M.シュナウザー・チェルト君のパパ、「てつんどの独り言」 

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金属疲労で「笑っていいとも」が終る

2014-01-18 | エッセイ

 誰か言ったか知らないが、「金属疲労」という言葉、上手いことを言うなと思った。まさに云い得て妙だ。これを聞いて、なんだか納得した自分がいた。



 32年間、彼、タモリは、この長い時間の中で、絶え間ない外からの、そして自分という内からの圧力に疲労を感じていたのだろうと思うからだ。

 はじめの頃、タモリの番組は新鮮だった。忙しい勤務時間の昼休みに、フッと気を抜いて、皆と無邪気に笑っている自分を発見したのはこの番組のおかげ。

 その頃の明石やサンマとの掛け合いは、話術のマジックだった。これが芸だと感心してしまった。

 最近の「笑っていいとも」はまったく面白くない。最近ではなくて、この10年位の間に静かに劣化が進んだというのが当りだろうと思う。

 その原因は、タモリ自身の問題ではなくて、フジテレビのプロデユーサーとか、社長を含めた役員に問題があるのだろうと、僕は勝手に思っている。

 面白くなくなった原因はマンネリ化だ。昼のタイムゾーンの年間視聴率が6%台だったことが、それを証明している。

 この金属疲労の原因を考えてみると、まず出演者がお笑い芸人だらけだという問題が見える。

 レギュラーメンバーの大多数が、お笑い芸人ではへきえきする。勿論、面白いタレントもなかにはいるが、大部分は芸のない上方からのお笑いだ。新人お笑い芸人の発掘が、この番組の狙いではないはずだが、何の反省もなくたくさんのお笑い芸人を作り出した。そして、消えてしまったお笑い芸人を数えてみれば、いかに粗製濫造であったかがよく分かる。

 さらに言えば、歌の歌えないへたくそな歌手たちがゾロゾロ出てくる。AKBXXのオバカさんたちの姿にもへきえきする。こんなのを出して、局は視聴者におもねっているのだろうか。本当に、視聴者が楽しめると思っているのだろうか。こちらも、皆、飽きられている。

 タモリの「友達の輪」コーナーも、実に「本当の友達の輪」ではなくなっている。どこかの芸能プロダクションの宣伝のお先棒を担ぐことになってしまっている。意外性のある「友達の友達たち」は、もう現れない。

 何のことはない、フジテレビの意向で、何かの番組、映画、ドラマの宣伝の場にしかなっていない。タモリは不満だったろう。むかしほど、会話を楽しめなかっただろうと思う。「不要品の在庫処分」と、タモリは言い切った。

 企画面でも、新しい企画は全くなくなった。手を変え、品を変え、しかし、どこかで見たなぁという企画ばかりだ。アッと、驚くアイデアは枯渇したのだろう。32年もやっていれば、いずれそうなるのは当たり前かもしれない。

 タモリはいつか話すだろうと思うけど、「笑っていいとも」だけでなく、テレビ朝日の「ミュージックステーション」の司会でも、タモリに疲れが見えている。

 音楽のわかるタモリは、ここでも歌えない歌手たちに取り囲まれている。これは日本の音楽界が退歩しているからだろう。本当に安心して聞ける音楽のない「Mステ」では困る。うるさいだけの、AKBXXなどと付き合っていて楽しいわけがない。

 それは、視聴者にも責任があるし、作曲家や、プロデューサーの責任も大きい。全体的にみると、日本の音楽のレベルが劣化していることの証拠だろう。3オクターブもある広い音域の豊かな音楽の表現を、意図的に消してしまった小室時代の世代の罪は深い。

 さらには、おニャン子…だとか、モーニング娘とか、秋元のAKBXXもふくめて、音楽を台無しにした。

 さらに言えば、テレビ界はまったく疲弊している。

 お笑い、チャラチャラのAKBXXなど、動物、食物、旅行、韓流ドラマ、再放送に依存している現状に夢は持てない。

 一番ひどいと思うのは、美術館めぐりみたいな番組にもお笑いが出てくる。やめてほしい。付け焼刃の解説なんか聞きたくもない。

 出来れば、海外にあるような24時間、ニュースを流す局、BBCのように時間をかけて一つの主題をしつこく追いかけていくドキュメンタリー専門の局があったっていいはずだ。

 日本のテレビは面白くないということに尽きる。


P.S.
この文のための関係者への取材はしていません。この文は、すべて私の個人的見解で裏はとれていません。