阿武山(あぶさん)と栗本軒貞国の狂歌とサンフレ昔話

コロナ禍は去りぬいやまだ言ひ合ふを
ホッホッ笑ふアオバズクかも

by小林じゃ

阿武山(あぶさん)を語る(補7) 広島城天守から

2022-03-07 21:25:08 | 阿武山
この阿武山のカテゴリーの8回目で、広島城築城の際に阿武山を四神相応の玄武に設定したという説を紹介した。それで一度広島城の天守閣から阿武山を眺めてみたいと考えていたが、前にも書いた通りそのあたりに行くと中央図書館で時間の許す限りの読書になってしまって中々実現しなかった。

チャンスが訪れたのは去年の十月二十九日、午前中に父が入院していた本川町の広島記念病院で中心静脈栄養の点滴の講習を受けた。父は瘦せすぎたために血管が十二指腸を圧迫して食事がとれなくなっていた。もう長くないことはわかっていたけれど、退院したいという父の希望を叶えるために先生や看護師さんが頑張って下さっていた。コロナで面会禁止だったが、この日は父の病室に入ることを許されて点滴の交換を習った。退院後は再び介護中心の生活になり、自由な時間は少なくなるだろう。そこで、このあと広島城へ行ってみることにした。父は意識がはっきりしない時間もあったけれど、帰り際には手を上げて応えてくれた。次は、退院前カンファレンスで来院する予定だった。

病院を出て紙屋町まで歩いてきたらちょうど正午前、昔よく碁会所に通った千代田生命ビルとは今は言わないのだけど今のビル名は憶えてない、とにかくそのビルの地下街よっちゃんで肉玉うどん食ってから再び地上を歩いて広島城へ。広島城の公園部分に来たのは九年ぶりだ。九年前は早朝に広島ビッグアーチで待機列の場所取りをしたあと、がんで赤十字病院に入院していた友人の見舞いに行くまでの時間調整で広島城の桜を眺めた。なんとなく状況は似ているかもしれない。天守閣に登るとなると、おそらくは小学生の時以来、五十年ぶりではないかと思う。



天守の中は、中学生の団体がいて賑やかだった。途中の展示をゆっくり眺める気分でもなかったが、古文書の類は中学生たちが集まってないこともあって時間をかけて読んだ。私が調べてる狂歌は貞佐を紹介してあった。お目当ての第五層に登って、中学生がいない隙に北側の写真を撮る。






広島城からみて玄武は何かと聞かれたら、まあ阿武山と答えるしかないだろう。他の候補はない。確かに北側中央に阿武山が居座っている。前に書いた時は理解が十分ではなかったけれど、天守の位置を決めるために阿武山が使われた訳ではない。天守の位置が決まった後で、阿武山と天守を結んだラインを延長してデルタ内の道を作ったということのようだ。

以前、基町クレドから眺めた時は、お堀のラインの延長は阿武山山頂から少し東にずれているように見えた。天守から眺めたのでは、そのあたりの事は全然わからない。基町高校校舎の南北のラインはむしろ阿武山山頂をぴったり向いているように見えた。西側の中央公園ではサッカースタジアムの建設予定地から被爆遺構が発掘されたとかで、大きなブルーシートで覆われていた。それが気になって、あとの三神の写真を撮るのを忘れてしまった。また行かないといけない。

実はこの十月二十九日の夜、病院から電話があり、父の血圧が急に下がったからすぐに来てくれとのことで急きょタクシーを呼んで再び病院へ。個室での付き添いを許可されて病室で七泊、八日目の十一月五日の夕刻、父は旅立った。広島デルタから眺める阿武山の姿に父の最後の八日間の思い出が加わった訳だが、小さい頃から眺めてきた阿武山というのは私にとってそういう役回りの山なのだろう。あれから四ヶ月、今日はやっと十月二十九日を振り返ることができた。自分は果たして死ぬ何日前まで阿武山を眺めることができるのか、それはまあ考えても仕方のないことだ。





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