今度のミラノは、僕のカスケットリスト(棺桶リスト:くたばるまでに会っておきたい人のリスト)で、一番優先度が高い項目に、○(達成印)をつけるためだった。
<カスケットリストの一部>
それは、44年前に知り合って以来、付き合ってきたエミリオに会うことだった。最初の出会いは1971年、IBMミラノの製品開発拠点で、僕の二度目のイタリア駐在の時だった。その頃、彼は40歳代半ばで、30過ぎたばかりの僕より兄貴だった。前の駐在業務の残務整理のような目的で、6月から4か月の滞在だった。期間が短く、単身赴任だったので、彼とは仕事の上のみならず、個人的な生活でもつきあいができた。それには、彼の兄貴分としての好意があったからだ。
イタリアでは、敬称をつけて呼ぶことが公的な会話では必要。彼は、その頃としてはまだ珍しく大学を卒業していて、技術者としてIBMで働いていた。だから、ドットーレ(博士)Sと呼ばれていた。人にやさしい、指導的な立場の役職、おそらく副部長クラスの人だったと思う。
ミラノの彼のマンション(イタリアではアパルタメントと呼ぶ)によばれたのが始まりだった。
7階建てのマンションの最上階に彼の自宅があった。驚いた。5LDKほどのマンションの居間に、暖炉があったのだ。暖炉は飾りではなく、冬は暖房のために燃やすという。もちろん熱に考慮して、外壁の角に取り付けられ、煙突も出ていた。その頃、日本の団地の部屋には、暖炉なんてものは見たことがなかった。生活の質の差を感じた。子供は長男のフルビオ君が一人で、3人の暮らしだった。
<ドロミティ・ディ・ブレンタ>
何度かミラノのマンションにもお邪魔したが、忘れられないのは、彼のドロミティ・ブレンタの別荘だ。ドロミティ・ブレンタとは、マルモラーダ山を核とする、よく知られているドロミティ山塊とは離れて、アディジェ川の西側にある山塊で、同じくドロマイトで出来ている山々。7月初めから、子供と奥さんは避暑のためにミラノを離れ、マドンナ・ディ・カンピリオ村の別荘で過ごしていた。エミリオは仕事があるから、そんな長い休暇はとれず、週末になるとアルファロメオ・ジュリアを3時間近く走らせて、家族のもとに帰っていた。その頃は、まだブレシアからの高速はなかったから、ガルダ湖の東側を登って、300㎞近い距離を走っていたわけだ。
夏をミラノで一人、過ごしている僕を見て、別荘に来ないかと誘ってくれた。3回ほど、マドンナ・ディ・カンピリオまで、彼と一緒の週末ドライブになった。1500mの高原の斜面に、彼のログハウスがあった。庭は広く、僕にはあこがれの大きなハンモックが白樺の木にスイングしていた。フルビオを寝かしつけると、エミリオは奥様、エミリアと僕と一緒に夜の村の散歩に出た。8月とはいえ、高原の空気は冷え込んでいた。高い山の連なりの上空には、星たちが燦然ときらめいていた。
日本で言ってみれば、東京にマンションを持って、そして軽井沢に別荘を持つなんて、一般的なサラリーマンができる生活ではない。羨ましかった。その頃僕は、横浜の皆の憧れる公団住宅に“誇らしく”住んでいたのだから、ギャップは大きかった。質がちがった。
その後、彼は1982に来日して、藤沢のIBMのサイトに一週間弱やってきた。本当だったら、家に呼ぶのがイタリアの常識だが、それができるほど我が家は広くもない。仕方なく、外で食事に誘った。その時、馬刺しを食べさせて、後で彼に怒られたことがある。その後も、1987のブラッセル出張の折、理由をつけてミラノのサイトを訪れ、彼に会った記憶もある。
クリスマスカードの交換が続いたが、1996年と2002年に、僕がイタリアに、それぞれ3週間くらい滞在したとき、F1で知られるモンツアの自宅に招かれて、エミリアとも会って昔話をした。
2012年にイタリアへ行ったが、スケジュールが合わずエミリオには会えなかった。僕も心臓君に問題があり、彼の愛妻のエミリアには筋無力症が発症し、先が不透明。やっと今年(2016年)、最後の再会にこぎつけたわけだ。85歳になったエミリオは、いつものように紳士。ピンクの夏姿の奥様の尻に敷かれながら、ニコニコと、いいご夫婦を楽しんでいた。エミリアが見せてくれた写真には、8人の孫に囲まれた二人の姿があった。その中には、あのフルビオの子供も写っていた。イタリア人の心の中心には、常に家族があると感じているから、彼らが嬉しそうに、家族の写真を見せてくれるのを羨ましく思う。
<二人のEと僕>
話し合始めると、あっという間に、会わなかった14年の空白がすっ飛び、昨日の延長で今日、話しているような感じになった。これは、本当の友達の特権だろう。
EXPO2015の都市づくりの一環として設計された、美しい「縦の森」を見たいと言ったら、エミリオが車でそこまで連れて行ってくれた。車はアウディのA6。昔はアルファ・ジュリエッタじゃなかったかと聞いたら、あれから、いろいろ車を替えて、BMWなどにも乗ったと言っていた。内装も、アウディA6はすばらしい車だった。
<縦の森>
灼熱のミラノを、ホテルまでA6で送ってくれた。車を降りて、二人と頬を寄せてハグし、両手で握手した。今度は「上」で会おうと声をかけた。三人に笑みが生まれた。アウディが角を曲がってコルソ・ブエノス・アイレスに消えるのを、僕はホテルの前で見送った。今生の別れだろうと、三人ともわかっていた。
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