conparu blog

ささやかな身の回りの日常を書き綴ります。
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脇道散歩

2014-11-11 12:51:21 | 随想

古代散策が終わったはずなのですが、少し戻って脇道に入ってみようと思う。
神武と兄のイッセ命がともに大和討伐に行った時に、兄のイツセ命は河内の「白肩の津」と云うところで長髄彦の矢を受けます。重傷ながらも紀ノ川の河口まで辿りついたところで亡くなってしまいました。

この後神武軍は吉野川を遡り、「八咫烏(やたがらす)」の援軍を得ながら大和攻略に成功するのですが、神武にとってイツセ命の戦死は悲痛だったと思います。橿原に宮を置いたときにイツセの御霊を祭らないわけがない。もしかして伊勢神宮が彼を祭っているところかと思い、祭神を調べてみました。調べてみて驚いた。

伊勢神宮には内宮外宮それぞれに祭っている神が違う。だが、イツセ命を祭っている様子は無かった。内宮には当然のこと天照大神が祭られている。並んで手力男命・タクハタ姫という三柱が祭られているのだが、タクハタ姫は瓊々杵の母親(山祇族の出)だとしても、手力男命とはどうしたことか。これは天の岩戸から天照を引っ張り出した男である。

この伊勢神宮の祭神をネット探索した時に、面白いブログを見つけた。内宮、外宮ともに祭神が詳細に書かれ、伊勢神宮の謎について指摘しているのである。中西正矢氏と云う方のブログ『古事記は出雲が書いた』http://p.booklog.jp/book/57868/read
を参考に私なりの感想を述べてみよう。

中西氏は内宮の祭神について、天照大神と並ぶ祭神が脇役と正体不明者だとして、皇祖を祭る内宮であれば、天照大神、瓊々杵命、神武天皇あたりが祭られて然るべきであるのに、「奇妙な取り合わせ」だと言っている。
外宮には豊受(豊宇賀)大神、またの名をウカノミタマと言い、合わせて四柱鎮座している筈なのに三柱は不明と云う珍妙な展開は、尋常なことではないとも言っている。

何よりも驚いたことは、外宮を取り巻く諸宮の祭神がすべて出雲の神々だと言うこと。参拝の順序も外宮が優先されて、内宮が別格扱いであり、外宮が関守の役を担っているというのである。つまり「通せんぼ」して行き難くしていると云うのが中西氏の解説である。
『古事記』の内容そのものも出雲に重点を置いた書き方であるとして、出雲に関する事例は詳細に書いているが天孫族の事例はあっさり書かれていると。編纂した太安万侶は天の穂日命の末裔だが、天の穂日命の子孫は出雲国造にもなっている。
しかし太安万侶は従五位程の衣冠であるから、改ざんの主棒を担ぐとは思えない。やはり古事記の編纂を命じた天武天皇か編纂の完了を受けた元明天皇の周りで、出雲系の誰かが何かをした。としておこう。

私もブログ「古代をかじる」で、古事記『瓊々杵』の項では出雲平定の行跡が記されていないと書いた。天照大神の子として「太子天忍穂耳尊」が出てくるが神武までの勢いからすれば、天忍穂耳尊以前の勢力も強大だった筈だから、別の皇祖があっていいはずだ。何も書いていないのは不思議だと述べた。

中西氏の指摘は謎の暗部をこじ開ける鍵のような明快さである。分からないのは邪馬台国の卑弥呼との関連で、天照大神が果たして卑弥呼なのか?と云うこと。『瓊々杵の天降り』の項では『五部族の神を引き連れ』て東遷したとある。しかも「葦原の国が平定されたから降って行って治めよ」と天照と高木神からいわれている。五部族の神とはアメノコヤネ、フトダマ、アメノウズメ、イシコリドメ、タマノオヤ、という海神族系の出である。すると、葦原の国が出雲だとすれば、それまでは荒れていた葦原の国を平定したのは誰か?ということになる。瓊々杵が出雲に着いたとき出雲を支配していたのは大物主(大国主命)であるから、大物主命が高天原の命令で平定したともいえる。そこへ天照の直系の瓊々杵が降って言って治めよと言われるのだから、大物主としては心穏やかでない。

天孫族が単一族で行動していたとは思えない。天照大神と一緒にいた高木の神の娘ヨロズハタトヨアキツシ姫は太子天忍穂耳尊の妻であり、山祇族の出だとされる。とすれば五部族の神と合わせてかなり広範な地域を支配していたことになる。この辺のことが『古事記』で消されているのではないだろうか。邪馬台国が九州にあったという見方は変わらないけれど。

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