今日、スポーツ後のシャワールームで、小耳に挟んだ会話。
「『老いて体が大変になってまで長生きしたくないな』と言った人に、『大丈夫、あんたは長生きしないよ』と言う返事が返って来た。それって慰めになってる?」
聞かれていた人。「なってないでしょ!」。

聞いていて私は、本音では人は皆、「どうあっても生きたい=死にたくない」と思っているわけで、すべては、それが前提なのだと改めて思った。私たち日本人は、死の先にあること、死を超える道を考えようともせず、ただ避け、逃げているのだ。そこで、私は会話に介入し、場違いだったが福音を語った。
実際には私たちは確実に死に向かっている。老化はそれを日々教えてくれるものだ。命があるということは、同時に死に向かっている、それがただ、人によって長いか短いかだけなのだ。

しかし非常に情けないことに、明晰な頭脳と秩序正しい国民性で知られる我が日本国民だけが、永遠のいのちを知らせる福音から遠いことだ。特に年齢を重ね、体の行き先が見え見えになろうが、霊・魂の行く先については、どうしてこうも無関心または、避けまくる国民なのだろうか。口出ししようものなら、「忌み事」のように咎められる。台風や地震への備えはするのに、これは非常に愚かなことだ。天国で日本人にら会うことは、ああ、(現状だけで見るなら)きっとわずかなことなのだろう。
福音を信じる私たち、血肉の体の死はむしろあこがれ、望むところだ。私たちの帰るところは故郷で天だから。神様と会える、うれしくないはずがない。
しかし同じ天国へ帰るなら、錦を飾って帰りたいものだ。それは世的な成功とか偉大さではない。自分が打ち立てる錦ではなく、ただ「よくやった」と褒めてほしい忠実さの旗なだけ。
だから世での証が乏しく天に帰るのは、これはまずい。終活も良いが、それは混乱しない配慮に過ぎない。天の父に喜ばれることは、可能な限り恥も外聞もなく、福音を述べ証することではないだろうか。語れるほどの信仰が自分にあるかどうかなんて、自己吟味はお終いにして、愛する家族や身内、そのほか大切な人に対して、福音を恐れて言えなかった、なんてことがないように。
福音を語って、相手が信じるかどうかは、宣べ伝える者の能力や、まして責任ではなく、ただ神が働かれることを信じ、委ねましょう。祈りを持って生きている間にする、最大の終活のように思えてきた。
ケパ
「『老いて体が大変になってまで長生きしたくないな』と言った人に、『大丈夫、あんたは長生きしないよ』と言う返事が返って来た。それって慰めになってる?」
聞かれていた人。「なってないでしょ!」。

聞いていて私は、本音では人は皆、「どうあっても生きたい=死にたくない」と思っているわけで、すべては、それが前提なのだと改めて思った。私たち日本人は、死の先にあること、死を超える道を考えようともせず、ただ避け、逃げているのだ。そこで、私は会話に介入し、場違いだったが福音を語った。
実際には私たちは確実に死に向かっている。老化はそれを日々教えてくれるものだ。命があるということは、同時に死に向かっている、それがただ、人によって長いか短いかだけなのだ。

しかし非常に情けないことに、明晰な頭脳と秩序正しい国民性で知られる我が日本国民だけが、永遠のいのちを知らせる福音から遠いことだ。特に年齢を重ね、体の行き先が見え見えになろうが、霊・魂の行く先については、どうしてこうも無関心または、避けまくる国民なのだろうか。口出ししようものなら、「忌み事」のように咎められる。台風や地震への備えはするのに、これは非常に愚かなことだ。天国で日本人にら会うことは、ああ、(現状だけで見るなら)きっとわずかなことなのだろう。
福音を信じる私たち、血肉の体の死はむしろあこがれ、望むところだ。私たちの帰るところは故郷で天だから。神様と会える、うれしくないはずがない。
しかし同じ天国へ帰るなら、錦を飾って帰りたいものだ。それは世的な成功とか偉大さではない。自分が打ち立てる錦ではなく、ただ「よくやった」と褒めてほしい忠実さの旗なだけ。
だから世での証が乏しく天に帰るのは、これはまずい。終活も良いが、それは混乱しない配慮に過ぎない。天の父に喜ばれることは、可能な限り恥も外聞もなく、福音を述べ証することではないだろうか。語れるほどの信仰が自分にあるかどうかなんて、自己吟味はお終いにして、愛する家族や身内、そのほか大切な人に対して、福音を恐れて言えなかった、なんてことがないように。
福音を語って、相手が信じるかどうかは、宣べ伝える者の能力や、まして責任ではなく、ただ神が働かれることを信じ、委ねましょう。祈りを持って生きている間にする、最大の終活のように思えてきた。
ケパ