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ケパとドルカス

『肝心なことは目では見えない』
これは星の王子さまの友達になったきつねの言葉。

12月13日主日礼拝

2015年12月13日 | 教会のこと
外は雨です。寒いですが、今日も主日礼拝守られています。
今日のメッセージは、
マルコの福音書 13章から
あなたの神である主を愛せよと、ケパ牧師が、今日も熱く語ってます。
オンラインまだやってますよ。是非ご一緒にどうぞ~~
今日は姉の連れ合いが来て共に礼拝が守れました。神様のサプライズです。救いの日が近くあります様にと祈りました。
ドルカス




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召天された二人の牧師を送る会~また会う日まで

2015年12月12日 | 示されたこと
今朝、東京アンテオケ教会での送る会に出席してきた。

三木牧師は私の主の十字架広島時代に四年以上、親交を深めた兄弟で呉での葬儀にも参加してきた。一方の菅牧師は今回のイスラエル派遣を共にし、ほんの少し介助のお手伝いをしたりもした。

三木牧師は明るい人柄であるだけでなく、呉の海岸から向かいの江田島まで、夜の海を数キロを泳いで往復するほどの現役の鉄人だった。主の十字架でもっとも屈強な男だと私は思っていた。が、あっという間に心筋梗塞で召された。またサムエル菅牧師は十年も前、脳出血での全身麻痺から半身の回復、さらには祝祷なども一人でできるようになったという奇跡的な癒しを体現された方であった。このお二人が一日を挟んで相次いで召された。一人はもっとも身近な自宅で、一人は何とエルサレムで。ある意味で対極的なお二人の、今回のこの天へ凱旋には神からの大きなメッセージがある、そう誰しもが感じられたはずである。しかしそれが何なのか、祈っているが未だ判然としない。

ただ今はっきりしていることは、いつ召されるか、それは神の主権であり最善であるのだが、いつ召されても良いように、人間的な計画を放棄し、すべてを主に捧げ、精一杯主にお仕えしたいこと。栄光は神のもの、すべての栄光を神に帰せるように、いささかでも高ぶらないように、この一瞬一瞬、全て主のものであるように、と祈りに導かれていることだ。 ケパ



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金曜日は、家庭集会

2015年12月11日 | 使命
朝から強風と、雨の金曜日。チョットこの天気には感謝が必要でしたが、コールは留守番で出かけます。
月2回の家庭集会ですからね~
出掛けると、意外な事に、空がどんどん明るくなってきて、到着した時には雨も止み、さらにお天気です。
昼から雨だなんて、どこの事でしょうか。ピアノ奏楽に合わせ賛美し、メッセージを聞き、お食事は、お手伝いはするもの、なんて手際よい姉妹でしょう。と感心しながら頂きました。食卓を囲む事は、さらに恵みです。
そして今夜は神学校があります。それまでの暫しの休憩ほ、船橋駅にやっとできたスターバックスでコーヒータイム。本当になかったんですよ。スターバックス。
そんな時間も、ケパさんは信仰書開いて学んでます。
私❗️勿論私もblogを書くという使命を全う中なり❗️
ドルカス



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水曜日の教会は

2015年12月09日 | 教会のこと
いつも書く事なのですが、本当にスケジュールがずっしりの水曜日です。
しかし祝福もずっしり。まずは礼拝。今日は、私のミスが満ちていて大変な事でした。プロジェクターには必須のUSBメモリーを忘れ、ドキドキガタガタの始まりでした。が、
Yu姉の奏楽奉仕が水曜礼拝からスタートですが、なかなか良いです。ケパ牧師❗️賛美に集中出来ますね。ハレルヤ

そして、神学校、お掃除の後にはピースフル練習です。今夜は教会のメンバーだけでしたので、最近歌っている曲を練習。
声をしっかり出して、今まで間違って覚えていた箇所を訂正したりね
その後には祈祷会です。
ともに参加できないYu姉は、家庭での祈りですね。そこにも祝福があったと、主に感謝します。
ドルカス


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映画 「杉原千畝」

2015年12月08日 | 映画•映像
今日は久しぶりに映画を観に行った。公開中の「杉原千畝」である。外国人監督で日テレが制作し、ほとんどがヨーロッパロケで英語ばかりの異色の映画だった。が、かなり本格的なあ映画になっていた。

杉原千畝のことについては、イスラエルに重荷がある教会の者としては知っていた。映画「少年H」においても、日本到着後の彼らの様子が描かれていた。しかしやはり映像で観ると、当時の状況などまるで迫力が違ってくる。そういう意味では一見の価値があると思われる。

特に印象に残ったのは、杉原千畝個人がロシア正教徒だと思わせる、正教会で十字を切る仕草があったことだ。しかし例によって、宗教的な真相は一切触れられていない。いずれにしても日本人として数少ない、組織の方針に抗って人生を棒に振ってでも、為すべきことをしただけ、という誇れる人物がいたことは素晴らしいと思う。

ただその動機が、映画ではハルピン学院の校訓などの人道主義的結果のようにみせていた。しかし私はそれは最大の誤りであって、一人の神を信じる者として、ギリギリの状況での「自分を捨て隣人を愛する」行いであったことは明白だと思う。そこが不信仰国日本映画の限界点だと、正直嘆かされた。 ケパ







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クリスチャンのさばき

2015年12月07日 | 聖書
非常に大雑把(おおざっぱ)に言えば、神を信じない人にも、信じる者にも、一度だけ大きな判定があって、これを聖書では(死者の)さばきといい、第二の死とも言う。もちろん判定は神が絶対的な権限でされる。このさばきというものは恣意的なものではなく、その人か生前に行った膨大な記録による。そうなると人の死後は決まっていて、全員が有罪となり、例外なく地獄行きである。芥川の「蜘蛛の糸」とは異なって多少の善行があろうとも、基本自己中心性と原罪が人間にはあるので、みな第二の死(地獄=火の池)行きは確実となる。

ではどうしたら逃れられ、天国へ行けるのだろうか。イエス・キリストの十字架を信じる道しか人類には残されていない。天地万物を造られた神ご自身が、こんな自分の罪の身代わりとなって十字架にかかってくださったことを告白し、信じることである。十字架は全ての罪を帳消しにするスーパーカードのようなもので、天国とは正しい人が入るというより、罪人が罪赦されて恵みで入れる所である。

ところで神を信じた人にもさばきがある。そう言うと「エエッ」と驚かれるクリスチャンも多いことだろう。これはさばきというより「報い」というべきものである(1コリ3:10-15)。クリスチャンには第二の死はありえないので、確かに天国には約束通り行ける。ただし天国には、諸国の民が住む所と、天から降りて来る神の都エルサレムとがある(黙示録21章)のがポイントである。気になるのは、そのどちらに住めるのか?ということであって、都のエルサレム内に住めるのは、千年王国の時代、キリストとともに王となり、おそらくは多くの民を導く役目をするはずの殉教者か、または携挙されるような殉教に相応した信仰者(聖徒)だと私は見ている。

私はこれら千年王国の王たちが、 神の都エルサレムの聖所の柱となり、その住人となるのは確実と思っている。私はこの都にすむことを、皆と同じように熱望している。なぜならまず第一に主の近くに一時でも長く居たいと思うからだし、その都の中央には「光る命の川」と両岸には命の木(どんな木だろうか!)と毎月実のなる十二種の木があって、ここには諸国の民も来れるらしく「木の葉がいやした」とある(黙22章)。これが天国の実体なのだ。ここには悪や一切の呪いがないうえ、永遠の世界なのだ。想像するだけでも胸が熱くなるではないか。 ケパ



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ハレルヤ

2015年12月06日 | 教会のこと
今日の、礼拝にはとても素敵な事がありました。神様ありがとう❗️感謝します。
先月のゴスペルコンサート前の路上ライブで、ずっと熱心に聴いていた青年。
礼拝に行きますと。先週は待っても見えない。違ったのかなと少しがっかりして。
そしたら、今朝礼拝中に電話が鳴って、来られました。スリランカ人のスレーン君。
ハレルヤ~ 迎えに行ったら、あちらからブルーの自転車で来られました。
礼拝は後半に入ってましたが、証し、賛美、メッセージと、そしてランチタイムも一緒に、さらに学びの時もいて良いかと聞かれ、
一緒に過ごした主日。また慣れない日本語で、意味もわからないけれど、聖霊さまが共におられました。ハレルヤ
ドルカス


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12月最初の主日

2015年12月06日 | 教会のこと
今日も主日礼拝に集い、礼拝してます。

聖餐の時を待っています。
オンラインの方々もご一緒に

今日の録画に不都合が生じてます。
前半のち、メッセージ前で中断されました。が、牧師メッセージは、引き続き収録していますので、ご覧になれます。
不都合をおかけします。
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明日の準備

2015年12月05日 | ネコのコールと‥‥
土曜日にのん気なのは、コールだけね。
何度か声をかけても、尻尾をちょっとだけ動かして、面倒くさそうな返事。
明日は留守番なのだから、今夜は好きなように過ごしてもらいましょう。
それにしても
ねえ(*^^*)この寝姿ですよ。こちらもついリラックスしたくなります。 ドルカス


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人を愛する神

2015年12月04日 | 聖書
神を信じない人は当然としても、クリスチャンに対しても戸惑うことがある。それは「神とはどういうお方、お人柄なのか?」ということである。

これについては実はすごい資料がある。キリスト教の神は唯一神であるが、三位一体の神でもある。特に十字架のために人の形をしてこの世に来てくださったキリストが最大のモデルである。このキリストについては聖書でなんと、福音書という四つに分かれて詳細に描かれている。このイエスという神を知る手がかりを、以下の二つをあげる。
「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるから。」・・・(マタイ5;3–4)

石打ち刑で殺されるべき姦淫の女、を連れて来て、イエスに断罪させようとし企みに対して、イエスは身を起こして言われた。「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」そしてイエスは、もう一度身をかがめて、地面に書かれた。(ヨハネ伝8章)

「神は愛なり」とよく言われるが、弱者に寄り添い、人間の罪深い弱さに対しても、この深い透徹した愛そのものに、自分の心が痛むほど、愛なるお人柄がよく分かるのだ。
もう一つ、日々のデボーションなどを通して、内住される聖霊様との交わりによって知ることができる。よく「聞き従い」とか「御心を行う」とかの言葉があるが、神様の御人格を知れば、このお方がどれほど素晴らしいか、心酔するというか、無条件に従いたくなるし、そのご計画に自分を心から用いていただきたくなるのは必然だ。神様の人柄を深く知る、それは人間としの最高の喜びだと思う。 ケパ



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