映画にはどのシーンも、身近に私たちが目にしている船橋の景色があって、あらためて親しみを覚えた。しかし実際に映画を観るまで、よくあるご当地映画に近いものだと思っていた。が、なかなかどうして、内容のあるお薦めできる良い映画だ。これは原作がしっかりしているためなのだ。だからこの映画はかなり良作に仕上がっている。(船橋だけ7日から。他地域は15日から)

(以下はWeb上のあらすじ紹介文である。)
愛猫を亡くし、喪失感にうちひしがれていた立花明海は、西船橋の古書店で普段は読まない自己啓発系の本を買う。すると、中に元の持ち主の名刺が栞代わりに挟んであり、明海が最も心を動かされたフレーズにはすでに傍線が引かれていた。気になった明海は意を決して名刺の「大滝あかね」に連絡をとる。
初版発行: 2015年11月22日 著者: 森沢明夫(下は原作の表紙)

この愛猫が映画では、三年前の海難事故で主人公の恋人が死んだことに置き換えられている。題名のきらきら眼鏡とは、《(悪いこと、つまんない日常でも)ものごとをキラキラ輝かしいもののように見る心の眼鏡をかける》という意味らしい。良いこと探しのポリアンナ物語現代版であろうか。
映画では、古本の持ち主だった女性(大滝あかね)の彼氏がガン患者だった。で、あかねは彼氏が死ぬかも知らない恐怖に備えようと、事故で彼女を失った明海に関心を持つのだった。どのようにして、喪失感から解放されたのだろうか、と。
この映画は死ぬことを恐れ、のたうつあかねの恋人。長年の恋人を失うことを恐れるあかね、すでに過去のことなのに、その喪失感に魂の抜け殻のように生きている主人公(明海)が絡み合う。
今の多くの日本人は信仰もなければ哲学もない。生きていることだけが全てで、不思議なことに、必ず死ぬのに死後のことは考えようとしない。
だから題名の《きらきら眼鏡》とは、最愛の人が死んでしまう喪失感に、どうやってこれから生きていけるのか、今にも壊れそうな自分を鼓舞し無理して、何とか踏み留まろう、支えようとしている姿なのだ。しかしそれは、所詮自分の努力では限界があって、次第にバレバレとなる。
この映画を観て、神を信じ、真に感謝することができる私たちクリスチャンの絶大な恵みを思った。クリスチャンは永遠のいのちを与えられ、今の命は天国のための準備のような時間なのだから。決して強がりではなく、死は天国への凱旋なのだ。また聖書にクリスチャンは「望みのない他の人(神を信じない人々)のように悲しまない」(1テサ4:13)とあるのは、天国でもとのように会える希望があるからです。
しかし信仰のないほとんどの日本人は、死が迫ると生にしがみつくしかない。それでも死は無理やり迫ってくる。その恐怖はどんなに大きいことだろうか。

生き残された人も、クリスチャンのように、また天国で会えるという希望がない。映画のように支え合える出会いがあればまだしも、だがそれも本当の解決ではない。ああ、主よ日本にリバイバルを❗ 日本人に本当の永遠のいのちが与えられますように。
ケパ

(以下はWeb上のあらすじ紹介文である。)
愛猫を亡くし、喪失感にうちひしがれていた立花明海は、西船橋の古書店で普段は読まない自己啓発系の本を買う。すると、中に元の持ち主の名刺が栞代わりに挟んであり、明海が最も心を動かされたフレーズにはすでに傍線が引かれていた。気になった明海は意を決して名刺の「大滝あかね」に連絡をとる。
初版発行: 2015年11月22日 著者: 森沢明夫(下は原作の表紙)

この愛猫が映画では、三年前の海難事故で主人公の恋人が死んだことに置き換えられている。題名のきらきら眼鏡とは、《(悪いこと、つまんない日常でも)ものごとをキラキラ輝かしいもののように見る心の眼鏡をかける》という意味らしい。良いこと探しのポリアンナ物語現代版であろうか。
映画では、古本の持ち主だった女性(大滝あかね)の彼氏がガン患者だった。で、あかねは彼氏が死ぬかも知らない恐怖に備えようと、事故で彼女を失った明海に関心を持つのだった。どのようにして、喪失感から解放されたのだろうか、と。
この映画は死ぬことを恐れ、のたうつあかねの恋人。長年の恋人を失うことを恐れるあかね、すでに過去のことなのに、その喪失感に魂の抜け殻のように生きている主人公(明海)が絡み合う。
今の多くの日本人は信仰もなければ哲学もない。生きていることだけが全てで、不思議なことに、必ず死ぬのに死後のことは考えようとしない。
だから題名の《きらきら眼鏡》とは、最愛の人が死んでしまう喪失感に、どうやってこれから生きていけるのか、今にも壊れそうな自分を鼓舞し無理して、何とか踏み留まろう、支えようとしている姿なのだ。しかしそれは、所詮自分の努力では限界があって、次第にバレバレとなる。
この映画を観て、神を信じ、真に感謝することができる私たちクリスチャンの絶大な恵みを思った。クリスチャンは永遠のいのちを与えられ、今の命は天国のための準備のような時間なのだから。決して強がりではなく、死は天国への凱旋なのだ。また聖書にクリスチャンは「望みのない他の人(神を信じない人々)のように悲しまない」(1テサ4:13)とあるのは、天国でもとのように会える希望があるからです。
しかし信仰のないほとんどの日本人は、死が迫ると生にしがみつくしかない。それでも死は無理やり迫ってくる。その恐怖はどんなに大きいことだろうか。

生き残された人も、クリスチャンのように、また天国で会えるという希望がない。映画のように支え合える出会いがあればまだしも、だがそれも本当の解決ではない。ああ、主よ日本にリバイバルを❗ 日本人に本当の永遠のいのちが与えられますように。
ケパ