conparu blog

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古事記諸説

2014-11-25 22:07:46 | 随想

近年、『古事記』の人気が再来しているそうな。
学術的な研究者はさて置いて、作家の推理や素人の怪しげな解析も同列に扱われるところが面白い。
邪馬台国の卑弥呼は豊の台与に滅ぼされたという説もあり、大和建国は既に出雲王国によって既成化されていたとか、さまざまに新説珍説が続出しているさまは、ブロガーとして心強いかぎりであるとともに、深い闇はますます一灯の明かりを求めてさ迷います。

紀元前後は稲作や鉄器による弥生文化の開化時代であり、大陸からの技術や知識の伝播が日本の風土に溶け込んで独特の発展を促してきた。縄文人との融合も進んで、割と平和な時代だったのかも知れない。
強固な独裁支配者の存在は無く、互助共助による緩やかな集落体制に日本人の原型を見る思いだ。

大陸や半島からの流民が増えて来ると、狭い地域には人口の飽和状態が起きて、他の地域への拡散や争いが起きて来る。2世紀から3世紀にかけてはまさしく流動的な時代が到来していた。邪馬台国が魏志倭人伝に載るのもこの時代である。一部の地域において、小国同士の争乱が卑弥呼という女王を立てることで治まったのであるが、小国であるが故に外敵には弱い面もある。 卑弥呼が魏に使いを送り盟主と仰ぐことで邪馬台国の安泰を狙ったとしたら、外敵からすれば「眼の上のタン瘤」であったに違いない。

卑弥呼の同時代に天孫族や出雲族がいたわけで、それぞれの住み分けがどうなっていたのか気になるのである。卑弥呼を中心とする北九州連合勢力と、一段と勢力のある出雲大和集団、そして天孫族の位置関係は二転三転しつつも、豊の国(広い意味で)の日向にあったのでは?となると、豊の台与(トヨ)によって滅ぼされた邪馬台国は新たに天孫族の本拠地になり得る。

こうして出雲族と天孫族の対峙が始まっていく。この二大勢力の出自には接点がないのだろうか。
大国主命の国譲りの状況がまるで無抵抗のような緩慢さで描かれているのが気になる。
黄泉の国に降った後も、出雲の霊魂が新大和朝廷を悩まし続けたことを考えれば、実際には過酷な実力による支配があったと見るべきだろう。時代が時代だけに現代の感覚では覗けない、霊的な視力も族長の中にはあったと思う。天孫族の言う『神の国の御子』とは、元を辿れば遥かな遠祖の道程であり、遠国の足跡を秘めた言霊と言ってもいい。大国主命にも同じような言霊があったとすれば『天に届くほどの宮居』を建て我が住居としようと言ったこと。根っこには共通する遥かな遠祖の道程がある。

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