ケパとドルカス

『肝心なことは目では見えない』
これは星の王子さまの友達になったきつねの言葉。

自分が一番わからない

2017年03月31日 | 随想
むかし昔、今ではお手軽な写真も、カメラとフィルム、撮った後も現像とか焼き付けという手間がかかっていた時代。その時代、録音の方も今よりもっと手間だった。動画に至ってはもう、別世界であった。(写真は当時の録音機)

そんな昔の話で恐縮だが、確か私の中一時代、初めて録音機なる物が我が家にやって来た時の事である。現代ではiPhoneなどでいとも簡単に録るが、その前のカセット、さらにその前のオープンリール式の時代である。テープをセットする操作は難しく、機械は超どでかい物だった。操作していると時々テープが斜めになったり、引っ張りにぶつ切れたり伸びたり、モーター回転数の変化で再生音がふにゃふにゃになったりと、とにかくいつもハラハラドキドキだった(笑)。
(その難物、当時の磁気テープ)

しかしこの録音機なる物が忘れもしない、私の自己嫌悪というか、コンプレックスの始まりだった。つまりトラウマものである。なぜか? 自分の声を知ったからだった。初めて再生音を聴いた時、「これっ、誰〜?」と感じた。言葉は先ほどの自分の言葉を確かに言ってるのだが、声がいつも聴いている自分の声と全然違う!
はっきりしない発音に、語尾がフニャフニャとする癖。「なにニヤけてしゃべってる声なんだ、イヤーだ」と。断固拒否! これは僕の声ではない!と。

とまぁ・・・しかしこれは、どう否定しようにも、次第に受け入れる事しか無い厳然たる事実だった。最近詳しい友に聞くと、私たちは自分の声を耳で聞いているが、骨伝導でも聞いているらしい。だから自分の声が違って聞こえているらしい。

客観的な声でこれだから、実は自分の人格とか特徴などは結構自分が一番分かってないことがある。むしろ自分以外の人の方が良く分かってることが、なんと多いことだろうか。「自分のこと、人が分かってくれない」のではなく、謙虚に人の忠言に耳を傾けること、それが成長する元だ。

また、ありのままの自分を受け入れる受け皿がないとやはり、人の声も耳に入らないし、受け入れることは困難だ。最悪、自分は価値がないと、自殺にまで思い詰める可能性がある。その点、クリスチャンは神に自分を捧げ、明け渡しているはずなので、きちんとそれができていれば、信仰がさらに深められて行くはずである。十字架のキリストの愛によって、取るに足りない我でも、徹頭徹尾、愛され受け入れられているからだ。ここに真の救いがあり信仰の恵みが現される。
(海老川河畔の桜も、少しずつ咲き始めました)

クリスチャンは自殺しない。確かに肉の心死ぬが、代わりに神の霊に満たされ、天への希望に溢れて生きるからだ。hallelujah❗



ケパ








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