阿武山(あぶさん)と栗本軒貞国の狂歌とサンフレ昔話

コロナ禍は去りぬいやまだ言ひ合ふを
ホッホッ笑ふアオバズクかも

by小林じゃ

小康状態

2021-04-17 10:30:45 | 父の闘病
(父の入院の話の続き、4月13日のできごとです)

前回から中三日、13日は私が県病院に行くことになった。父がしんどい時にできるだけ行きたいと母は言う。母も85歳であるからあまり無理をしてほしくないのだけれど、コロナの感染者数は広島でも徐々に増加していて、いつまで面会できるかわからない。母の希望をいれて、この三日間は母が二日、弟が一日様子を見に行った。前回私には父は相当弱っているように見えた。ところが母と弟は、そんなことは無い、結構元気だったと言う。兄貴は悲観的過ぎると弟は言い、母と弟は自分の見たいものしか見ていないと私は思う。これはまあ、足して2で割ったぐらいが正しいのかもしれない。

4日前と同じ時間のバスだったが、雨で大学病院入口のあたりから渋滞、次の出汐1丁目でたくさん降りた。歩ける人は大学病院まで歩いた方が早いということだろうか。県病院着は10分以上遅れた。

父は確かに4日前よりは元気そうに見えた。ボードに「食事を半分食べた」と書いた。4日前はちょっと手を付けただけだったから、食べられるようになったと伝えたかったのだろう。チューブから出た胸水も少なくなっていて、本人はもうすぐチューブが抜けて退院できると思っているのかもしれないが、そう簡単にはいかないだろう。いや、母や弟は違うと言うかもしれないが。退屈しているだろうと週刊誌を差し入れたが父はあまり興味を示さず、「タオルがようけ要る」と書いた。わかったと答える。前回は先生の説明、昼食、レントゲン撮影と行事が続いてけっこう長く病室にいたけれど、今日は何もないから15分程度と決まっている面会時間を守りたいと思う。そのことを父にも言って病室を離れた。

デイルームの横の、携帯電話はここでお使いくださいと書かれたボードのところで母に報告していたら、ナースステーションから患者支援のMさんが近づいてくるのが見えて慌てて電話を終わらせる。昨日、ケアマネさんに連絡を取っていただいたようだ。まずは父の食事の話で、家でもたんぱく質が取れないことを話す。父はミンチ料理とか豆腐みたいなものが嫌いで、肉や魚の原型を留めたものを食べていたが、嚙む力も衰えて難しくなってきた。卵料理もあまり好きではないし、処方されている栄養補助飲料にもたんぱく質は入っていない(入ったものは甘くて飲めないと父が嫌がった)。納豆は少し食べる。Mさんからは、今はたんぱく質の入った補助剤も出ている事、豆乳をうまく使う事などを提案してもらった。Mさんは母が胃ろうを嫌がっていることを覚えていた。あるいはMさんがいつも持ち歩いているノートPCにメモが残っていたのかもしれない。母の主張は多分にデマを含んでいると考えられるのでここには書けないが、とにかく胃ろうはいけないと2年前Mさんにも力説したようだ。

次に、前回相談した足が弱っていることについて。チューブがとれるまでベッドを離れられない状態だから、退院時には歩けなくなっていることも十分考えられる。転院してリハビリして帰ったらどうかという提案だった。2年前の転院には良い思い出が無いので父は嫌がるだろうと言っておいた。しかし、この時点でこういう話を聞けたのはありがたいことで、楽観論の母や弟にも頭の片隅に入れておいてほしい事だった。実際、10日後にはこの方向で動き出すことになる。

それから、ケアマネさんから父がまだ運転して通院していることを聞いて、Mさん「運転するなって言ったのに」と怒っていた。首を傾けて「運転」の二文字を忌まわしいことのように低いトーンで区切って言ってプンプン怒っている様子もまた素敵で・・・いや、これは私が言っても聞かないから、2年前の退院の日に私がMさんに頼んで運転しないように言ってもらったのだった。良い作戦だと思ったのだが、父は私のようにMさんにメロメロではないから効き目がなかった。父が退院してから2年の間にも大勢の患者さんを担当されてきたはずだが、他にこんなことを頼む人はいないのかMさんはっきりと覚えていた。それで私のことも覚えていて下さったのだから、あながち作戦失敗とはいえない。

またお話を聞いてもらったことのお礼をMさんに言って、「いいえ」と抑揚をつけた返事にまたドキドキしながら外へ出ると小雨模様。前回は苦しそうな父の様子にどんよりしながら帰ったのだけど、今日は父も少し元気そうだったし順番が病室のあとでMさんだったから気分が違う。雨だと花粉フリーでもあるし、図書館まで歩くことにした。途中、附属学校電停近くのつけ麺屋で昼食にした。病院に行くバスから眺めて気になっていたお店だ。広島つけ麺というのは私が子供の頃には無かったもので、実は一度も食べたことがなく、つけ麺というとハウスのつけ麺(袋ラーメン)しか知らない。一度食べてみることにした。小さなアクリル板で仕切られたカウンターに座って、定番つけ麺というのを頼んだ。辛さを選べと言われたが、見当がつかない。最初なら4にしときますかと店員さんに言われて、30段階の4番目、あまり辛くない方を選んだ。





正直にいえば、あまり旨味を感じなかった。もっと辛くするか、カツオつけ麺というのがあったからそちらにした方が良かったのか、ベストの選択ではなかったようだ。再チャレンジするかどうかは、気が向いたら、ということにしておこう。

そのあと歩いて御幸橋を渡る。お天気は悪いけれど、河口方向を一枚。




渡り切ったところにある原爆の説明板にあったのは教科書などで何度も見たことがある広島市民にはおなじみの写真だ。




県立図書館では閲覧室での滞在時間を短くするようにとの注意書きがあり、素早く一冊借りて帰った。これについては別の記事に書いてみたい。そのあと広電本社前電停から横川経由で帰宅した。

この日まで父は順調に回復しているように見えたのだけど、翌14日の朝、主治医である呼吸器内科の先生から電話があり、13日夕刻から38℃の熱が出て採血したら炎症の値が高く、抗生剤を点滴投与しているという。また、胸水を検査に出したところ、まだ確定ではないが癌細胞らしきものが見つかったとのことで、ついては造影剤CT検査をしたいから同意書にサインしてほしいと。先生は、父とは意思疎通がしにくいとおっしゃる。父は耳が遠くて声も出ないから、確かに会話には時間がかかる。しかしまだ判断力を無くしてはいないから時間をかければできると思うのだけど、今コロナ病棟のある病院の呼吸器の先生は大変だから、これは仕方ないのだろう。バイタル的には落ち着いていると言われたが、高熱はしばらく続いて、家族の緊張は再び高まった。13日まで、つかの間の小康状態であった。




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