「差不多」的オジ生活

中国語の「差不多」という言葉。「だいたいそんなとこだよ」「ま、いいじゃん」と肩の力が抜けるようで好き。

散るぞ悲しき 硫黄島総指揮官・栗林忠道

2006-06-04 | 
梯久美子さんが書かれた「散るぞ悲しき 硫黄島総指揮官・栗林忠道」。第37回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞した作品です。戦史に残る大激戦の地、硫黄島の戦いを、総指揮官の人物像を描くことで現代に伝えます。作者は私と同世代。「戦争を知らない世代」が書くがゆえに、逆に今を生きる私たちにはわかりやすく、戦争の本質、帝国大本営の実態を伝えているように思えました。

=以下、アマゾンの紹介から=
東京を、日本を、空襲から守るために、玉砕を拒んだ総指揮官がいた-。軍人として父として命の一滴まで戦い、智謀を尽くした戦略で「米国を最も怖れさせた男」の姿を、家族への手紙とともに描く人物伝。


栗林が硫黄島から家族にあてた手紙は、留守宅の台所の隙間風を心配し、末娘の姿を夢にみたといっては喜ぶ。「帝国軍人」というより、家族おもいのどこにでもる父親であり、夫であるとことが浮かび上がります。当たり前ですが、一緒に戦った兵士にも同じように家族があり、生活があった、戦争を戦ったのがごく普通の市井の人間であったことが伝わってきます。

同時に、米国留学経験もある栗林は徹底した合理主義者でした(それゆえに中枢部から疎まれて硫黄島に「捨て」られたともいわれているそうです)。「帝国軍人かくあるべし」といった考え方よりも、「いまできる最善は何か」を重視。当時の大本営の方針には沿わない、徹底したゲリラ戦で一日でも長く生き延びて米国軍にダメージを与えることに心血を注ぎます。これは水さえ確保できない(雨がふって地面に水溜りができれば、それを甘露のように感謝して四つんばいになってなめる。そんな日々)、大本営からも見捨てられた状況では「バンザイ突撃」で死ぬよりもはるかに辛く厳しい選択であったといいます。

勝利の希望がゼロであることはみな認識している。それでも過酷な地獄のような環境の下、2万の兵士の士気を最後まで維持し、太平洋戦争の中でもっとも深刻なダメージを米軍に与えた。そのモチベーションとなったのが硫黄島が落ちれば東京・本土は空襲にさらされるという現実的判断から導かれる危機感と、軍人の使命は市井の人々の生活を守ることという信念でした。人的被害を極端に嫌う米国世論の特質を知る栗林には「徹底的にダメージを与え続けることで世論に厭戦気分が出れば、停戦交渉に少しでも有利な材料になる」という判断もあったといいます。

しかし、栗林の考えは大本営にはまったく通用しなかった。空襲のことを考えればありえない、硫黄島早期の「放棄」方針。戦い方の方針変更も徹底しない。米国との停戦交渉材料という考えかたも大本営にはまったく相手にされなかった。

一番悲劇的なのは、モチベーションの根本だった「自分たちが生きて戦っている間は東京は安全」ということが幻想でしかなくなってしまったことでしょう。戦いのさなか、滑走路は米軍に落ちた。3月10日の東京大空襲は硫黄島で戦いが続いている中、実施されました。栗林はおそらくこの事実を耳にしたと思われる。2万の将兵の死に少しでも意味づけをしたい、しなければ申し訳ないと考えた栗林には耐えられないほど過酷な現実だったのではないかと、想像します。また、栗林には知る由もなかったでしょうが、最期の総攻撃のその日には、「民」を見捨てた沖縄戦の最初となる慶良間への米軍の攻撃が始まった皮肉…

最期の電報で大本営にあてた辞世の句と戦況報告は、暗にというか、なかば公然と大本営の方針を批判した内容になっています。2万の将兵の無念を訴えなければいられなかった気持ちがにじみ出ます。しかし、その辞世の句さえ、大本営は改ざんして公表します。表題「散るぞ悲しき」とはその改ざんされた辞世の句の一部。「悲しき」は「口惜し」に書き換えられるのです。組織の無謬性神話を維持しようとすれば犠牲になるのは真実であることが淡々とつづられます。

戦争というもの、軍隊というものについて考えるひとつのきっかけになる本だと思いました。