buriのフリーランスな日々 

東京武蔵野、赤松や桜、ドングリの木々に囲まれて育ち、原宿で青春をすごした後、中国と深く関わったburiのメモブログ

ピットマン先生の見た明治の東京1

2011年06月12日 | 歴史の中の1ページ


明治時代に日本にやってきた宣教師、そして建築家であった
ジェームズ・マクドナルド・ガードナー(あるいはガーディナー)は素敵な家族に支えられて、
たくさんの教会堂や地震にも耐え得る建物を設計しました。

これは以前のブログの記事からですが

>>1880年(明治15年)に東京築地の外国人居留地にやってきたガードナーは23歳。
すぐに立教学校(立教大学の前身)に校長として赴任します。
23歳の若きガードナーは教育者として立教学校を経営しましたが、同時に建築家としての意欲も高かったのだと思います。
1891年立教大学校を退任し、建築家として本格的に仕事を始め、洋風建築の建物を作っています。
1894(明治27年)年6月20日の明治東京地震でガードナーが設計した立教学校校舎などの建物が被害を受けました。
その後、ガードナーは建物の耐震性も考慮した設計を行うようになったといわれています。

さてそのガードナーの奥さんについての貴重な文献を立教女学院のA先生よりいただきました。

奥さんの名前はピットマン先生。
アメリカンチャーチから東京に派遣された最初の女性の宣教師でした。
実はご主人のガードナー宣教師より3年早い1877年に来日しました。

ピットマン先生は、当時築地にあった立教女学院で教職に就きます。
まだ23歳の若い女性です。
当時、アメリカからアジアの果ての日本に23歳の女性がひとりでやってくる、とは
どれくらいの決断と勇気のいることだったでしょうか。

1878年1月12日のミス・ピットマンの手紙にはこのような記述があります。

「私の今の環境は、私の予想よりはるかに勝るものでした。というのは私は個人的な楽しみを
たくさんとったり、ありとあらゆる方面で、こんなにも心地よく過ごせるとは全く期待して
いなかったからです。
ブランシェ夫人もクーパー夫人もまるで姉妹のように親切で優しくしてくださります。
私たちのよき主教も大変親切で、私はすでに横浜でも東京でもたくさんの友人をミッショナリーや
外国人の中から作ることができました。
私は日本が予期していた以上に美しいとわかったし、
前々から日本の人たちを好きにならねばと思っていましたが、
そんな義務感以上に日本人を好きになりました。
それやこれやで、異国にあっても私は非常に有益で、また幸せに満ち足りた生活が
送れるのではないかと期待しています。』

ミス・ピットマンの立教女学院での教員生活は友人に恵まれ、励まされて
とても充実していたようですね。

1882年、ガードナー宣教師とピットマン先生は東京芝の聖アンデレ教会で
C・M・ウイリアムズ主教の司式で結婚しました。
ふたりはどのような経緯で結婚したのでしょうか、、、。

これはもう少し、A先生に提供していただいた資料を読んでから、書いてみようかな~、と思っています。




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<出典>
「立教女学院100年史」より

写真はピットマン先生が校長をした立教女学院(現在)の礼拝堂














ちょこっと海

2011年06月12日 | 旅のお話



海を見に行きました。
もともと東京湾に近いところに住んでいるのですが、伊豆の海もそう遠くはありません。
電車で2時間半ほどで熱海や伊東に着きます。

写真はあいにくの雨の熱海。
海を見ていると、何となく地球は丸い、ということがわかります。

そして、下の写真は伊東の松川遊歩道。



明治の詩人、画家、そして医学者であった木下杢太郎の作品が遊歩道沿いに紹介されていました。



おいしい夕飯もいただき、温泉に入り、ちょっとだけリフレッシュして
普通電車に乗って、戻ってきました。









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