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ケパとドルカス

『肝心なことは目では見えない』
これは星の王子さまの友達になったきつねの言葉。

聖書を読んでわかる

2018年03月08日 | 聖書
聖書を読めば、気がつくこと、わかることがある。それは聖書の中心人物であるイエス・キリストが、どう考えても尋常ならざる(普通ではない)人物であるということだ。以下は私が求道中だった高校生の頃の話である。(写真は高校生の時にいただいた1949年発売の文語聖書)

例えばマタイ22章19節にみるイエスへのトラップ(ひっかけ)質問である。
「(前略)どう思われるのか言ってください。税金をカイザルに納めることは、律法にかなっていることでしょうか。かなっていないことでしょうか。」
これはパリサイ派とヘロデ党がグルになって、どちらに答えてもイエスが罠にかかる質問をしたシーンである。もし、税金を「カイザル(ローマ皇帝)へ」と言えばローマにくみする者として大衆を離反させることができるし、「 否」と答えるならばただちにローマに反逆者として訴えることができる。このようなトラップ質問には普通答えないのが賢明なのだが、イエスは違った。

(カイザルの肖像が入ったコインを持って来させ、そこで彼らに言われた。「これは、だれの肖像ですか。だれの銘ですか。」彼らは、「カイザルのです」と言った。そこで、イエスは言われた。「カイザルのものはカイザルに返しなさい。そして神のものは神に返しなさい。」と答えたのだ。これにはさすがの悪知恵たちもグーの音さえ出なかった。
この答え、寒気がするほどスパーンと人間の愚かしいずるさを切り裂いた答えだ。こんな答えができるのは人間じゃない、と私は思ったものだ。

マタイ5章にも圧倒された。あらゆる癒しなど、イエスの評判を聞いて集まった大群衆を前にして、初の本格的なメッセージである。
「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるから。柔和な者は幸いです。その人たちは地を受け継ぐから。・・・・中略・・・義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。
わたしのために人々があなたがたをののしり、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなたがたは幸いです。喜びなさい。喜びおどりなさい。天ではあなたがたの報いは大きいから。」

「心の貧しいものは幸い」なんて、だれがそんな発想ができるだろうか。「ああ、なんとかして叶えたい、手に入れたい、豊かになりたい」などと日々いろんなものを欲しがり、望むものなのに(そして手に入れられないと嘆くのに)、心が貧しいこと、それが<幸い>だなんて、どういう発想なんだ! どうしてそんなことが言えるんだ? 見えるものしか見えていなかった私は、イエスの言葉に強烈なパンチを食らった感じだった。

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半世紀前のこんなことを思い出しながら、今思うことは次の金持ちの話である。
ルカ16章に「金持ちとラザロの話」がある。金持ちの門前でおできに苦しみながら、ただ哀れみの施しをもらっていたラザロ。そしてこのラザロも金持ちも共に死んで、金持ちはハデス(地獄のようなところ)で苦しんでいた。それでも親族を思う気持ちはあって、天国のようなアブラハムのふところにいるラザロを、どうか自分の兄弟のところに送って、こんなところに来ないようにしてくださいと願う話がある。すると・・・以下その31節。

「アブラハムは(ハデスにいる金持ちの)彼に言った。『もしモーセと預言者との教えに耳を傾けないのなら、たといだれかが死人の中から生き返っても、彼らは聞き入れはしない。』」

<モーセと預言者との教え>とは聖書のことである。15、6歳の頃の私は、何を教えられたのでもない、ただ聖書に書いてある言葉から、このイエス・キリストという歴史上の人物が、単なる人間ではないことと、それが神であることを知った。逆にまた、聖書を読もうが、福音を聞き、聖書を解き明かされようが、イエス・キリストが神であることがわからない人の方が圧倒的に多い。おそらく、どんなに真理を聞かされても、それを受け取りたくない心があるのだろう。
受け取れる、受け取れないのこの違いを予定説的に受け取れなくもないが、たしかに言えることは、これは「恵み」なのだとわかる。私はただただ、神のあわれみ、恵みを受けただけなのだ。私の力ではない。これを感謝しなくてなんとしようか。



ケパ




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