「山内一豊の妻」とならんで、高知女性を もうひとり。
のなかえん(かんじ:野中婉)
という人について、
ちょっとふれておきたい、
と 思います。。
(大原富枝「婉という女」より)
野中えん(婉)は
江戸初期に 実在した
高知女性で、
そのお父さんは、土佐はん(藩)のじゅうちん(重鎮)だった、
野中けんざん(兼山)
という、有名人
はん(藩)主の血を引き、学者としても、政治家としても
ゆうしゅう(優秀)な
けんざん(兼山)は、
当時、
はん(藩)の先頭に立って、
「改革」を
バリバリ・こなしていました
ところが・・ これがまた、「いごっそう」そのものと 言っていい、
がんこな性格で、
周りのいけん(意見)をきかず
強引に
改革をすすめてしまった
結果、、
みんなから にくまれて、けんざん(兼山)は
しまいに「幽閉」されて
しまいます
野中えん(婉)は、この時、家ぞくといっしょに
「幽閉」された、
けんざん(兼山)の
四女です
えん(婉)は、この時4才でしたが、
父が失きゃく(脚)してから、
以後 40年以上
外に出ることを、
ゆるされませんでした・・
父・けんざん(兼山)は、「幽閉」後、すぐに
死んでしまいましたが
土佐はん(藩)は
いぞく(遺族)をゆるさず、
「兼山の血を引く男子が 全員死に絶えるまで、
野中一家は 全員外に出るな」
と
命じたのです
とじこめられた・野中一家は、存在をタブーし(視)され、
不自由な生活を
しいられ、
世間とかくぜつ(隔絶)すること
数十年・・
その間、「幽閉」された家の中では、けんざん(兼山)の 長男が病死
次男が狂死
三男が病死
四男は自殺
五男は?で、
六男が自殺
さらに、
とついでいた・長女も送られきて、死亡・・
という、
世にもおそろしい・生きじごく(地獄)が くり広げられました
さいごまで生きていた・けんざん(兼山)の四男が
1703年に自殺して、
女だけになったところで、
野中一家は
やっと
かいほう(解放)されます。。
が、
生きて出られたのは、3人の娘たち、80代の母、
そして、
60代の乳母だけ。。
えん(婉)はそのとき、44さい(歳)に なっていました・・
「大罪人の娘」として、ふつうに生きることを
きん(禁)じられ、
外界にふれずに 育ち、
けっこん(結婚)も ゆるされず、、
せまい家の中で 兄弟たちが「非業の死」をとげる・・
そんなさまを
見つづけてきた・えんは、
弱りきった・母をささえて、ざしき(座敷)牢から 出てきた時、
いったい、
何を 思ったろう・・?
たぶん、「うれしい」ってかんじでは なかったんじゃないかな・・?
そうぞう(想像)なんて
できないけど、
クリンは そう 思います。
えん(婉)はその後、がんばって医者になり、残り少ない後半生を
人のために
つくしたそうです(えらすぎ)
小説では、
このえん(婉)が
「幽閉」中、
ゆいいつ・交流をもっていた
谷じんざん(秦山)
という男性に、
恋心をよせるさまが 描かれます
えん(婉)たちは、外出も、外界との交流も、
きん(禁)じられて
いましたが、
けんざん(兼山)の弟子として
野中一家を 気にかけつづけた
谷じんざん(秦山)
とだけ、
年に一度、学問上のしつもん(質問)と、詩のやりとりにかぎり、
手紙を送りあうことを
ゆるされました。
会ったことはないけれど、自分たちに同じょう(情)をよせ、
長く見捨てずに
つきあってくれる、
きょうよう(教養)のある
青年武士
それだけで
えん(婉)があこがれて
むねを こがすのは
とうぜん(当然)のこと
作者の大原さんは、
そう思って
このお話を 書いたのでしょう。
谷じんざん(秦山)は、まさに えん(婉)のきぼう(希望)で、
生きる支え
だったにちがいない
クリンだって
そう思います。
でも・・
小説でも じっさいでも、えん(婉)は・・
じんざんとも、
だれとも、
むすばれることは ありませんでした。。
・・・・・
なんて、むくわれなくて、
なんて、かなしい女の人生なのでしょう「アンギャ~!!」
(その31、「土佐のいごっそう・板垣退助」に、つづく)
野中えんさん、知らなかったけど衝撃受けました!!絶望の中女医さんになったなんて素晴らし過ぎる。罪のない家族を40年も幽閉って。。今では考えられない。当時の土佐藩に喝!!
クリンも入れとこ。カァーーーッツ
そうだ、えんさんには「あっぱれ♪」あげなきゃね
・・・これでよし。
クリンも土佐はん、大きらい!!!
えんさん、かいほう後すぐに死んじゃったりしなくてよかったね・・うれしいこととか、どれくらいあったんだろうか。。
実は後半生モテモテで、美人女医としてブイブイ言わせてたらいいね
それでもって、えんさんたちをゆうへいした・家老とかは、みんなおちぶれてるの!
・・・クリンがぞくへん・書いてあげようかしら。。