阿武山(あぶさん)と栗本軒貞国の狂歌とサンフレ昔話

コロナ禍は去りぬいやまだ言ひ合ふを
ホッホッ笑ふアオバズクかも

by小林じゃ

阿武山(あぶさん)を語る(2) 巨象をも呑む

2018-08-14 19:23:58 | 阿武山

 前の回で書いたように、高陽地区の北側から見る阿武山は台形をしていて、よく見ると南側に三つのこぶがあり深川や中島あたりから見ると二つ目が高いようにも見える。ところが実際は一番南側が山頂で二つ目よりも約二十メートル高くなっている。高陽地区でも少し南側からみるとそれがよくわかる。

(安佐北区落合南、高陽東高校グランドから見た阿武山)

 

 この写真のように高陽地区でも少し南から見た阿武山は象の形に似ている。山頂が象の頭で鼻が権現山、そして背中が可部方向へ伸びている。まあこれは想像力の乏しい私でもそう思うのだから、ありふれた連想だろう。

 と前置きが終わったところで、そろそろ本題ともいえる陰徳太平記の大蛇退治の冒頭部分を引用してみよう。

「香川勝雄(カチヲ)、大蛇ヲ斬ル事」
天文元年ノ春、芸州佐藤郡八木村ノ内、阿生(ブ)山ノ中迫(サコ)ト云フ處ニ大蛇顕レテ往来ヲ悩乱ス、其形状ヲ聞クニ其大サ巨象ヲモ呑ムベク、其長サ崑崙(コンロン)ヲモ繞(メグリ)八丘八谷之間蔓延(はびこ)ル

国立国会図書館デジタルコレクションより

 ここで目を引くのは大蛇退治といえばヤマタノオロチのような太古の昔のお話かと思っていたら天文元年の春という設定、この陰徳太平記の執筆時期からせいぜい百年前のお話ということになる。実は天文元年は七月二十九日から始まっていて1532年の春は享禄五年だ。これは単なるミスなのか、あるいはフィクションですよと暗に告白しているのか、普通○○元年とあれば改元の月日は気になるのではないかと思うのだが。そして「往来を悩乱す」という素敵な表現に続いて問題の箇所、「その大きさ巨象をも呑むべく」とある。象を飲み込んだ蛇でピンと来るのはやはり星の王子様の冒頭の絵だろうか。これも洋の東西を問わず、と言わなくてもありふれた表現なのかもしれない。しかしここまでを頭に入れた上で改めて高陽東高校からの写真を見ると、権現山が蛇の頭に見えてくるから不思議だ。星の王子様の絵は左端にポチっと蛇の目が描いてあった記憶があるがこっちはしっかり頭がある。いやそれはどうでもいいことで問題は陰徳太平記の著者はこの阿武山の姿を頭に入れて巨象を呑むと表現したのかどうか。大きさが巨象を呑む程で長さが崑崙をめぐる程というのはあまり上手な対句とも思えない。なのにこういう表現になったということは私は阿武山の姿の意識があったのではないかと思うのだけど、陰徳太平記を著わした宣阿とその原典の陰徳記を書いた父の香川正矩ともに八木城主香川氏の子孫ながら岩国領で生まれていてこの姿の阿武山を見たかどうかは定かではない。

何かくだらない話になってしまった。次回から少しややこしい話になるので、今回はウォーミングアップということでご理解いただきたい。



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