ケパとドルカス

『肝心なことは目では見えない』
これは星の王子さまの友達になったきつねの言葉。

あなたは誰に必要とされている?

2017年03月27日 | いやし
性差があるかも知れないが、人が一番危ない状態とは、「もう自分は誰からも必要とされていない」と感じる時ではないだろうか。別な言葉で言えば、喪失感が人間をスポイルするのではないだろうか。
駅前で路上生活者を見るたびに、私はいつもその人たちへの祈りと、神への感謝を覚える。

この日曜日のためにメッセージを準備していて改めて思い出した。五十歳で家庭が崩壊し、ひとりになった時のこと。涙がこれほど私に多くあるのかと驚いたこと。仕方なく実家に戻って、アルツハイマーの母と数年間暮らしたこと。
食事作りなど、母の世話は大変だったが、それでも母が施設に入って居なくなるまでは、気がつかなかったが、頼られているという生き甲斐があった。
しかし母の居ない、ただだだっ広く暗い家になって、私は本格的におかしくなった。どうおかしくなったかと言うと、仕事から帰るとカラオケで憂さを晴らすようになり、そのうちむなしさから使える財を全部使い切って、不道徳な欲望を全部満たしてしまうことばかりを妄想するようになった。言わば自己破壊願望であった。もう誰からも、必要とされない存在だったし、せめてよこしまな愛欲で気をまぎらわし、最後に一花咲かせて散ろう、そんな感じである。自殺はいつでもできると。

確かに仕事ならば、凡庸な私の代わりはいくらでもいる。しかし家族、親は、代わりがいないではないか。失われたこの先の人生に、もはや良いことがあるとは思えなかった。(ペットは、幾分かは埋め合わせになります・・・病院でのコール。助けてと言わんばかりの、情けない顔だ)

結局私は、寸前の所で神の愛を知って守られたのだが、それはずっとずっと求めて、あきらめてしまっていた「神の直接の語りかけ」体験であった。この霊的な体験は、その瞬間から私の人生を百八十度変えた。懐疑的、否定的人間から、肯定的、積極的な全くの別の人間に変えられた。聖書ではこれを新生(born again )と言う。十字架の神の愛と心からの神への愛、これは血肉の死をもっても引く裂くことのできない永遠の絆である。

神がどんなにか私を愛し、待ち続けていてくださっていたことか、どん底にまで落ちて私は初めてわかった。いや、落ちなければわからなかったのだろうと、今は分かる。神はその時を忍耐強く待っておられた。
〈自分が必要とされる〉それを人間に求めるならばむなしい。生ける唯一のキリストの神に求めるなら、それは真であり永遠であると証言する。


ケパ





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