狂歌関連で己斐村で検索して色々調べていたら、江戸時代の土石流についてまとめてある記述を見つけた。
広島安佐南区・八木地区の災害伝説と大正15年(1926)災害
「こうした斜面災害は、藩政時代の記録に「山抜け」(佐伯郡己斐村国郡志書出帳)、「蛇抜け」(佐伯郡古江村国郡志書出帳)、「山津江」(賀茂郡広村弘化二年(1845)御注進控帳)、「山潮(汐)」(三原志稿,巻七(1804)他)、「づゑぬけ」(小方村弘化二年往古過去帳)と記されており、古くから恐れられていました。「山津波」という用語が使われ始めたのは、大正15年(1926)に安芸郡西部で土砂災害が発生してからです(山本村,1922,川口,1933など)。 」
これによると、阿武山山頂の観音様が地上に降ろされたとされる弘化四年(1847)の2年前に賀茂郡広村と佐伯郡小方村で土石流の記述があったようだ。広島県立文書館の広島県史年表(近世2)リンクはpdf の弘化二年の記述の中に、
「この年,洪水,佐伯郡大竹村一帯の被害甚大〔小方・和田家文書〕。 」
とあって、小方村の土石流は弘化二年であったことがわかる。広村については引き続き調べてみたい。
今回書き記しておきたいことは以上なのだけど、どうしてこの年の災害に注目するのかもう一度まとめておこう。
八木の伝承に出てくる蛇落地(じゃらくじ)について、陰徳太平記の大蛇伝説の天文元年、あるいはその前の土石流と関連付けるのは現時点では難しいと書いてきた。その理由を書いておくと、
○元和5年(1619)に八木の地に浄楽寺が開基していて、その後、字上楽寺(1762)そして上楽地へと変わっていく過程に地名としての蛇落地が入り込むのは難しいと考えられる。
○陰徳太平記にはそのものズバリの地名であるはずの蛇落地の記述はなく、執筆者の先祖の香川氏が関ヶ原後に広島を離れてから浄楽寺開基までの十年余りの間に蛇落地が存在した可能性も低そうだ。
○八木の伝承の蛇落地には災害地名として忌み嫌うイメージは入っていなくて、蛇王池のまわりの集落として人が住み続けている。
○蛇の属性は水であり、風水が重視された戦国時代に土石流を蛇を考えたかどうか。また、ヤマタノオロチやアンドロメダのお話では定期的ないけにえ、というところから河川氾濫が神格化されたと考えられた。蛇はまず水害と考えるのが普通で、蛇抜けのような表現はあるが蛇伝説と土石流との関連は慎重に探っていかなければならない。
○太古ならともかく、江戸時代初期に百年前の災害を魔物に変換して記述できるものだろうか。そうした場合、伝承に別の要素が入っていそうなものだが、陰徳太平記の記述を否定する要素を伝承に見出すのは難しい。
○蛇落地というネーミングが中世ぽくなくて、やはり浄楽寺が先にあったと考える方が自然である。(なお、蛇楽地(じゃらくじ)、上楽地(じょうらくじ)、蛇王池(じゃおうじ)など、地も池も「じ」が地元の古い読み方のようだ。)ただし、蛇落池、最初は池を指す言葉だった可能性は残っている。
以上のような理由から、蛇落地は上楽地よりも後に出てきたと考える方が合理的だと思う。そして、「佐東町史」にある、阿武山山頂から麓に降ろされた観音様の名前が「蛇落地観世音菩薩」であることから、「蛇落地」はこの観音様と関係が深いネーミングではないかとも考えられる。そう考えると、弘化四年に観音様が麓に降ろされた時に上楽地をもじって、また大蛇伝説をふまえて蛇落地と名付けられたのかもしれない。観音様が降り立つ山を補陀落という。中世の人々は阿武山の山頂を補陀落と考え、そこに観音様の姿を見たと思われる。山頂が補陀落で降ろした先が蛇落地というネーミングだった可能性もある。現時点では、天文元年よりも弘化四年の方が有力と私は考えている。
ただ、ここで一つ大きな疑問がある。山頂で信仰されてきた観音様をどうして麓に降ろしたのだろうか。邪推すれば、蛇落地はいらん事をしたという皮肉をこめたネーミングのようにも思える。弘化四年に何があったのか。可能性の一つとしては災害だろうか。そういう観点から今回の弘化二年の件を頭に入れておきたい。別に土石流を探す必要はなく、観音様が地上に降ろされたというだけで上記のネーミングは成立するとは思うのだけど、この理由は気になるところだ。冷静に調べていくと、土石流とはすぐには結び付かない。しかし私は、四年前の災害直後に、阿武山の谷筋に土砂がたまって、蛇が落ちてくるという蛇落地そのままの光景を見た。それは実際にこの目で見たものであるから、土石流の三文字をそう簡単に心の中から消すことはできない。
(安佐南区中筋、安佐南区図書館から見た権現山と阿武山)