て便宣の輩を催されると、結城上野入道道忠を始めとして伊達信夫南部下山の六千余騎が馳せ加わる。国司其の勢を併せて三万余騎が白川の関へ打越して来ると、奥州五十四郡の勢が共に多く馳せつけて程なく十万余騎となった。其れを聞いて鎌倉を責め落として上洛すべきだとして、八月十九日白河の関を立ち下野國へ打ち越された」(八月十九日白河の関を出て、十二月二十八日鎌倉を攻め、正月八日鎌倉を立ち南都へ着かれる。道忠は半年も経て所々に多くの戦いをしてきた。太平記に載るだけの戦いではない。道中に顕家卿と道忠より親朝へ与えた文書は親朝の紀に詳述している)

〈これより途中抜粋の項を抜き書きします。三巻の冒頭に結城家の系図がありましたが省略しました〉

「南朝紀傳」に「七月十二日一品の宮、刑部大輔秀仲に仰せて白河親朝を修理権大夫に任ず」とある。
然しながら南朝の御勢は次第に衰え、武家の威が日々に高まるにつれ、親朝は父の遺訓をも顧みず武家へ心を通わせている。常陸の小田も高師冬に攻められて降参してしまったので、親房卿は関の城(今どの辺の地であるか不明、常陸国誌にも不詳という)を守って書簡を送り、親朝に援兵を求められた。(書簡の)詞の忠誠に人を感じさせるものがある。(註=この書簡の文面は文書の部にあるという)親房卿が斯くまで勧められたにも拘わらず、親朝は軍兵が少ないので助けられないと辞退した。親房卿は宣宗と云う僧を顕信卿に遣わして後援を送るよう告げたが、親朝はこれを差し押さえた故に親朝は終に武家へ属することになった。
白河、武家に属するに因って足利家より所職の事命じられる。この節奥州の探題畠山右馬頭國氏、吉良右京大夫貞家よりの文書、白河七郎所持。
奥州郡々検断奉行事任先例不可有相違但於安積郡者追可有其沙汰之状如件
  貞和二年七月十六日  右京大夫 花押
  結城大蔵大輔殿

興国五年関の城が陥落したので親房卿は吉野へ帰り、顕信卿と宇津峯親王は猶陸奥に留まり在したので田村、伊達等守り奉る。(この条白河に預けられるものが陸奥の勢に預かるとは)
一、太平記文和元年の所に、「将軍小手指原の合戦に事故無く石浜に居わすと聞いて、馳せ参じる人々には」と云う内に白河権少輔とあるのは親朝であろう。

顕朝は親朝の嫡子であり七郎という。白河民間系図には大膳太夫とあり、白河七郎系図には左兵衛尉、弾正少弼等に叙任するとある。桜雲記には大蔵太輔と称している。顕朝に朝常、朝胤と云う二人の弟あり、子孫相続するにも系図には出てこない。親朝没後であろうが兄弟三人に、南朝へ興し候へと綸旨を賜わった。
白河七郎蔵に綸旨書状あり。

一、本朝通鑑正平二年春夏の際、奥州の管領畠山高國、吉良貞家の二人が、白河結城顕朝及び相馬氏伊賀氏(桜雲記に式部入道とあり)等を率いて、南朝の藤田霊山、田村宇津峯等を攻め陥る。是れより奥州は大半が武家の有となる。
一、正平五年(北朝感応元年)より尊氏公、恵源(直義)と兄弟不和になり、恵源南方へ属する。この時上方では畠山国清は其の一族直宗が誅されるに及び、武家を背き南朝へ降参する。是れに因ってまた奥州に於いても畠山高國、其の子國氏も南方へ属して岩切の城に籠り、吉良右京大夫と合戦する。白河は始めより将軍方に属していることで、貞家よりの文書を白河七郎が蔵している。


   

(此の年師直師恭誅せられる、二月十四日なり。岩切は今の岩城郡岩切村に城跡があり、是ではないか。又二本松の城を今も霧ヶ城と云っていて、畠山は安積安達の辺りに始終居た故に、二本松なら事実に合う。また岩城の内にも岩切と云う所がある)


 桜雲記正平七年二月十二日岩切の城を貞家攻め破り、畠山高国父子自害する。三月二十四日源顕信と吉良貞家が合戦し、顕信軍は敗れて田村庄宇津峰城へ入る。仙道表鑑積達古館弁等に、高国父子が宮方と戦って死んだと云うのは誤りである。

 園大歴に正平十年三月奥州国司到着、白河関先懸け勢に宇都宮相伴って一方発向同年五月大納言守親(顕信卿の次男)陸奥の国司に任じる。陸奥にあって白河結城氏(桜雲記には弾正少弼とあり、顕朝であろう)戦うと見える。桜雲記には天授五年守親大納言を綬せられるとあり、その前に奥州より南山へ帰られたと見られる。その後は奥州に南方の将軍なし。大に南朝方勢いなく、皆武家へ属したものと思う。
祖父宗広は所領を親朝に与えず顕朝に授ける。

 満朝は顕朝の子である。中務丞系図には左兵衛尉応永二十四年八槻文書に沙弥道久と云う鎌倉大草紙(九代後記にも出ている)応永三年小山犬若丸奥州に逃げ下り、住人田村庄司清包を頼み新田義宗の子息相模守並びに其の従弟刑部少輔、白河辺りへ打ち出した。鎌倉殿(氏満朝臣)此れを聞いて十二カ国の軍兵を率いて二月二十九日に打ち立て、同六月朔日白河城へ御下向し、結城修理大夫館に御座した。(修理大夫満朝であろうか、満朝も修理大夫と云うのだろうか)大勢下向の由を聞き悉く退散したので六月十九日白川を御立ちになると見えた。(鎌倉管領九代記に鎌倉満兼応永六年七月出羽奥州巡行の為に鎌倉を立ち、奥州白川に赴き稲村の御所に逗留されたとあり)

 会津塔寺日記に応永十八年十月十一日小山悪四郎隆政と鎌倉上杉右衛門佐氏憲の下知による藤田十郎、小山新左衛門、結城中務允満朝、長沼若狭守政連、宇都宮等一万余騎で攻め戦う。
 按=満朝関東の諸家と列するは下総の結城に紛らわしい、疑いを持つ。

一、鎌倉大草子応永二十三年持氏が上杉禅秀と合戦の時、禅秀方人数に陸奥では笹川殿を頼み中間、蘆名盛久(系図に三郎左衛門盛久=文安元年率、子は無く弟盛信に譲る)、白川結城、石川、南部、葛西、海道太郎の者ども皆同心する。鎌倉九代後記には此の乱に持氏方に結城弾正少弼あり。禅秀方に白川結城とあるが、持氏方の結城弾正少弼は氏朝ではないか、白川結城とは満朝のこと。父子両方へ分かれて戦うとは不審である。応永の末に一旦、京都将軍と持氏とで不快の事あり(応永二十九年)一年ばかり経って和睦したがその節の事であろう。
 氏朝は満朝の子である。弾正少弼道号義秀系に普光院殿義持将軍の八坂の塔供養の桟敷へ参候するとあり、京に於いて屋地を賜わった文書が仙台白川家に蔵している

「大炊御門万里小路(東西十丈南北二十丈)屋地事早任去十日御教書同月十四日御施行○之有可被沙汰付白川弾正少弼氏朝代々之状如件   永享十一年十月十六日   兵衛尉 花押
岡本勘解由左衛門尉殿
譲与所領等之事(左に諸知行分が記される=省略)

「岩﨑以  牟呂以  草間以
右於彼所領等者相副手銭証文所譲与氏朝也不可有他妨為後日譲状如件
 応永二年十月二十一日   満朝 花押
 按=氏朝が依上を領すること依上部に見え、下野茂武を領すること八槻文書に見える。下総結城を領することは譲り状に見られる。然しながら下総結城には同時に中務大輔氏朝があって、持氏朝臣の御子安王春王を介抱し、永享十二年より嘉吉元年まで結城に籠り討ち死にする。同姓にして同名且つ領地同じくして領することは理なし。同人であることは疑わしい。故に本朝通紀には安王春王を守ったのは満朝氏朝父子とする。証拠がないのに斯く分明に言うのも如何かと思う。臣(典自身のこと)もまた其の一人に似たものの一である。氏朝の文書所々に載せているが、永享十一年迄で止まり、その後の文書なし。籠城以後文書を出していないことも臣が一人に似たものその二である。

 結城戦場等書に氏朝の子成朝と云う。白川に於いては氏朝の次を直朝と云う。然しながら直朝は永享四年修理大夫に任じ結城の城攻め、寄せ手の内に加わっている。氏朝は寄せ手の内には見えていないところから、氏朝は直朝の父ではなく、氏朝が白河を出て下総の結城に居て籠城した折り、成朝が別に(下総の)跡を継いだ。直朝は親族の内より氏朝の後の白河を領したとも知り難い。此のことは一人に似たものその三である。然しながら結城中務大輔は本朝通紀付録に、持氏朝臣の政所に応永三十三年任之とあって、もとより中務大輔である。白河の氏朝は弾正少弼であり父満朝は中務允である。諸書にある中務大夫氏朝という確とした説でも無いようだ。結城物語鎌倉管領九代記等には氏朝を七郎と計り記し、九代記七郎の伯父結城中務大輔と記しているのは、本朝通紀の白河結城中務丞満朝と書くのに似たところもあり、又前に載せた譲り状の面に於いても氏朝は白河郡も南方のみ領している。此等は半信半疑で決しがたい。果たして同人ならば世に名高き義士であるのに、我が郡の人である事を知らないとは口惜しい。
直朝は氏朝の次なり、道号海蔵関川寺殿と云う、今の関川寺の開基である。永享四年修理大夫に任じる。仙台白河氏の書蔵に
               義政公花押
 上卿   三条大納言
  永享四年五月二日       宣旨
   藤原直朝
    宣任修理大夫
     蔵人頭右大辨兼長門権守藤原忠長奉

一、鎌倉持氏朝臣が将軍義教公と不和になったことで、上杉憲実が度々諫めたが聞き入れず永享十年義教公奏して持氏朝臣を打たせられる。詔書本朝通鑑にあり。曰く「従三位持氏累年積悪今達天聴鬨左武士等随従憲実不日可令誅伐持氏也」とあり、その時の御教書を仙台白河氏が蔵する。

   

一、本朝通鑑に嘉吉元年四月(結城落城の後)将軍義政公より書を賜わり、伊達大膳大夫持宗、白河結城修理大夫直朝、二本松畠山七郎、蘆名下総守等の軍期に怠けて兵を出さないのを責め、また同年十月御教書を奥州羽州へ遣わして塩松松寿(意味不明原文のまま)二本松畠山七郎、伊達持宗、小峰下野守、信夫族、石川族等出陣の晩期(遅れ)を攻められる。(按=これは結城の軍である。小峰は白河の分家であることは諸書に見えているけれども、定かではない。此の本文に拠れば小峰は始めに記した朝常の家であって、系図には嫡流をも小峰と書いているのは誤りである)この節白川は石川と私の合戦があって、彼の出軍を引き延ばした故に催促があったのではないか。

石川家所蔵の古書
   

 足利成氏朝臣が京都と不仲になってからは、関東の諸将は両端を持して左右へ荷担することが多くなった。義政公が度々成氏朝臣を討つために直朝へ出勢を申し越され、宇都宮等綱でさえ成氏朝臣に敵対すると申しているところへ、直朝は反って等綱にも勧めて共に古河へ属したことで、愈々出軍しなかった。京からは尚更に出勢を責められる。京の屋地等は(将軍家から)下されたものであり、これに因って等綱はついにまた京方になってしまった。直朝は成氏から旗など賜わって味方と頼まれるので、容易に京方にはなれないでいる有様は、始終如何であったろうか。直朝の京の屋地については、直朝の後の沙汰が無いところを見ると、京の命に快く従わなかった為に召上げられたものか、事の始末は詳らかでないけれど、仙台白川の文書等を照らし合わせてみると、大凡の様相を知る事が出来る。

一、錦小路東洞院与四条間東類四町之屋地事早任当知行有白川修理大夫直朝領掌不可有相違之状如件
  長禄二年十一月六日


(訳者付記) 巻末に至っては鎌倉の持氏が敗死した後、残された春王丸安王丸の二遺児は、下総結城に楯篭った氏朝満朝に守られるが、その甲斐もなく敗戦によって氏朝と父満朝は自害し、二遺児は囚われて遇えない最後を遂げてしまいます。生き延びた成氏は赦されて鎌倉公方に任じますが、再び京都との関係が悪化して関東は蜂の巣をつついたように動揺していきます。其の一端を示す成氏の戦いぶりが記されて巻ノ三は終ります。

 鎌倉大草紙に「成氏、小栗の城を攻略すれば、上杉方悉く敗軍して野州へ落ちて行った。とはあれ京都の御沙汰等閑ならず急ぎ早で、千葉入道常瑞同じく舎弟中務入道了心、宇都宮下総守等綱、山河兵部少補、真壁兵部少補等上杉に一味して所々に蜂起する。此の宇都宮等綱は去る応永の頃、小栗よう(羊に辶)心の時に一味同心して逆意を企て、塩舎に打たれた右馬頭持綱の子であろうか、御免を蒙り本領を安堵されたのに今度も最前に敵となって籠城した。成氏は他の敵を差し置き怒って自身で押し寄せたが難義して、芳賀守紀清が両政の婿であるところから、これを頼み宇都宮の家を絶やさずに済まそうとしたが、叶う様もなければ(宇都宮は)出家入道して命だけは助かり、黒衣を着た姿で城を出て奥州白川へ落ち行かれたと見える。





 巻の三終り




コメント

白川古事考 巻ノ二(全)廣瀬典編<桑名図書館蔵>に触れる

2019-03-15 21:20:18 | 歴史

桑名図書館の了承を得て掲載しています。

和歌のかなには現代語に近づけるため、濁点を入れたのがあります。歌の気品を損ねるかも知れません。


白川古事考 巻之二 (1) 

   関門起廃  関の和歌附き
一、東鏡に「阿倍頼時南郡を掠めて領とし、西は白河の関を境に二十四日の行程、東は外浜によって又十四日の行程」とある。又同書に中尊寺建立のことを記して、「寺塔四十余宇禅坊三百余宇也。清衡六郡を管領する最初に是を草創する」とあり、先ず白河の関より外浜に至る迄二十余日の行程である。その路一丁毎に傘卒塔婆を立てて、其の面に金色の阿弥陀の像を描く(今、白河郡旗宿村の土民や下仏と唱える碑に基づく)。これ等は正しい書において「白河の関」が見えてくる始めであるが、土人に伝わる『白河古伝記』と云う書には、『藤原清衡の子基衡が鎮守府将軍としての頃、国が乱れていたので奥州の入口である白河に関を据えて野州を押さえ、また棚倉大垬へ関を据えて常陸下総を押さえた。両所に明神を祭り「関の明神」と崇め奉る。是を白河二所の関と云っている』年歴を以て考えると関の始めは基衡より早いのである。

 平兼盛の歌にも見えるが、関の設けは古鎮守府将軍であった人が、奥州一国の境界を固める為に置いたものであろう。〈按=旧事記に「志賀高穴穂朝五十有三年秋八月丁夘朔天皇欲巡狩日本武尊所平諸国冬十月従海路己而幸常陸尚到白河関」とあり、この時すでに関の名称としてあるのだが、実際には孝徳帝の朝に三関を置かれたことが関の始めとなっている。且つ旧事記は偽作の説があるので、固定せず疑うべきである。然しながら諸国の関に比べれば、施設も堅固にして名も秀でていることから唐土までも聞こえたらしく、明の太祖が僧無一を我が国へ遣わす時に、僧一初めの送別の詩(全詩甚だ長く本朝通鑑に見えている)に「白河関高玉縄下」の句あり、また京都智積院泊翁和尚は博学の人で、その文中(谷響集にあり)に、唐土鬼門関の事を引いていて、「日本風騒士以奥州白川関在東北隅称鬼門関蓋取名於交趾矣」とあり、又この関を二所の関と云うのは、四国雑記に『白川二所の関に至る』とあるので、足利の頃唱えた名称だとは思うが、然しその頃はもはや関は廃されているので、二所とは古伝記に言う如く旗宿と大垬を言うのでなく、旗宿村の首尾に関門二カ所を設けて旅行く人を改め、非常を戒めて、一重の関ではない二重の厳重な関であったが故に二所の関と言われるものである。

 大垬の方にも僅か六、七丁を隔てて、上の関下の関と唱える地がある。是もまた旗宿と同じ姿で二所に関門を作っている。今の官道白坂の土人は、旗宿の古道と白坂の官道とが「二所の関」であると云うけれど、今の官道には関があったとも聞かれず、遺趾と思しき地もない。恐らくは否定されるものだろう。
そうは云うものの昔の白坂は、今の駅よりは半道ばかりも西の方に所在して、その辺りを古ノ宿場と言っている。その界を越えれば下野の木戸村、戦村と云われ、那須家が白河と戦争した当時より名付けたものである。しかし、この道筋にも遺趾と思しき地はない。二所の関とは一カ所に二重に作ったものと定められて、殊に関跡の紛れもないのは旗宿の関跡であり、土地の形勢もこの処を括れば、行旅も俄に外の道へ避ける岐路がない。
 その地の見付に関山横はりと言って、蝙蝠の翼を打ち伸ばしたように、柵がぐるりと張り付いていたこと、また義経朝臣の旗立て桜や家隆卿の二位殿の杉、義家朝臣の母の衣掛楓等々古木が生い茂り、白河の流れも此の地より出て東流していることなどから、老公(定信公)は諸臣に命じて考察をなさせ、此の地の関址であると標し碑を立てた。碑表には「古関蹟」の三字を大書し、裏には左の文を刻み込んで表出なされた。

  白河関址堙没不知其処所久矣旗宿村
  西有叢祠地隆然而高所謂白河達其下
  而流鳥考之図史詠歌又徴地形老農之
  言此其為遺址較然不疑也廼建碑以標
  鳥爾
  寛政十二年八月一日
   白川城主従四位下左近衛兼越中守源朝臣定信識

関を廃した年の何時であるかは定かでないが、和歌をとおして考えると平兼盛の歌に
 「みちのく白河の関こえ侍るによめりける」として

 便りあらはいかて都へ告げやらんけふ白川の関は越えぬと

また能因法師の
「都をば霞と共に出でしかと秋風ぞ吹く白川の関」この歌は、京都において詠まれたものであり、詠んでから白川の地を通過しないのは無念だとして陸奥に下ったともみえる。中古歌仙三十六人伝という書に、「竹田大夫国行者下向陸奥之時白川関殊刷之間人奇問其故答曰古曽部入道」(能因法師号古曽部入道)とあり、秋風そ吹く白川の関と読まれる所である。争点でもあるが、過ごす哉と言っているように見えるので、能因も実際にこの地へ下り、国行も同じように関路を過ぎたのだと思う。この時は関が存在していて、実際に見て奥に下ったものと思われる。その後鎮守府の任が廃されてから、この関門も設けなくなったのである。文治五年頼朝卿が奥州征伐に赴いた際に、泰衡の兵が此の地まで進めて防戦したと聞く。泰衡軍は仙道七郡、会津四郡、岩城四郡等を戦いの前に捨てて後退し、自ら敗戦に屈したのは、伊達の大木戸を限りに打出る事もない、泰衡兵の拙い謀り故であろう。泰衡亡き後に白河郡を始め仙道会津岩城をも勲功の賞として諸将に賜わったのは、それらの地が泰衡の管内であったことを知るのである。

元より山河の険しい処なので、その時に到る迄も朝夕に関が堅固であったのでは、此の地に一戦あるに相違ないから関を早廃したのである。梶原源太が頼朝卿に従って関の明神に在るとき、頼朝卿が「今巳に秋の始めなり、能因法師の古を思い出でざるか」と問えば、景季は馬を控えて「秋風に草木の露をはらわせて君が越えれば関守もなし」と詠み応えたことにもとづけば、関の存在の有無は計れないが寂寞とした様が思いやられ、明神の社のみ残っていたように覚える。

西行法師は修行のために、陸奥へ罷り来て白河の関に留まるが、所が処だけに常よりも月の面白くアワレに感じて、能因の「秋風そ吹く」という御歌の秀逸であるのを思い出され、名残り惜しいので関屋の柱に書き付けた。

「白川の関屋を月のもるからに人の心はとまるなりけり」

また建治三年の秋、一遍上人が奥白河の関を通るときに、西行法師の歌を思い出して関屋の柱に書きつける。

「行く人を弥陀のちかいにもらさじと猶こそとむれ白河の関」

と詠まれる類いは、未だ関屋は荒れながらも残っていたと思えるが、古は風流だとしても関門の吏が厳然として存在し、誰何して詰問すれば、かかる物哀れなる道心者の筆をとって関門の柱に文字など書き残すのはどうかと思われる。であるから関の設けは廃して家屋の壊れるままにしていたのであろう。文治五年結城氏がこの郡を賜わった後に城を築き、城を以て奥州の咽喉を制すれば、区々の仕切り関門のくびきで、國の柵鎖にする必要はない。その時に廃されたのである。

一、東鏡正治二年に工藤小次郎行光の郎従、藤五藤三郎兄弟が奥州の所領より(按=工藤左衛門尉は泰衡追討の功により、その子孫は天正の頃まで安積郡を賜わり相続していたこと、仙道表鑑に見える)鎌倉へ参向する時に白河の関の辺りで、御使が芝田(按=柴田郡を領していた人)を追討されるべきだと聞き、その処より駆け還り合戦を交え、彼の館の後ろから無数の矢を射る。又暦仁二年正月十一日今日、陸奥国の郡郷所當の事で沙汰あり。これは準布の例で沙汰人百姓らがワタクシに本進の備えを忘れ、銭賃を好み所済の貢年を追って不法があったと、その聞えがあるので「白河の関」より東は、下向する輩の取り持ちにおいては禁制に及ばず、また絹布粗悪がはなはだしいと言われぬように本のように弁済すべき旨を定めた。匠作の奉書を以て前の武州へ触れ仰せつけられると見える類いは、関門が廃された後ではあるが、「白河には関々」と喚く人の口吻癖になっているので、ついつい白河の関などと言ってしまうことから、冊子にも記すようになったのであろう。太平記にも白河関とあるが其の類いである。

一、古今の人の歌を読んで「白河の関」などと言うのは、些かこの地の事実にも精通せず、詩の品につられて言い出したが、自ら功名心で土地の光にもなり、好古の心を漏らすつもりもないので左に記す。

前の大納言公任集にミチサダが陸奥に下るとき、女の式部が遣わした歌を聞き給いて
 「今更に霞ヘたつるしら河の関をはしめて尋ぬへしやは」

橘為仲朝臣集に、十一月七日白川の関を過ぎ侍りしに雪降り侍りしかば
 「人つてに聞き渡りしを年ふりてけふ雪すへぬ白河の関」
また同集に白川の関をいつるあいたもみちいとおもしろし
 「紅葉々のかるるおりにや白川の関の名をこそかわへかりけし」

新和歌集に権中納言少将にて宇都宮へ下る時に侍り、ついに白川の関に侍りて
 「白河の関のあるしの宮はしらたか世に立てしちかひ成らん」

後拾遺集   民部卿長家  中納言定頼
 「東路の人にとはゝや白川の関にもかくや花の匂ふと」
 「かりそめの別れとおもへと白川の関とゝめめは泪なりけり」

内裏名所百首  建保三年十月二十四日 作者

  女房順徳院  僧正行意  参議定家卿
  従三位家衡卿  俊成卿女  近衛内侍
  宮内卿家隆朝臣  左近衛中将忠定朝臣
  前丹波守知家朝臣  前丹後守範宗朝臣

  散位行能       蔵人左衛門少将藤原康元
 便りあらば都へ告げよ雁金もけふぞこへつるしら川の関
 東路やまた白河の関なれどかぞえしままの秋風のころ
 白河の関の関守いさむともしぐるゝ秋の色はとまらず
 道のおくしらぬ山路をかさ子きて夕霧深し白河の関
 何となく哀れぞ深き行方もまた白河の関のゆうぎり
 あわれさはいづくをはてと白河の関吹きこゆる秋の夕風
 白川のせきの紅葉のから綿月にふきしく夜半の木枯
 染あへぬ木の葉やおりる秋の霜けさ白川の関の嵐に
 行くまゝに秋のおくまで白川の関のあなたにしぐれ降なり
 白川の関とは月の名なりけりあくとも秋のかげを留めよ
 秋霧の朝たつ山路はるかにも来にけり旅の白川の関
 ゆく末もまた霧ふかき夜をこめてたれ白川の関路越ゆらん

詠千首和歌
   関路秋風      藤原試験
 越へぬより思うも悲し白河の関のあなたの秋の初かぜ

新和歌集
   題しらず       有尊法師
 白河のせきもる神も心あらば我が思うことの末とをさなん

丹後守為忠朝臣家百首
   
関路帰雁       少納言藤原忠成
 きく人ぞ立ちとまるける白川の関路もしらずかへる雁金

木工権頭為忠朝臣家百首
 白川の関をば春はもらしかし花にとまらぬ人しなければ

俊成卿文治六年五社百首
 月を見て千里の外を思うにも心ぞかようしらかわの関

最勝四天王院障子和歌  建永二年
  御製     大僧正慈円  大納言通行
   俊成卿女  有家朝臣  定家朝臣
   家隆朝臣  雅経  具親  秀能

 雪にしく袖よ夢路よたえぬべしまた白川の関のあらしに
 初雪に冬草わくる朝ぼらけおくぞゆかしき白川の関
 白川の関の秋をばきゝしかど初雪わくる山のべのみち
 そことなく山路も雪に埋もれて猶たのみこししらかわの関
 五月雨のふる里とをく日数えてけさ雪深し白河の関
 くるとあくと人を心におくらさで雪にもなりぬ白河の関
 けぬかうえにふりしけみゆき白川の関のこなたに春もこそたて
 おもいおくる人はありとも東路やみちのおくなる白川の関
 陸奥のまた白河の関みれば駒をぞたのむ雪のふるみち


歌合  健保五年十一月四日  実氏卿
 残りける月のひかりのおくもみつ雪にやとかる白川のせき

同書に            高倉
 降りつもる雪をさながら照らす月こよいなりけり白川の関

豊原統 秋自歌合に  明応頃の人
 月影もいく有明にめぐりきてけふ白川の関のあき風

新後撰集           藤原頼範女
  みちの國へまかりて詠み侍る
 音にこそ吹くとも聞かし秋風の袖になれぬるしらかわの関

隣女和歌集に
   聞恋
 白河のせきのあなたにありときく壺のいし文いかで蹈みん

道助法親王家五十首和歌に
   開花          西園寺入道太政大臣
 山桜花の戸さしを明けそめて風もとまらぬ白川のせき
 色みえぬ花のかのみやかようらん雲にとじたる白河の関
 白川のせきのしがらみかけとめて花をさそいて春ぞくれ行
 ちらぬまはみすてゝ過ぐる人もあらし花にまかせよ白川の関


玉葉集           法師任齊
 越来ても猶末とをし東路の奥とはいわし白川の関

李花集 宗良親王の御集
   中院准后歌見せ侍りしにいつ方も道ある
   御代にちかければ又もこへなむ白川の関とありしそばに
 道あれば又も越なんと誰もみなけに白川の関路まさしき

金槐集 源実朝公の集
 東路の道のおくなる白川のせきあへぬ袖をもる涙かな


大蔵卿行宗卿集に

   関路深雪
 雪つもる庭にそしりぬいとゝしく猶やそふらん白川の関

源頼政集に
   於法住寺殿三熊野詣候間人々歌合わせられしに関路落葉を
 都にはまた青葉にてみしかとも紅葉ちりしく白河の関
藤原ノ光経の集に
 旅人のまた跡付ぬ雪のうえに月の光もしらかわのせき

祐子内親王紀伊の集に
 越ぬよりおもひこそやれ陸奥の名に流れたる白川の関

源孝範の集に
 白川や桜に春のせきならんこれより花のおくは有とも
 面かげは身をもはなれずなれ々て別れしかたはしらかわの関

源直朝の集に 文明頃の人
 あわれにも行年波は白川の関とめかたき旅のそらかな

正広日記に
 ふしはみつ又もそ思ふ秋の風きかはやゆきて白川の関

雲葉和歌集に
   法性寺釣殿にて歌合侍りけるに関路落葉を
              俊成卿
 色々の木葉に路も埋もれて名をさへたどる白川の関

実方の集に
   白川殿にて道つな少将せきとふしたるによりて
 いかでかは人にかよわんかくばかり水ももらさぬ白河の関

重之の集に
   はこかたのいそにて京にのぼる
 白河の関よりうちはのどけくて今はこかたのいそかるゝ哉

藤原雅経冬日詠百首
   神鏡通
 思ひ立つほどこそなけれ東路やまた白川の関のあなたに

高大夫実無の詠百寮和歌
   按察使
 奥深き人の心は白川の関しなけれは終もしられん

続詞花集に          藤原季通朝臣
 見て過ぐる人しなければ卯の花のさける垣根や白川の関

千載集   左大弁親家   僧都印性
 紅葉はのみなくれないに散りしけば名のみなりけり白川の関
 東路もとしも末にやなりすらん雪ふりにけり白川の関

続古今集    寂蓮法師  藤原季茂  従三位行能
 逢坂をこへたに果てぬ秋風に末にぞおもへしらかわのせき
 都出て日数は冬になりにけりしぐれて寒き白川の関
 おなじくは越えては見まし白川の関のあなたの塩釜の浦

続拾遺集    津守國夏  観意法師
 白川の関まで行かぬ東路も日かずへたれば秋風ぞふく
 夕暮れは衣手さむき秋風に独りやこえんしら川の関

続千載集           源邦長
 秋風におもふ方より吹き初めて都恋しきしらかわの関

続後拾遺集  大江貞重  津守国助  源兼氏
 別れつる都の秋の日数さえつもれば雪の白川のせき
 都出て日数おもへば道遠し哀へにげるしらかわの関
 限りあらばけふ白川のせき越えて行はへ越える日数をそしる

新千載集           澄空上人
 光台は見しは見しかはみさりしに聞きこそ見つる白川の関

新拾遺集           丹波守忠守
 今宵こそ月に越えぬる秋風の音のみ聞きししらかわのせき


新後拾遺集          左大臣
 都をば花を見捨てて出でしかと月にぞ越える白川のせき

拾遺集            源満元
 へたて行人の心の奥にこそまた白川のせきは在りけり

新拾遺集           西行
 都いでて相坂こへしおりとては心かすめし白川のせき

               後九条前内大臣
 秋風にけふ白川の関こへておもふも遠しふるさとの山


 (連綿と続きますが「白川の関」の歌はこの辺で終ります。)

 

 白川古事考巻ノ二 2 


一、続日本紀
仁明帝承和三年春三月巳丑詔奉充陸奥白河郡従五位下勲十等八溝黄金神封戸二烟以応国司之祷令採砂金其数倍常能助遣唐使之資
(按=この時の遣唐使は藤原当嗣、小野篁である)承和八年三月癸巳奉授陸奥勲十等都々古和気神従五位下、とあるのが白河郡の古に見える始めである。

一、類聚国史斉衡二年二月陸奥永倉神列於宮社(按=この社を白川の神と知るのは、承和斉衡の後に撰ばれた延喜式に、白河の外他郡にはこの神名が無いからである)

一、延喜式神名帳白河郡七座
都々古和気神社(名神大)  伊波止和気神社  白河神社  八溝嶺神社  飯豊比賣神社
永倉神社  石都々古和気神社
また同書、名神祭二百八十五座の内に奥州の都々古和気神社一座あり。
 按=都々古和気は南郷の八槻と馬場に祀る。八槻は大善院別当で、馬場は面川大隅神主不動院別当である。大日本国一宮記に都々古和気は大巳貴男高彦根を祭ると見え、また神名帳頭書にも都々古和気は味耜詑彦根とあり、大善院縁起の略に『日本武尊為東夷征伐下向し玉い、八溝山の戦場へ出現し三神の面足尊、惶根尊、事勝國勝長狭命を加勢に勧請して地主は味耜高彦根である。後世になって日本武尊をも添えて祭る。地名の本の名は矢着(やつき)と云い、寛治年中陸奥守源義家朝臣は参籠して勝軍を祈願し、八本の槻木を神庭に植えて奉ったことから八槻となった』とある。

また、義家朝臣帰洛の後に勅命によって近津大明神と号し奉った。寛永二年八月正一位の勅許あり、祭式も年々数度に及ぶ。神主は古くは高野氏であったが(高野の地であるが故に高野姓を名乗ったものか)八郎永廣という者に至って今の別当兼良二十世の祖、二階堂左衛門大夫高盛=法名淳良に譲ったと言われる。次ぎに載せる文書によって如何に古社であるか知るであろう。「太閤秀吉公小田原へ向わせ玉いし時も、大善院良幹が参向して施薬院(秀吉公の出頭人)に就いて有明の牡蠣を献じた。殊印書を賜わり石田三成の添え書きもある故、この辺の白川石川などでの大名では所領を失ったとはいえ、神領は全く温存して、今も御朱印二百石を有する御供鉢の銘には(次のようなものもある)

敬白
奥州高野郡南郷八槻近津宮
奉造立  御鉢
大旦那   沙弥道久 結城満朝之
      橘氏女 (斑目氏か)
千代松

沙弥宗心
別当良賢
聖越律師長栄
大工沙弥勝阿弥
応永十八年大才辛卯十月十五日

又馬場の説には異聞があり、
崇神天皇御宇肥前松浦庄近ノ津という所に、面足命煌根命両神を奉祭する故に近津明神と云うのがあり、後に慶雲年中に常州久慈郡保内領(別巻に論じる。この節は奥州白河郡の内であろう)池田鏡山城主池田三郎富淂が八溝山の悪鬼を平らげた折り、夢中に白羽の矢を授け、我は近津明神なりと告げた。帝聞き召して近津の社を東奥へ遷させられるとある。これは神主面川大隅正伝来なり。また不動院の説は大抵大善院の説と類を同じくして、神徳は誠に千度戦うとも千度勝つとされ、天喜年中源頼義朝臣が東国在陣の時、神徳を崇め是を「千勝大明神」と称えられる。相続いて義家朝臣寛治年中に神前で、軍馬調練をしたことにより馬場の地名が起きた。この社、本は北郷三森村(馬場より二里北に有り)の山都々古和気社を大同年中に伊野庄(今の棚倉の地)へ遷移したと云い、(按=伊野庄、古い書に笹原ノ庄伊野村とあり、笹原庄とは白河城中笹原清水という名水も有り、白河も笹原の庄である由の言が伝わるけれど今は考慮しない。伊野庄は高野の部に載せた仮名文書イノヽカウトという地であり、和名抄の入野である)馬場の社が三森に在した時の神領と思われる郷名が、当今の社郷と呼ばれるところ。和名抄に云う屋代とは文字を糺さずに唱えるままに載せたが計り難い。元和八年に至り丹羽永重朝臣が常州古殿より此の地を賜わり、社地を今の地に方八丁計り寄付して遷し、跡地を城地とした。馬場は御朱印百五十石を賜わった。
此の社の文書も得たので下に載せるが別の項目とする。馬場は近津上宮と称しているが、昔奥州の内にあった常州依上に近津下宮があり、馬場は上下の宮なれば八槻は中央の社となるではないか。

 また、此の神は奥州の一宮であることは顕然としているが、仙台の塩釜明神を一宮と仰ぐ者もいる。恐らくは伊達家より東福門院へのお答えの中で、奥州の名所は封内にも多く有りと申し上げたことに因るようだ。(野田の玉川が今、名城に在るのは実際にこの玉川であり、「桜岡人不忘の山」が今、実際には白河に在るのを仙台という類いである)一宮もその類いであろう。然しながら諸国の一宮は国府の程近き所に多く在るものだが、近津は國の端に在しているものの、名神大である故に一宮と崇められているのか、又は白河結城が全盛の頃に陸奥に並びなき権威が有って国府に移譲されることもなかったと云うことか。

伊波止和気]今は所在不明。神名帳頭書きに「伊和古和気は手力雄命」とあり、萬多王姓氏録の河内国神別の内で、多迷連の下の注に「神魂命児天石都倭居命(あまいそつわけのみこと)之後裔也」とあって、上古に手力雄命には違いないが、何故に白河に祭られるかは計り難い。

白河]今、白河城東に鹿島と言い伝わる吉田家では、「根田村鳥子明神を白河神社に定め置かれる」とか、何の証拠が有って不詳白河神社を鹿島と改め祀っているかと言えば、常陸国と接しており鹿島は東方の大社であって威徳も異なり、衆人は信仰の渇望のあまり後年に移し祭ったものと思われる。此の類いは白河の鹿島のみならず、同郡飯土用村の鹿島は式内飯豊比賣神社であり、岩瀬郡桙衝村の鹿島も桙衝神社である。白河神社と同じ一般のことであろう。その証しを揚げてみるが、三代実録貞観八年(延喜元年より三十五年前にあたる)奥州にある鹿島社を載せて云うには、「正月二十日常陸国鹿島神宮司言大神之苗裔神三十八社在常陸国菊多郡一、盤城郡十一、標葉郡二、行方郡一、宇多郡七、伊具郡一、亘理郡二、宮城郡三、黒川郡一、色麻郡三、志多郡一、小田郡四、牡鹿郡一、と悉く郡々を挙げて記している。然しながら白河や岩瀬を言っていないのは古に鹿島ではなく、神名帳に載せていた儘の神であったからであろう。

 土人は源順の歌、「つらくとも忘れず恋しかしまなる逢隈川のあう瀬ありや」これを証しとするが、亘理郡の鹿島においても此の歌を引証しているので、白河の証しとは言い難い。別当最勝寺観音は仙道の札所であるが、三重塔は結城親朝の父宗広の為に造営したと言われる。

八溝嶺神社]始めにも載せたが黄金神である。黄金を初めて世に出した人を恵み祀った神であろうか、今、二座を祭る。山王大巳貴命と日本事代主命である。此の山は今、常陸、下野、陸奥三国の堺にある。絶頂の社の東南は常陸であり、西南は下野、社の後ろより北側は陸奥である。古の保内が陸奥に隷していた時は全く奥州の内にあった。白鳳十一年役行者が開基して仁明天皇勅願所(前に載せた遣唐使の黄金を出したことに因るか)である。日光権現の宮は水戸家により造営され、箱棟に葵の紋をつける。一の鳥居は、下野黒羽領主大関家が建てられた。山王の祠は棚倉の領主代々が建立して、太田家まで箱棟に桔梗紋をつけて修造していたが、小笠原家に至り山下の村落御代官所となり、建立の縁故が無くなって是れも水戸家の建立となるのである。奥の院は観音仙道の札所であり、別当上ノ坊光源院と言う。

飯豊比賣神社]白河城北二里、飯土用村の鹿島が是れであると伝わるが、別に考えるところもなし。

永倉神社]白河城乾の方(北西)長坂村熊野相殿に祭る。長坂村は元永倉村だと土人の言い伝えがある。

石都々古和気]今、石川郡須釜村八幡である。神主所伝に寛喜三年領主石川肥前守光衡の命にて此所を選んだという縁起あり。内大臣鎌足公、常陸より奥州へ越えて、草中に一つの筒を見つけた。自ら破って中を覗くと魂子があった。虚空に光を発し、「我は炎神なり」と云う。神姓を問うと「高彦」と答えた。味耜高彦根であろう。山の名を筒子山と云い、鎌足公の名に因って村里を筒鎌と言うようだが、縁起文長の疑うことも多い。別に一考あり、試しに採録してみよう。此の祠を中央と見て前に石前(いわさき)郡あり、(或いは中古より岩崎と作るものあり、同訓で用いたもので岩前というのもある)後ろに石背郡(今の岩瀬)あり、又岩城郡は石ノワキとの事である。疑われるかも知れないが、此の神の鎮座の頃は此の地一帯が石何とか云われる所で、近郡をも総てこの様であるから、近郡の名も之に基づいて起こったと思われる。石川にしても石の緣があるのではないか。古い証文の不足が口惜しい。また同村大安寺文書の炭釜に作る塩竈明神の類いで、此の神始めて炭作りを人に教えられた事に因る名ではないか、
文書を出して証しとする。(炭釜=塩釜に於ける石川氏同族の領地争いを、結城氏が仲裁したものである)
 
        

関の明神」何れの世、何れの故に勧請したのか、今六つの祠あり。旗宿村の古道に一つ、今の官道白坂明神村に一つ(此の所堺を超えて下野の内に一所あり)、常陸の境の大垬村界を越えて一つ、依上の内に二つ(古には白河の内であった依上であればこそ)東鏡には文治五年頼朝卿奥州征伐の時、白河の関を越えられて関の明神に御奉幣されたとあるは、旗宿の明神である。此の祠の箱棟に伊達氏の紋を付けているのは、政宗朝臣が白河まで旗下に押さえた時の造営である。

古殿宮」竹貫郷十三村の鎮守である。年に二、三村ずつ順次に組み合わせて祭式を行ない、社に夜篭もり流鏑馬を行なう。康平二年の勧請と云う。

宇賀社」棚倉城下の鎮守である。赤館の東南山に寄り宮居する。(永禄年中鹿子三河守が赤館に居して、屋敷地に宮居を加えた故に今は鹿子山と号している)

天満宮」川上村にあり。社内棟札のような板に(訳者註=記してあるのは京の天満宮を勧請して川上村に移したこと。施主は本願寺派であり、永禄銭一貫文の寄付者に田代や塙が見える)

       

橘次社」皮籠(かわこ)村にあり、村名本は吉野宿と云った。承安年中、出羽宝澤の橘信高兄弟が、砂金交易をして故郷へ帰るところを、藤沢某と云う盗賊に出会い、この辺りで害されて行李を破られ取られた事により、皮籠の名が起こる。金子(こがね)橋、金分(きんはい)田等の小名もあり、後に義経朝臣が橘次兄弟を八幡の相殿に祭り、社を此所に建てられて長途に伴われし思いを謝せられたという。信高の墓として碑三基あり、石は皆剥落して全きものなし。文字有るようで分ち難い。下総国大須賀の辺りでも橘次のことを、此所と同じように語る者がいると聞く、何れの地が実説であろうか。

御霊社」三城目村にあり、鎌倉権五郎景政が白川石川の内に領地を賜わり住んだとされる。竹貫郷にも鎌倉山と云うのもあり、その由緒があって祭られる。恨むべきは所伝の宝物、古い軍配団扇併せて軍扇を失ったことである。別当影政寺に古文書あり(下に出す)、此の村において蘆毛馬を畜える矢柄竹という竹を植えると祟るとして、恐れること古来より言い伝えがある。氏人恐れて犯す者なし。我が定信公寛政年中吉田家へ請い、免許を得たうえで其の旨を社へ告げ、人の惑いを解いて馬を蓄え、竹を植えて民用に給するが祟り有ることなし。


 別当影政寺の古文書の一部を掲載します。












 
 
巻之二(全)終り





 

 

 

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白川古事考 序と巻の一(全)廣瀬典編<桑名図書館蔵>に触れる

2019-03-15 20:51:58 | 歴史

 初めに
桑名図書館所蔵のデジタル版をダウンロードして、「白川古事考」をずいぶんと温めてきた。広瀬典さんの謙虚で誠実な文面を拝していると、傍らで典さんの息遣いが聞こえてきそうな親近さを覚えるのである。江戸中期の白河を中心とした広域の古事伝承を集めたもので、老公松平定信公の命により当時としては大掛かりな歴史文書の探索と記録の保持の大役を受け、広瀬典が老躯を押して取り組んだものと察せられます。
古文書の文体と内容を損なわずに出来るだけ本意のままに心掛けたという典さん、頭が下がります。ただ、どうにも江戸時代の表現様式ですから、現代人には読み込むのが苦痛です。古文書の成文はそのままに、広瀬典さんの解釈だけを出来るだけ意に反しないように心掛けながら、現代文に近い形で訳してみました。不肖の文面でありますから先が覚束ない面はご容赦ください。

白川古事考一<広瀬典に触れる>

白川古事考序
國之存古事。政也。治今為経繹古為律。而後俗厚風正矣。故雖以蕞蛮國。苟(いやしくも)存典則明於文物。別重於当時称於後世也。不然別土宇広𤄃。人煙蕃殖。亦(又)不可視以為夷撩能興之地。有今而知古之國。在自古君道立於上。政教修明。則必有編集之挙。使民通於古。而用於今。甄陶開済。得以達村焉。我白河之称為名郡。久矣。奥羽二州。居天下疆界之少半。而白河扼其興天之六十余州。径還南北之所径由。在于治世。則為名勝之区。名公臣卿。題詠相臨。在于最年。則為要害之郡。塞以一丸之渥。能支吾十葉之軍。未戦。而知其不可攻。其不知盛乎。土人記傳。甞(かつて)有往昔記。写物語耳。率皆沿襲。三編猶一編。自天文。至天正六十年間。有二三事実之可取。安能在存其古事乎。前者 官命下諸侯。撰封内風土記。我公使臣典 等預其事。卒業奉献。於是。我郡始如人開耳目。聞見不蔽(ふへい=遮らず)壑(たに)走其所走。山立其所立。而又人事之未属煙汲者。如宗広親光之忠壮奮躍。百目木修理亮之視危授命。政朝之文藻都雅。標々能而出焉。然体裁異冝。検閲各便事不以類従。地限封内。故此編衍封内之所限。以及一郡之全。推一郡之全。以極他郡他州之所干渉。頗役束月之力。収集録之功。唯帳稀疎歴落。或曠数十年。得牝失牡。有頭無尾。合浦之珠。雖或有還。延伴之剣。率正難合。方今賢明在上。人文隆盛。風俗律儀。可以耦吾支固多。須及迄捃摭輯録。弁為古事于後世也。窮惟
官之所以修風土記而
公継命此選者。盖無以是乎。臣典瀀幸従事于斯奉。日取紙墨掲国光。非金石而謀永傳。
上奉選述之栄命。下馳好古之私情。然恐才識淺短。聞見寡狭。徒足當菟園之𦾔册。而不得備邦國之墳典也。
 文政紀元元仲冬念一日
                      白河藩臣廣瀬典謹撰(押判)




白川郡当今境界図

予(典)は久しい間、白川郡全図を探索していたが、世に未だ図を作る者が無かったので得ることはできなかった。西北半片は白河釜ノ子(榊原候の陣屋の在所)に属して其の図は元よりあり、近頃棚倉の小笠原候が肥前国唐津に封されてより、(白河)侯の蔵する図として東南半郡を得ることができた。よって二図を合せるために、自ら当地に至って取捨増損取ったり消したり)してこの図を作成したものである。
猶、恐らくは過誤もあるかと思う。但し大概の形勢を知るには一助となるであろう。



白川古事考巻之一 

その1

 郡名建置郡界を定める
我が白河の名は何れの時に始まったのか不詳である。元明帝が六十六カ国を分け建て郡界を定めておられるので、その時より郡を成されたものと思う。名の由る所は今の下野の境なる旗宿村の南端にして、古関跡の下を流れる小流を白河(川)と云い、此の水名より地に及ぼして土地の名とし、また土地の名を郡に及ぼして郡名と成されたものであろう。

一、続日本紀
『元正天皇霊亀二年夏巳未割常陸国之石城標葉行方宇田亘理菊田六郡置石城国割白河石背会津安積信夫五郡置石背国』又
『聖武帝神亀五年(頼長国史には四年とあり)陸奥国請新置白河軍団又改舟取(類聚国史作に名取郡)軍団為玉造軍団弁許之』此れこそ白河の名、古(いにしえ)に見えてくる始めである。

 按=旧事記国造本紀に白河国造の下に『志賀高穴穂朝御世天降天田都彦命十一世塩伊之己自直定賜国造』とあるのは、神亀霊亀よりは遥かに溯って古ではあるが、此の書は後より偽造されたもの、との論もあるので確証にはなり難いけれど、按中(考察)に載せて考古の便益とする。又和漢三方絵図は俗書にして引証(元の書を証明する)の書さえ詳らかではないが、関の事が記してあり
孝徳帝の御世に白川の関が始まったと記録されるこの事、若し事実であれば是もまた霊亀よりは古となるであろう。

一、令義觧(解)には軍団毎に大毅小毅などと云う官を立て、長(おさ)を置いたとする事が見える。奥州は古にて蝦夷の警備多く、武を備えるにも他州よりは厳しく具えたであろう。
これ
等の長官は他の軍団にすら設けられるのだから、白河は固より置かれていたと見る。従卒の員数は総て定かではないけれど、
王朝の制は、多分李唐に本づき建設されたものであるから、国志に見えている『凢天下十道置府六百三十四府士以三百人為団〝有校尉云〟』に依れるならば、其の数三百人の従卒はいたと思われる。
(「白川城東二里余借宿村に古瓦裂砕きしめ集めて土手をなせし」は、軍団十と有った地であろうか。土人(土地の人)は古の星の宮とか云われる人の宮居の跡と云うけれど、別に詳らかなる事も伝わらず、借宿と云う事も朦朧(漠然とした)の説く傳會(伝承)として取るに足らない。考えてみると、軍団の兵数に加わった人々の多くは、此の地の人ではなく、例え此の地の人だとしても我が家から出て営中に入るのであるから、借りの居住という義を以て名づけたものか。他国において借宿と云う地名を聞くかと云えば、其の古事を聞かないかぎり相証するべき事もない。下野那須郡小屋村は頼朝卿の狩り場の跡であり、駿河駿東郡の御狩場は頼朝卿の御殿の跡地である。古より一時の家屋を作ることに因って村名となることが多い。借宿も其の類いではなかろうか。)註*()内は見者の立場で述べた典の解説。

一、本文に載せている旗宿村のこと、白河の西二里許りの所に黒川という水あり。白川とは白黒の対比にあって、考証として為せるかどうか、探索を費やしてみたが異なる口碑もない。其の川の側に黒川という人家が在ったので尋ねると、天正四年小田倉村の農夫藤兵衛半十郎と云う者が開発したと云う。其の頃の会津黒川は蒲生氏郷の故郷、近江の若松と云う地名所を慕い、黒川を改めて若松と名付ける。(蒲生軍記には伊勢の松阪より会津へ来り、松阪を忘れ難く若松と云うと也)
然として此の新田会津領の果て、下野の国境の村に若松の旧名を名付けたとある。

去りながら村こそはそうであっても、水名は是より先に黒川と既に云われて、文明年中の道輿准后の四国雑記に「下野の内にて此の黒川を渡られた」事見えているので、天正年中に始まるものではない。此の水は白河郡の西南隅、下野と堺なる赤頬山より出て東流する四里程はこの川を以て國界とし、畔界の意にしてクロ川と名付けたものではないか。後に黒川と書いてから白川に対する疑いも生じたものか。(会津にある黒川は郡界を流れる川であるから、クロき義には当たらない)

一、土人の説には白河の名は後白河帝が此の地の形勢を御巡覧なされて、平安城に似ているとして白河の名を給われた。勅名の地と誇れるけれども、其れよりも昔よりの名である事は既に上に挙げたように著わしてあるので、書籍など読まない人の言伝によるものではないか。形勢は実に京に似ていると言える。又土人の説によると、後白河帝の蹕(ヒツ=さきばらい)を此の地にとどめられている所は、今は王村であると云う。和名抄より大村の名であることを知らない故である。

 一、四十八代

称徳帝神護景雲三年三月辛巳陸奥国白河郡人外正七位上文部子老賜姓阿倍陸奥臣同郡人外正七位下靱継人賜靱大伴連

一、五十四代
仁明帝承和干年十一月庚子陸奥国白河郡百姓外従八位上勲九等柏造智成戸一𤇆改姓為陸奥白河達 同帝嘉祥元年五月辛未陸奥国白河郡大領外正七位上賜姓阿倍陸奥臣(「按右四人の事跡は考える所なし」本文は縦書き)
一、延喜式兵部省陸奥国伝馬、白河、安積、信夫、刈田、柴田郡各五疋(以上三条の記は、白河の郡名が出ていたので考察するための備えとする)
一、東鏡二位殿禁裡へ奉り給う事書と云う中に
一、陸奥の白河領事(もとは信頼卿の知行、後は小松内府の領)
   按信頼卿は宇治の悪左府ではないだろうか。小松内府は平重盛公であり関門の部に載せたように、頼時以来清衡等白川迄押領したとある。あるけれど、此の譜のように紳家の知行も交じっているのを見ると、郡史庄官等が何度も下っているので治庁の造営
もあったのであろう。
一、古文書(下に載せた)それぞれに白河庄が見えているのは、頼朝卿より後に結城七郎へ賜わった地名であり、白河郡の境界とは広狭も異なっている。

     郡界沿革(当今名目付)

一、続日本紀
元正天皇霊亀二年夏巳未割常陸国之石城標葉行方宇多亘理菊田六郡置石城国割白河石背会津安積信夫五郡置石背国
 按=この文に拠れば此等郡々は常陸国へ属して、奥州に属するものではないと云うに似ている。恐らくは陸奥を誤って常陸に作ったとする外に明証なし。石城は今の岩城であり、石背は今の岩瀬である。この二国が置かれた時は白河郡も石背国の内に属していたものか、また幾程も経ないうちに此の建国の事が廃されて陸奥国の郡に併せられたものか、延喜式にはこの郡々を加えて陸奥国三十六郡と見えている。

一、源順が和名抄に、白河を二カ所に載せて一カ所は延喜式の如く三十六郡の一として、一カ所には白河『之(し)良(ら)加波(かわ)ノ國分テ為高野郡今分大沼河沼二郡』と、
之良加波を郡とは言わず國と云って注書している。
 按=注書誤ることを会津四家合考に論じて、「之良加波ノ国分テ為高野郡マデ十字ハ此注ニテ下八字白河ノ注ニ非ズ」と云う、大に是であろう。白河と大沼河沼の地勢に隔たりがあり、白河を分けるのではなく、高野郡を分け合う事を別に考える。白河を国と云うのは郡をグンと呼んで国(クニ)と誤ったのではないだろうか。

一、又、和名抄に白河の郷名を載せている。
白河郡、大村、丹波、松田、入野、鹿田、石川、長田、白河、小野、駅家、松戸、小田、藤田、屋代、常世、高野、依上
 按=和名抄に載る白河郡は陸奥を三十六郡に分けた郡であるから、境界も今の五十四郡よりは広大であったであろう、この郷名のうちで今は他郡となり名を改めたのもあろうと思う。今知っているのは「大村」、白川城東に大村あり。「入野」、棚倉城の地を土人が今イノの郷またはイノの庄と云う。古の入野である。「石川」、今は一郡の名となっているが、数十村を管掌して郡となったもので、昔は郷名であった。石川が其の界を広めて郡となった故は、源太有光より世々此の地に居て、足利家の中頃より天下何方も兵勢の強さに任せて土地を争奪するのが常のことであったので、広狭伸縮の時に応じて域は異なるけれども、天正の頃の石川昭光は、始め佐竹に属し後には伊達に随って東は岩城と戦い、西は白川と争うことで領内も広狭いろいろ変じたのであるが、界を広めた石川家の領する地を石川郡と定められたものであろう。慶長前は石川を多くは庄と称していた。しかし古い時にも郡と云った文書もある。(古文書略)

(石川の項中断)

「屋代」今は社郷と称して数か村ある。「常世」棚倉の東南に当たり数か村ある。農民今にトコ世の郷と称する。「高野」「依上」別の部に出す。その他は今の世に至って所在を知らず。
(和名抄外の古文書等に郷保等の名あり、各その文書に即して現今存在の地名を證するので、ここには記載せず。)
一、当今の名目、「竹貫郷」岩城へ境して十三村あり別に出す。「赤坂郷」別に部を出す。「南郷」「北郷」南郷の名は足利頃より見え、今も称する。棚倉を境にして高野の地を南北郷に分け称する。「西郷」白河城より西の村落を、白河城下にて云う呼称。「五箇村」白河城東の五か村で、米穀殊に甘美である故に五か村を組み合わせて称する。天文年中に早くも此の称があり、結城晴綱より松林寺への文書(寺焼失の時に本書を失ったが、写しがあった)(文中に掲載あるがここでは載せず)

今、白川郡の内に白川領がある。また塙御陣屋付御料所があり、越後高田榊原候お預かり釜ノ子村陣屋あり、棚倉に隷従する者もある。

  山川
   甲子
白河城より西に六里、連山断つことなく十余里もあり、下野の那須郡、我が白川郡、岩瀬郡に跨がっている。白河郡にあるのは赤面、朝日、白森と云う三峰である。また赤面の西、朝日の南に甕(瓶)を伏せたような三本鑓という山がある。下野國那須郡と陸奥白河郡、会津郡三郡の堺にあって総称して甲子山と呼ぶ。土人の説明によると、応永年中に州菴という僧が此の山に入り、寺平と云う所に住んで湯泉を見つけた。人が入れるように場所を整えて供したのが甲子の年だったので、甲子と命名し山の名にも及ぼした。とあるが応永に甲子の年はない。「或る日猟者は、傷ついた猿が浴して癒やしているのを霊湯と見て、浴場を作ったことから猿の義を以て甲子と云う」との伝えもある。(此れも俗説であろう。猿の緣であるならば申子となる)
 按=古に青澳山(おうくまやま)ありて、今其の名なし。夫木集に『昔ミシヒトヲソ今ハ忘レ行ク青澳山ノ麓ハカリニ』大くま川の条に述べる如く陸奥国の南隅、白河郡の又西南隅の山であれば、此の山を指して大隈と云うのではないか。其の故に此の山より源を発する川を大隈川と云い、此の山にある瀑布を大隈滝と言い伝えているのである。(川と滝に名が残って、山の大隈の名は失われたようだ)



*古文書に対する廣瀬典氏の解説は、沢山な資料をもとに歯切れのよい展開をみせてくれます。conparuブログに載せた「東夷奥の地 ある地方の郷土歴史1~3」も、『沢山な資料』の中に入っているのかも知れませんが、白川古事考と付き合わせる事によって、より巾広く理解できそうです。 弓矢鉄砲と言った戦国時代の戦法ですが、悠長な時間の中での戦いが絵物語のようでもあり、どこか別世界の抗争と云った趣があります。500年前の戦国時代争乱が遠い昔に感じたり、極間近な出来事のようにも感じるのは、歴史が血肉の中に生きている証しでしょうか。


 関山
白河城東南、古関跡の北にあり絶嶺に満願寺と云う寺がある。百石の除地(年貢の対象にならない?)を有する観音堂は、聖武帝御祈願所の額を掲げる。旧記を失ったため古事の詳細は分からないが、仙道三十三ヶ所の札所である。
那須記に『天正十五年丁亥十月二十六日、伊達政宗岩城常隆と心を合せ、佐竹義重を討つ計らいをした。佐竹は七千余騎を催して奥州へ発向したところであったが、伊達岩城の動きを知った佐竹は、戸村(佐竹の族)に仰せて陣を引かせた。岩城は勝に乗じて追掛てくる。其の勢は、最上、二本松、長沼等三万余騎。白河義親は佐竹へ加勢するにしても、馳せ来る敵が大勢なので平場ノ合戦では敵わないとみた。

 昇関嶽へ引き退かせよう。嶮岨である彼の地なら、敵軍が山へ登ろうとする所を待ち請け勝負を決するべしと言った。此義尤であるとして関山へ引登ることにした。そうするところに奥州勢が極少数で寄せて来たのを見て、義親は居城を大切に守ろうと思い、己の城へ引返してしまった。是によって佐竹は無勢になったと思い、那須へ加勢を要請した。那須資晴は軍勢を催して関山へ馳せつけ、義重と対面して軍評諚をする。そうする内に奥勢は山下に陣を取って打囲み、二本松長沼ノ勢が歩立になって持楯を突出して攻上ってくる。山上より手頃の岩石を取って雨の降る如く投げかけると、矢庭に死する者何百騎と云う数を知らず。これを恐れた左右の寄手は進むことが出来なくなった。その日も暮れて遙かに引除けて居た佐竹那須勢が、夜中に下知して山中ノ大小の木を伐倒し、木ノ葉を山頭へ引伏せた。また、一騎を十騎に見せる為に、旗十本づつを差し上げさせ、天の明けるを待っていた。早朝になって是を見た奥勢が、「昨日の合戦で利を得て威を増した折り節であり、夜の間に雲霞の如く軍勢が馳せ着いたか。此の上は山中ノ戦いは敵わない。兵糧攻に如くは無い」と云いつつも、此の関山は那須の境であり兵糧は那須より十倍も入るだろうから、此の戦始終勝利は有るまじと囲を解いて、各々帰陣することになった。白河義親是を聞いて一人も逃さないぞと勢いよく追いかければ、守勢の引立てとなる奥勢なれば、一タマリもたまらず我先にと落ち行きぬ。

 また那須郡民間より出た書付に(此の条大業廣記、安民記にもあるけれど、民間の記ながら詳述してあるので此処に記載する)白河の城代は妹川縫殿頭、同越前守林蔵人在城也。加勢には金子美作守柳崎右衛門、横田大学、大道寺平林、その他歴々楯篭る。ところが慶長五年子九月十四日に奥州勢が野州伊王野に押し寄せ、一手は関山へ取り登ると告げられた。其れにより伊王野下総守は諸臣を集めて籠城を決め、諸所からの加勢を待つべきか、又此方から出向いて一戦すべきかと評議した。下総守の嫡男伊王野又十郎が進み出て、今度奥州口の押さえとなる当城なれば、籠城しても無用である。敵が急に押し寄せて来るとすれば、今夜か明朝までであろうから、此方から駆け出向いて一戦し、討ち散らしましょう。先陣は其れがしが仕ります。と申し上げれば下総守大いに喜んで、又十郎資重を首魁として家臣薄葉備中に申されるのは、敵が関山の城を取手の城に抑えたと聞き及んで、「今夜中に汝等が我らに先行して彼の地へ発し、不意に敵を襲って打ち散らし、関山の出備えを此方に取り抑えて然るべき」と言われた。

備中承り「御知謀の程感じ入り候」と其の夜中に乗り出して寅の刻に関山へ駆け上がったところ、朝霧深くして未だ夜も明けずに寝入っていた番人どもが慌て彷徨(うろつく)くところを数人討ち取って、備中が旗を押し立て弥勢を待って居たところへ、又十郎資重が押し寄せ来て関山に挙げ登る。備中が出迎えると資重は大いに喜んで「備中が魁首の働き、手柄の程感じる所なり。イザ敵が寄せ来る前に備えを立て直し其の用意あるべし」と云い、それぞれに手配をして敵を待ち受ける所へ、景勝の先手の勢が此の事を夢にも知らず九月十五日の朝、関山に寄せて来て山を見上げると、此の山の切り崩しが険しく一重山であることから、先手の勢は馬を降りて引き連れ、我も我もと声を出して一面に挙げ登る。又十郎資重は下知をして、「敵勢千万騎寄せ来ると云えども、下知無きうちは此方から弓鉄砲を放ってはならない」と制すれば、薄葉備中走り回り下知を通達する。

観音堂並びに満願寺の修復用材として所々に積み重ねた材木や大石の陰に、伊王野勢が鳴りを潜めて待ち構える。それとは知らぬ奥州勢が山上近く迄上り詰めたところで、又十郎資重が下知を放ち一斉に弓鉄砲を発するとともに、積み重ねた材木や大石を投げ落とした。山木立の無い急坂を転げ落ちる木材や大石に敷かれて、死ぬ者数を知らず。頃会いを見計らって又十郎資重は坂口より切って出て、敵を山麓へ追い散らした。其処へ山麓で待ち構えていた伊王野下総守資信が、奥州勢の中に一文字に威勢良く討ち懸かる。伊王野猪右衛門(下総守の弟)、家臣礒上兵部少、田中藤兵衛、小瀧勘兵衛、鮎瀬弥五郎、小田井玄蕃、田代長門守等真っ先に進んで攻め戦う最中に、伊王野又十郎が関山の上から奥州勢の真ん中横筋交いに馬を乗り入れ味方に下知をする。

薄葉備中突き懸かる、相続いて黒羽太左衛門尉、小山田監物、秋葉助右衛門、熊久保内蔵之助、高久善右衛門、大島源六郎が戦場にあり。松本内匠、澤口四郎兵衛が真っ先に進んで、後先より息もつかせず揉み立てに攻め戦うと、流石の景勝方の先勢も躊躇いかねて一度にどっと崩れて敗走し、白川指して引き退いて行った。

ここに到って下総守資信は、士卒に下知をして見方勢を引き上げさせ、その功を次のように記す。
討ち取った者の首級百七十三、味方に於いては雑兵ともに三十九人の討ち死となり、直ちに伊王野へ帰陣した。

   八溝山

常陸久慈郡、下野那須郡、陸奥白河郡の堺にあり、その山脈は四方に走り中央の高い山が八溝山である。昔は完全に白河郡の山であった。此の事は神社部に詳述する。
元禄年中に水戸中納言光圀卿がこの山に登り、所々の名を命じたのが左の如くである。
雲苓岱  清涼溜(山偏に留) □(穴冠に卯)穹巓  □(穴冠に毳)嶺岩  碧萱峰  碧深峰  □(ネ偏に騫)禮嶽     卷圓峯  右八峯
清浄谷  蓮華谷  菩提谷  鬼里谷  獅子谷  濃鮮渓  沈永渓  右七谷
鬼渟池  汨湃池  嬰児池  右三池
龍馬瀧  漲滝  淋濃落瀧  激水瀧  以上


   珊瑚(さご)室(むろ)山
常陸と陸奥の境にある高山で、南東は常州に入り、北は白河郡那倉村片貝村の地である。東海は菊多郡を隔ててはいるが海に面している故に、遠く漕ぎ出す漁舟が此の山の隠れ見濃淡を計ることで里程を論じたとある。


   佳老山
下ノ関河内村の西にあり、木石明媚な山であるが僻地に在るため、山川を観賞する者が無ければ景勝地とならない。山上に熊野小祠あり、石に承応二年益子某建立の記あり。


   人不忘山
白河城と棚倉城との間にあり、今はシンチ山と云い老松生い茂っている。夫木集に
『陸奥の青澳川のあなたにぞ人忘れずの山はさかしき』
(宗長の旅日記に刈田嶽の事は記してあるけれども、人不忘ノ山については言っていない)
仙台封内の刈田郡にある刈田嶽が人不忘山だと云うけれども、古にその証明はない。
我が新地山は文明年中の道興准后の四国雑記に、『転び寝の森より八槻へ赴く道すがらに人不忘山を過ぎぬ』と記してあるので証しとする。


   転寝森
白河城東、鹿島の側にあって、昔は木立の茂る地であったが、今は周辺の悉くが田となって僅かに残された地には杉二株と若木の桜二本があるのみで、香取明神の小祠を安置している。
この木の下で暫しの間、義家朝臣が仮寝をしたとある事から、この名が起こったと云う。
八雲集には清少納言の歌として

 『陸奥の転寝の森の橋たえていな負せ鳥もかよわざりけり』また四国雑記に「白川を出でて転寝の森と云て、いと木深き森の侍りように花の散すきけるを見て」
 『散る花をたた一時の夢と見て風に驚く転寝のもり』と歌われている。

古老の談にも「慶長の頃までは茂りたる森にて有りし」と言う。(転寝は義経朝臣また佐藤庄司元治の事跡とも言うけれど、清少納言の(平安の)歌にあるので、義家朝臣だと言っても新しい(時代の)付け足しのようなものだ。

   桜岡
白河城東にあり、古名木の桜があると言い伝えられる。
 『桜咲く桜か岡の桜花ちる桜あれば咲桜あり』これは此の地で詠んだ古歌と伝えられている。
京師また仙台にも同名の地があり、此の歌を引いて各その地の証しとしている。そうではあるが、土人の口碑には我が郡こそ是(桜か岡)だとしている。遙かの古は如何にあったであろうか。宗祇法師は当郡を誠の桜岡とし、この郡へ来られたとき
 『春よ待て散桜あればおそざくら』と古歌を転用して当郡の事に用いている。(鹿島の一万句の時、宗祇来る。手に綿を持った女に遇って「綿売りか?」と云えば、女は「大隈の川瀬に栖る鮎よりウルカ、ワタ少し有りけり」と聞かされて宗祇が戻ったと云う。此の地も今は城下町端にあり、これも京にあれば京の事として扱われるだろう)

   合戦坂
搦古墟(搦目城は戦国時代の結城氏の本拠)の南の小さな坂である。結城氏は佐竹の為に攻め押されて此処にいた時、佐竹の物見が出てきたところを、大塚左八郎が二人の郎党を従えて二人を討ち取った。左八郎の父宮内左衛門も続いて兵を進め、佐竹の隊将渋井内膳と散々に相戦い、遂には佐竹を打ち負かして此の地から引き退かせた。因って合戦坂と名付けた。引目が橋と云うのも合戦坂の彼方にあり、また十三原と云う討死した十三人を埋めた所の、「十三の塚」が引目橋の西にある。
また枯野と云い、引目橋の東に当たるところに首塚あり。これ等は同時に起きた戦いの事跡であるのかは不詳である。白河の軍師と頼む佐藤大隅守も、此の地において討ち死にしたと云う。(大塚左八郎は今の町年寄、大塚半左衛門の先祖。佐藤大隅守は今の双石村佐藤儀藏の先祖だと云われる)
 (渋井は元来東白川郡の地名である。渋井内膳は大坂御陣に討死して名を顕わす。我が郡に元来生まれた人なのか、又は佐竹に従って常州より来て白川領内の渋井を領して氏としたものかは知らない)                                   


   スクボ塚               
借宿村にあって高さ四丈、回り九十間という。今の水戸岩や船ノ御堂が此の地に在った時に、堂宇造営が多かったので役夫の糧となる籾を磨って捨てた塚だと云う。下野那須郡高舘の西にも糠塚という大塚があり、城攻めの時にモミ糠を捨てたと云う。坂東奥州にはヌカ塚と云うところが多い。田村郡に糠塚村と村名になった所もあり、皆この類いである。口碑の外に別の考察として、唐土の古の習いに従えば、神明を拝するために祭壇を設けて額ずく事から、糠塚は拝(ヌカ)ヅク塚であろう。スクボはスクホイ拝する塚というのではないか。


   人なつかしの山
関和久村の西、今は木ノ内と云う所の烏峠と云う山に続いている山である。烏峠絶頂に稲荷祠あり、白河、石川、岩瀬、田村、安積等の郡を目下に見る事ができる。
西行法師の古歌に
『白河の関は越えれど人見えぬ人なつかしの山はいつくぞ』
又読み人知らずとして
『陸奥の阿武隈川の川すそに人なつかしの山は有りけり』
「川すそ」の語から、我が郡に有るものこそが当然と思える。仙台封内にも同名の山があるという。


   甲子温泉
上に載せた甲子山谷の内にあり。浴槽を造り、客屋を設けて春三月より秋九月初まで浴する。冬月は深山の下で人の至る事もない。疝気癪、頭痛、血症等諸症を治す。


   湯岐
中風、痛風、打ち身等を治すのに功あり。


   塩湯
木野反村にあり血症、鬱閉を治す。


   瀧澤温泉
関岡村にあり、血症、腰痛、打身を癒やす。温気薄く煎じ湯として浴する。


   湯沢
棚倉の東三里、東河内村にあり、疥癬、湿瘡を療する。
赤坂郷(鮫川)、東野村の湯、野田冨田村の湯川等、各湯涌出しても病に効なし、浴槽を開かず。


   殺生石
中寺村にあり。下野那須湯本の殺生石を僧玄翁が法術を以て一撃すると、石は三つに割れて飛んだ。一つは会津示現寺に墜ち、一つは中寺へ来るという事が会津四家考等に出ている。頗る性談に渉るけれど、去る文化十四年の夏に、石が閃光を発して雷鳴の如く空中を飛び、武州八王寺に墜ちた。江戸近辺の人で見ない人はない。玄翁も右の事象等を己の力によるものと吹聴したものか。


   久慈川
常陸国久慈郡に出でて海に注ぐ故に久慈川と名付けると云うが、源は白河の内に発して数派合流しつつ大きくなった川で、白河の内において既に久慈川の名があり、常陸に流れている。源流の大概は八溝山の北面の谷々から、山液が集まり合って川となり、大梅村の奥では久慈瀧という瀑布となって落ち来ている。また一派では棚倉城下の東北山渓間より流れ来て棚倉城下にて合流するもの、また一派に八溝山麓の山本村奥より東流して、八槻村近津明神の社後を経て来り合流するものがある。合流する前は宮川と云う。また一派に珊瑚室山より出でて那倉村、川上村、川下村、を経て塙村の東で合わさる等、その他細流を合わせるもの多く南に向って流れ、依上を過ぎて常陸久慈浜にて海に入る。
万葉集にこの川の歌なりとして
『久慈川はさけくありともしをつ子をまかちしらすきわはかへりこん』
(久慈川は激しく流れていて、子を叱るように静かにしなさいと云っても岸の流れは聞く耳を持たない=概意)

 後訳=此の歌にはもっと深い意味がありそうだ。おそらく幼くして子を亡くした母親の詠嘆が読み取れる。
(久慈川の叫ぶような流れを見ていると、我が子を叱ってまっとうな道を示そうとしても、もう子はいないのだ)


   大隈川
文字いろいろと書き、阿武隈、逢隈、大熊、青隈などと記している。音韻が同じところから各様に記されるが、なぜそのように記したかの訳は伝わっていない。近頃思うのだが奥州に大河二つあり。一つは名取宮城の方へ向って流れる川で、宮城の府より見れば、奥の南部地方から来る川なので、北を源にした「北上川」と云う。もう一つは下野国に隣接した奥州西南の隈にある、白河郡を源流とする故に、大隈川と云う川である。肥後国球磨郡は肥後のクマであり、越後国妻有郷は(太平記には郡と誤る)越後一国のツマリである。大隅国は日本全形のスミと云っているのである。この大隈川は白河郡の西南、甲子山中に発して赤面川、ビル澤川、黒ド川、鶴生、羽太、二つの内川堀川、谷津田川等を受け合わせて流れ、石川郡へ入り岩瀬郡に出でる。又数郡を経て東北へ向い、伊具、名取二郡の間より海に注ぐ。白河一郡の田で西北にある田は、この川を引いて耕し、南東は久慈川を以て引く。二つの川の功は大である。大隈川の水源に真下三十丈の大隈滝があり、天下瀑布の壮観に類するこのような滝は少ない。これを雄瀑と云い、雌滝は一里滝、白水滝など山中に多い。(今、土人は多くアブクマと唱える)

古今集に『アブクマに霧立ちわたりあけぬとも君をばやらんまてばすべなし』

後撰集読み人知らずに
『夜と共にアブクマ川の遠ければ庭なるかげを見ぬぞ悲しき』
  女の曹司に夜々立ち寄りてモノなど云いて後
藤原輔文
『逢隈の霧とはなしに終夜立わたりつつよにもふるかな』
  橘為仲朝臣陸奥守になって侍りける時、延住(在留延長)すると聞いて遣わした。

雲葉藤原隆資
『待つ我は哀し八十年になりぬるを逢隈川の遠ざかりぬる』
  一条院上東門院へ行幸させ玉えるときに読める

相葉集入道前の太政大臣
『君が世に逢隈川の底清み三千とせをへつつ住まんとぞ思う』
  陸奥国の介にてまかりける時範永朝臣の許に遣わしける

 新古今高階経重朝臣
『行末に逢隈川のなかりせばいかでかせましけふの別れを』(この先、逢うくま川が無かったなら、如何して別れた今朝に戻せるのだろう)

返し

 藤原範長朝臣
『君に又逢隈川を待つべきにのこりすくなき我ぞかなしき』

 新後撰民部□成範
『年ふれどわたらぬなかにながるゝを逢隈川と誰がいえけん』(年をとって渡るにも渡れない川を、逢うくま川とは誰が云ったモノか)


 藤原秀宗朝臣
『人しれぬ恋路のはてや陸奥の逢くま川の渡りなるらん』

  嘉元百首歌奉りける時述懐を
 続後拾遺前内大臣
『君の世に逢隈川のわたし舟むかしの夢のためしともかな』(逢隈川の渡し舟に乗って過ぎてしまった昔に逢いたいものだ)


 拾遺祝部成久
『またれつる此瀬も過ぎぬ君が世に逢隈川の名を頼めとも』

 二条院讃岐
『いかなれば涙の雨はひまなきを逢隈川の瀬絶しぬらん』(如何してこんなにも涙が出るのだろう、逢隈川の瀬も枯れてしまうほどに)


 新後拾遺権中納言為重
『立くもる霧のへたての末みえて逢隈川にあまるしらなみ』

 堀川百首藤原顕仲朝臣
『名にしおはゝ逢隈川を渡りみん恋しき人の影やうつると』(名の通りならば逢隈川を覗いてみたい、恋しい人の姿が映るかも知れない)


 同権僧正永緣
『ぬれ衣といふにつけてや流れ釼逢隈川の名残をしさに』

  建保三年名所百首御歌
 夫木集順徳院
『あすは又逢隈川の柵にきのふの秋の名をや残らむ』

 同 定家卿
『立くもる逢隈かわの霧の間に秋そやゝらん関もすへ南

  最勝四天王院名所御障子
 同大蔵々吉家
『冬の夜をながしや契る友千鳥逢隈川のたへぬみぎわに』

  題知らず
 同読人知らず
『逢隈をいずれと人に問いぬれば名こその関のあなた也ける』

  建保三年名所百首
 同兵部内侍
『あけぬるををちかた人も逢隈の七瀬の霧に袖ぞみへゆく』

  最勝四天王院名所御障子
 同後鳥羽院
『風はやき逢隈川のさよ千鳥涙なぞへり袖のこほりに』(逢隈川の風の冷たい夜に千鳥がこほり《冬衣》の袖を涙でぬらしている)

 同参議惟経
『わすれしに又逢隈の川風にしばしなれぬと鵆(ちどり)なくなり』

  建保四年百首
 同順徳院御製
『小夜千鳥八千代をさそう君が代に逢隈川のしき波の声』

 同具親朝臣
『夜を寒みさまよう千鳥たゝむ也合曲川の名や頼むらん』

 最勝四天王院御障子歌
 定家卿
「思いか子妻とふ千鳥風寒みあふ隈川の名をや尋ぬる」(おもいかねつまとうちどりかぜさむみおうくまがわのなをやたずぬる)

 中務家集ある人
『かくしつゝ世をやつゝまん陸奥の逢くま川をいかて渡らん』

  返し
『逢隈をわたりも果てぬ物ならばかはる〱にわれいかゝせむ』

  逢隈
 重之集
『逢隈に霧たちといひしかて衣袖の渡に夜も明けにけり』

 拾遺定家
『我君に逢隈川の小夜千鳥かき留めたる跡そうれしき』

 詠草宗隆
『みなはなすもろき命もはやき瀬に逢隈川のいつと頼まん』

 千五百番の歌合小侍従
『名にしおはゝ尋も行む陸奥の逢隈川は程遠くとも』

 新拾遺祝部成久
『またれつる此代も過ぎぬ君が代に逢隈川のなをたのめども』

    鎌倉嶽
竹貫郷竹貫村の南に当たる群山中に在り殊なる岩山なり。竹貫の城主十代の内で何れの時のことか、鎌倉より嫁に来た婦人の故郷恋しさ故、「我が慕わしい鎌倉は何方に有りや」と問われ、此の山の方を指して此方を鎌倉と教えたので山の名となったという。


   大沼
(初めに古い堤の跡が有ったという。けれども葦茅が茫々と生い茂った地であったので、顧みる人も無かった。定信公がご覧なされて有司に開墾を命じられてより、近郡稀な景勝地となった。人功を用いて絶大な沼を成し遂げ、余りの流水は新田に注ぐ。歌よむ人は関の湖と云い詩村居も出来た)

白河城の南にあり、(詩歌を)作る人は南湖と呼んで湖の畔に雅名を命名した。文化中諸国に聞こえ、詩歌の名人の寄題を求めて、その賞を有益なものとした。

   関の湖(詩に南湖と云う)  近衛左大臣基前公
『影うつる山もみとりの波はれて見わたし廣きせきの湖』

   共楽亭         我老公定信公
『山水の高きひきゝも隅なり共に楽しきまといすらしも』

   月まつ山        廣橋儀同伊光卿
『待むかふ月待山の霧はれてさきたつ光そらにくもらぬ』

   錦の岡         加納遠江守久周朝臣
『さゝなみの浪に浮める花紅葉にしきの岡のはる秋のいろ』

   真萩カ浦        芝山前大納言持豊卿
『かけひたす波も錦によせかへる真萩か浦の花さかり哉』

   常盤清水         牧野備前守忠精朝臣
『万代をかけて結はん深みとり常盤の清水たへぬ流れに』

   松虫の原         佐竹右京大夫義和朝臣
『旅衣ゆきゝかさ子て幾秋かしめてみん千世を松虫の原』

   月見浦        烏丸中納言資董

『たくひあらん出しほの影も秋にすむ月見か浦の波のみるめは』

   子鹿山        阿部備中守正精朝臣
『子鹿山月にはなれも妻乞のうらみや深きせきの湖』

   有明カ﨑       廣橋大納言胤定卿
『白河の関の山風ふくる夜の月影てらす有明カさき』

   みかけの島      有馬佐京亮誉純朝臣
『神のますみかけの島の松か根にとはにぞよする浪の白ゆふ』

   下根カ島       大久保加賀守忠真朝臣
『関の海や下根カしまの秋くれて月かけさゆる蘆の村立』

   千代の堤       堀田摂津守正敦朝臣
『雨かぜにゆるがめ千代の堤こそ國を守りのすがたなりけり』
   発聲村         土井嘯月超


『明けぬ夜の夢や覚ると庭津島八声の村に行きて子ましを』

   千代の松原        梶井宮実超親王
『立ならふ緑の色のさかへつゝ末かきりなき千代の松原』

   鏡の山         定信公
『湖のこゝも鏡の山なれや心うつさぬひとしなけれは』

   松風の里        小笠原信濃守長尭朝臣
『世の塵は余所にはらへる松風に此里人や千代おくるらん』

                           



  







    

                                                                      




   

   鮫川
赤坂郷の内山渓を源流とし、水が集まり川となる。竹貫郷へ出て田畝に注ぎ、流末は菊多郡へ出て東海に入る。

   金山

今の金山村の端、村入山の奥二、三里の間に黄金を掘り出した跡が幾つかあると伝えられるが、其の数は分かっていない。その辺りに人家数千軒があったと云われ、跡と思われるところは谷々に多く、寺屋敷などという小字の地も残っている。土地の人は風雨に晒された跡の土中から、黄金を磨いた磨き石なるものを取り出して香物の重石などに用いている。

此の八溝山の山脈から黄金が出たと云うことで、神社部に載せた続日本紀、承和三年遣唐使の費として供した黄金は、ここから出たものと思われる。(黄金産出の)村名の金山郷は建武二年(1335年)文書に初出している。
入山に金光山清水寺と云う寺があり、金山の盛んな時の寺だと云う。古色な笈の中に古い作と見られる五智如来像を納めてある。文禄十一年常陸の僧金蓮上人という者が書き記した縁起には、寺側に大きな塚があり、「頼朝房」とか云う僧が六十六カ国納経のために、此の地に来て此の地で没する際に、経文を銅筒に入れて埋めた塚であると言い伝えられている。近辺から参詣する者が多い。また八溝山の巽の方にあるソソメキ(祖々免金)より黄金を出す金穴が多い。山本村の地内にあって五里ほど隔てた地に、昔は人家が沢山あったが悪徒が立て籠っていたので、棚倉城内藤候領主の時に金山が廃されたという。今の元流村の上流寺という禅院はソソメキより引いた寺である。

 

 白川古事考巻之一(第一巻)終り


   

                        






 

 

 



























 

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