今月から観ております大河ドラマ「真田太平記」もDVD第弐集へ入り、残すところあと3話
となりました。今夜は真田幸村・生涯最期の戦い”大坂夏の陣”を観ました。
関ヶ原の合戦から真田家は本家(父・昌幸と次男・幸村)と分家(長男・信之)とに分かれ
敗れた西軍・豊臣方についた父・昌幸と幸村は紀州九度山へ配流、勝った東軍・徳川方につ
いた信之は真田本家の本城・上田城へ入城しました(ちなみに真田家は本家も分家も関ヶ原
の合戦の場にはおらず、それぞれの地で奮戦あるいは戦況を見守っていました)。
戦国の代では肉親・兄弟が敵味方に分かれるのは珍しいことではなく、むしろ敵味方に分か
れたからこそ江戸の代から明治維新に至るまで真田家は存続できたともとれます。
父・昌幸(ちなみに昌幸の父は武田二十四将の一人・真田幸隆です。幸隆は真田中興の祖と
呼ばれています。来年度のNHK大河ドラマ「風林火山」に登場します)は幾多の戦国武将が
成し得なかった、あの徳川の大軍を僅かな軍勢で二度も打ち負かし、その中でも後世の語り
草となっているのが関ヶ原の合戦へ合流する途中の徳川秀忠軍三万を真田の本城・上田城へ
引きつけ、天下分け目の関ヶ原の合戦へ間に合わせなかったことです。
徳川家康はこの秀忠(後の徳川第二代将軍)の大失態に激怒したとあります。
ともあれ関ヶ原の合戦は西軍の敗北ではありましたが、西軍だった小早川軍の裏切りがなけ
れば勝敗はどうなっていたかわからなかったかもしれません...いずれにせよ西軍東軍の勝敗
に関係なく、真田の武名は天下に鳴り響きました。
関ヶ原の合戦から15年の歳月を経て幸村は再び大坂城へ...前哨戦となる”大坂冬の陣”では大
坂城から離れた場所に”真田丸”と名付けた出丸を築き、僅かな真田の軍勢でまたもや徳川の
大軍を打ち破りました。この戦いぶりを観た家康曰く「あの真田の小倅め」...亡き父・昌幸
の遺志を継いで三度徳川軍と相対したのです。
最後の”大坂夏の陣”では幸村はもとより、真田兵、真田兵の具足・旗指物、馬の飾り付けに
至るすべてを赤一色に統一した”赤備え”はさぞかし戦場で際立ったことでしょう。
あえて誰の目にも真田軍の位置がわかるこの”赤備え”の一事をとってしても、幸村の決死の
覚悟が伺えます。真田軍は三度までも家康の本陣に突き入り、家康の馬印を引き倒すところ
まで家康を追いつめましたが、あと一歩のところで家康を取り逃がしてしまいます。
その後、幸村は深手を負って彷徨っているところを徳川方の越前兵に発見され討ち取られま
す。こうして華々しく散った幸村...あまりにも潔い戦いぶりをして徳川方の島津家久曰く
”真田日本一の兵=つわもの”よ...
備考:*真田幸村・終焉の地は大阪の”安居神社”と伝えられています。
*幸村という名は幸村の死後呼ばれた名で、生前は”信繁”と名乗っていました。
信繁という名の由来は武田信玄の実弟”武田信繁”から拝借したと言われています。
*生き残った幸村の二男・大八は内密裏に伊達家へ引き取られ、伊達家家臣となって
生き延びました。
となりました。今夜は真田幸村・生涯最期の戦い”大坂夏の陣”を観ました。
関ヶ原の合戦から真田家は本家(父・昌幸と次男・幸村)と分家(長男・信之)とに分かれ
敗れた西軍・豊臣方についた父・昌幸と幸村は紀州九度山へ配流、勝った東軍・徳川方につ
いた信之は真田本家の本城・上田城へ入城しました(ちなみに真田家は本家も分家も関ヶ原
の合戦の場にはおらず、それぞれの地で奮戦あるいは戦況を見守っていました)。
戦国の代では肉親・兄弟が敵味方に分かれるのは珍しいことではなく、むしろ敵味方に分か
れたからこそ江戸の代から明治維新に至るまで真田家は存続できたともとれます。
父・昌幸(ちなみに昌幸の父は武田二十四将の一人・真田幸隆です。幸隆は真田中興の祖と
呼ばれています。来年度のNHK大河ドラマ「風林火山」に登場します)は幾多の戦国武将が
成し得なかった、あの徳川の大軍を僅かな軍勢で二度も打ち負かし、その中でも後世の語り
草となっているのが関ヶ原の合戦へ合流する途中の徳川秀忠軍三万を真田の本城・上田城へ
引きつけ、天下分け目の関ヶ原の合戦へ間に合わせなかったことです。
徳川家康はこの秀忠(後の徳川第二代将軍)の大失態に激怒したとあります。
ともあれ関ヶ原の合戦は西軍の敗北ではありましたが、西軍だった小早川軍の裏切りがなけ
れば勝敗はどうなっていたかわからなかったかもしれません...いずれにせよ西軍東軍の勝敗
に関係なく、真田の武名は天下に鳴り響きました。
関ヶ原の合戦から15年の歳月を経て幸村は再び大坂城へ...前哨戦となる”大坂冬の陣”では大
坂城から離れた場所に”真田丸”と名付けた出丸を築き、僅かな真田の軍勢でまたもや徳川の
大軍を打ち破りました。この戦いぶりを観た家康曰く「あの真田の小倅め」...亡き父・昌幸
の遺志を継いで三度徳川軍と相対したのです。
最後の”大坂夏の陣”では幸村はもとより、真田兵、真田兵の具足・旗指物、馬の飾り付けに
至るすべてを赤一色に統一した”赤備え”はさぞかし戦場で際立ったことでしょう。
あえて誰の目にも真田軍の位置がわかるこの”赤備え”の一事をとってしても、幸村の決死の
覚悟が伺えます。真田軍は三度までも家康の本陣に突き入り、家康の馬印を引き倒すところ
まで家康を追いつめましたが、あと一歩のところで家康を取り逃がしてしまいます。
その後、幸村は深手を負って彷徨っているところを徳川方の越前兵に発見され討ち取られま
す。こうして華々しく散った幸村...あまりにも潔い戦いぶりをして徳川方の島津家久曰く
”真田日本一の兵=つわもの”よ...
備考:*真田幸村・終焉の地は大阪の”安居神社”と伝えられています。
*幸村という名は幸村の死後呼ばれた名で、生前は”信繁”と名乗っていました。
信繁という名の由来は武田信玄の実弟”武田信繁”から拝借したと言われています。
*生き残った幸村の二男・大八は内密裏に伊達家へ引き取られ、伊達家家臣となって
生き延びました。