今日、根をつめた一仕事を終え、近くの蚕糸の森公園に気分転換に行った。池があり、鴨たちが泳いでいた。夜のとばりが下りる前、腹ごしらえのチャンスとばかり鴨たちが寄って来たので、つい、蒸しパンをちぎって与えた。その瞬間鴨たちに争いが生じた。
大きな俊敏な鴨たちが数羽、餌を得ようとした小柄な鴨たちを後ろからつつき、追いかけ追い払おうとするのである。で、与える方としてはどう思ったか?むろん、つつかれ逃げる弱く小さな鴨たちに、<何とかして与えたい>、そう思ったのである。
結局一つ一つをコントロールして投げ、80パーセントは達成したと思いながら、瞬間「神様の人への思いも、これと同じ」と気づいた。つまり、力な
く、つつかれては逃げるしかない弱い者、哀れな存在、そこに神の愛は注がれる。ただ主の哀れみを請うしか生きる道がない存在。灰をかぶり主の前に泣き叫ぶ者。その者に主の愛はあふれるばかりに注がれる。
私がそうだったし、今も基本的に変わらない。そのどん底で、主は私に触れてくださった。「恵みとは、受けるに不当な祝福である」とは、よくぞ言ったものだと思う。
†・・・・こういうわけで、神は、人をみこころのままにあわれみ、また人をみこころのままにかたくなにされるのです。・・・・ロマ9:18 (ケパ)