阿武山(あぶさん)と栗本軒貞国の狂歌とサンフレ昔話

コロナ禍は去りぬいやまだ言ひ合ふを
ホッホッ笑ふアオバズクかも

by小林じゃ

権現山毘沙門堂 初寅祭

2020-02-06 11:13:10 | 寺社参拝
今年の初寅は二月五日、緑井の毘沙門さんでは四日五日と初寅祭であった。私も掛け軸の件で調べている七福神参りを兼ねて出かけることにした。好物の出雲そば屋が四日は天満屋緑井店の棚卸で早じまいということで、五日に決めた。昼飯を片づけていつもの12時41分の芸備線でスタート、しかし今日はひと駅だけの乗車で、玖村駅前12時54分毘沙門台行きのバスに乗り換える。高瀬大橋の手前で阿武山の写真を一枚。



 正面一番高い頂が阿武山(あぶさん)、2014年の土砂災害後に完成した砂防ダムが見える。そして峰続きの左の小山がこれから行く毘沙門堂がある権現山(ごんげんやま)だ。タイトルの権現山毘沙門堂は山号であるから、もちろん音読みになる。バスは太田川を渡って旧道に入り、中緑井(JR緑井駅前)では10人ぐらい乗って来た。しかし3年前初寅祭初日に来た時の半分ぐらいで、二日目の午後だからだろうか。

 バスは安佐中の横から坂を上ってアストラムライン毘沙門台駅のそばを通って安古市高校を過ぎた次のバス停、毘沙門台三丁目で下車した。時計をみたら13時半だった。本尊毘沙門天像の開帳は2時間おき、次は14時のはずで、前回来た時は並んで待つ時間が長かった。まず毘沙門堂を目指して、毘沙門天像を参拝したあとにゆっくり七福神を回ろうと思って鐘楼から一気に坂を登ったらラストでばててしまった。ゆっくり七福神をお参りしながら登るべきであった。それに、毘沙門堂の前に着いたら、去年はあった列ができていない。今年は期間中は常時開帳と書いてあって、それなら落ち着いて登ってくれば良かった。それでも中に入ると、14時からの護摩行を待っている人が結構いた。本尊の毘沙門さんは私のデジカメではいつもピンボケである。




この像は伝行基作とのことだが、文化財的な調査は行われているのかどうか、佐東町史にもネットにも出てこないようだ。佐東町史には、安芸武田氏が佐東銀山城築城の際、その北方の鬼門除けに、権現山元成寺跡に建てられたものであるという。ネットには正安元年(1299) と出てくる。するとその頃の作だろうか。

右の厨子にいらっしゃったのは、吉祥天女様だろうか。本堂の中はぎっしり人がいて、自由に歩き回って見る訳にはいかなかった。


左の厨子の聖徳太子みたいな髪の長い童子像は、写真が失敗だった。3年前の写真に左の厨子も遠く写っている写真があった。手前に置かれている像も毘沙門天のようだが、これはレプリカなのか別の像なのか、よくわからない。


(これだけは3年前の写真です)


きょろきょろしているうちに、御朱印の番号を呼ばれた。3人待ちぐらいだっただろうか。頂いた御朱印は、虎とともに毘沙門天の使いといわれるムカデの印が中央に押されている。江戸狂歌で正伝寺毘沙門堂の初寅の歌をみると、百足は驚くほど多数出てくる。これは次の記事で書いてみたい。


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色々と流行っていることでもあり、本堂の中で大勢の人と一緒に護摩行を待つのは息がつまる感じがして一度外へ出た。そしたら中がつかえていることから、前来た時と同じように列ができ始めていた。



ここはまず本堂の近くの弁天様にお参り、あとで参りした七福神の石像にも、なぜか私が愛飲している可部の旭鳳酒造の日本酒がお供えしてあった。七福神の石像は昭和四十年代と縁起を記した石板にあり、それとは別の弁天様、それより古そうに見えたが詳しいことはわからない。





お参りを終えてふり返ると、列がぐんと長くなっている。先に七福神をお参りしてもう一度戻って来ることにして石段に向かった時、護摩行が始まるアナウンスがあり、その前のお話がマイクであるようなので、聞くことにした。それによると、周辺への迷惑駐車が絶えないため、今年は人がたまらないように二時間おきではなく常時開帳とした。とにかく駐車場の確保が難しい。それで、来年からは初寅の直前の土日に初寅祭を行うことにする、とのことだった。時代の流れだろうか、本来の初寅の日の開帳は今年で最後かもしれない。七福神をお参りした後にもう一度お参りしたいと思った。

一度坂を下りて、七福神、といっても毘沙門天以外の六つの石像にお参りした。まずは爺様の掛け軸でどちらか悩んでいる福禄寿と寿老人


(↑福禄寿)



(寿老人)

確かに似ていて持ち物でしか区別できないけれど、頭が強調してあるのは福禄寿だろうか。そして残りの四つの神様、いや、本来この四神の方が人気で福禄寿と寿老人はかなりマイナーなのだけど、今私が悩んでいるのはこの二神なので先に書かせていただいた。


(えびす)


(布袋)


(弁天)


(大黒天)

二葉の里の時と違って、今回は全部お参りできた。締めくくりに、もう一度坂を登って本堂の毘沙門天にお参りした。火を焚く護摩行は一段落していたが、太鼓を叩くお坊さんは残っていて真言が聞こえていた。列ははけていて、落ち着いてお参りすることができた。毘沙門天といえば本来戦いの神様であるが、そのお使いが百足(ムカデ)であることから、お足=お金がたくさんということで、商売人に根強い人気があるとのことだった。私の場合、金運は期待できないとは思いつつ、とにかくお祈りしておいた。移動する時別角度から撮った写真は比較的ピントが合っているけれど、厨子の中は手前の金色のものに隠されて写ってなかった。手前のレプリカかどうかわからない毘沙門天らしき像は左端に写っているが、本堂の中は何がどこにあるのか、祈祷の場でもあり、じろじろ見てまわる訳にもいかない。お祭りでない時に一度来てみたいものだ。




お参りを終えて、帰りは徒歩で緑井駅を目指した。こちらが本来の参道である。長い石段の手前で南の眺望が開けている場所があった。広島デルタから阿武山が見える理由もよくわかる。





徒歩35分ぐらいで緑井駅に着いた。フジ、天満屋方向への歩道橋に上がれば、いつも阿武山を眺めるポイントがある。左の権現山にぽつんと赤い建物がかくれているのが多宝塔ではないかと思うのだけど、定かではない。




最初の高瀬大橋の写真とは角度が違って右の阿武山はとんがって見える。そして、天満屋の一福で好物の出雲そば。ここは舞茸天そばをよく頼むのだけど、帰ったらまたすぐにメシ当番なので、シンプルに割子にした。



3年前は天満屋緑井店が棚卸の半休でお参りを終えて来たら一福は既にオーダーストップとなっていてショックだった。今回はちゃんと調べて、そしたらやはり初寅祭初日が棚卸となっていた。緑井に人が集まる日に百貨店が半休にするのはどうかと思ったけれど、毘沙門堂で聞いた迷惑駐車の話と関係あるのかもしれない。

天満屋一階で食料品の買い物を終えて、帰りは緑井駅からだと可部線で中島経由という手もあるけれど、時刻は16時前、ちょうどフォーブルのコミュニティバスがある。これで安芸矢口駅から芸備線で返ることにした。安佐南区のフォーブルは昔は第一タクシーといって、私が応援しているサンフレッチェのユース、ジュニアユースのスポンサー様でもあり、遠征には運転手が帯同している。3年前と同じように、安佐大橋を渡りたいがどこで降りたらいいか運転手さんに聞いたら、3年前と同じように安佐大橋の近くで降ろすと返答があった。思えばこのコミュニティバスは土日運休で、初寅の帰りに利用できるのは今日が最後ということになる。阿武山を眺めながらバスは緑井から川内地区を進んで、十分ちょっとで安佐大橋に着いた。川内の広島菜はすでに収穫済みで、何も植わっていない畑も多かった。安佐大橋からも阿武山権現山を眺めて、



安芸矢口駅の陸橋も阿武山を眺めるポイント




そして安芸矢口16時41分の芸備線で17時過ぎに帰宅した。鐘楼と本堂を二往復して疲れたけれど、お参りして、阿武山を眺めて、好物の出雲そばも食って、素敵な半日だった。しかし、鐘楼の鐘にムカデが刻まれているのを撮り忘れた。もう一度、お参りしなさいということなのだろう。


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