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文屋

文にまつわるお話。詩・小説・エッセイ・俳句・コピーライティングまで。そして音楽や映画のことも。京都から発信。

●小声の悲嘆と大声の欲情、あるいはその逆。詩は生の揺動=GROOVEなんだよね

2005年03月14日 00時40分15秒 | 

GROOVEは、ある種の霊性だろうね。
単に、大小の波ではなくて、
小声の悲嘆と、大声の欲情が、ひとつの器や壷の中で
どぼんどぶんと揺れること。
大好きな、ソニックユースのGOOってアルバムの
そこにあるのは、音というフィジカルなものの揺れではなくて、
奏する者の器と聞く者の器が
揺れながら共振する揺れだろうね。
けっして自覚的でもなく覚醒した時間でもない。
眠りの過程であるかもしれない。
詩における、GROOVEを考えた時、
はじめて他のあらゆる芸術との本質的な同一性が確認される。
詩もまた、なにもかも、器と器が惑いのうちに錯誤のうちに
酔いながら感応して揺れるのだとしたら
そこにこそ表現すること、芸術の快楽が存する。
それなくて、どうして人は表現などするものか。
なんだか、これは
生=死
性=詩
の揺動みたいに言えるけれど、
そうでしょ。

          つづく



自宅に、VAIO持って帰ったので
休日でも更新できるようになった。

仕事するつもりだったが、なにやってんだか。

■成る詩は、ナルシス。する詩は、大波から真空を突き抜ける。

2005年03月12日 19時04分41秒 | 

「写真と詩のこと」のつづきです。

下の「來」さんのコメントに答えたコメントを少しだけ詳しく
つらつらと書きます。




音楽は、技術かというとフィジカルな意味では技術ですね。
大きい音とか、きれいな音とか。
楽譜に正確に合致させるとか。
メタフィジカルな意味では、技術ではないですね。
「ソウルフル」なんていうと。
また、技術ではない技術、メタフィジカルな技術が発生します。

たとえば、チャーリー・パーカーのアルトサックスの特長
というので、ある人が言ったのですが
「とにかく音が大きかった」と。
そんなものは、ライブのその場にいなければわからないことなんだけど
再生装置を通しても、パーカーの欲情みたいなものが
はみだしたときの「軋み」みたいなものは、やはりでかい。

小音と、超音みたいなものが感じられて
なんだか遠くのラジオから、細々と洩れ聞こえてきても
ああ、パーカーだとわかる。

これは、超音が出せるから小音に惹かれて、それも聞こえる
というものだけど

このことは、すぐれた歌手にも言えることで
美空ひばりやニーナ・シモン、中島みゆきなんかも
この波は激しい。

で、これは、技術でもあるけれど
フィジカルなテクニックといえばそうなのだけど
波は、技術ではだせない。

技術を超えないと。それから、表現の意図や理由も超えないと。

で、フィジカルな技術は別にした試みもある。

ブライアン・イーノやギャビン・ブライヤーズたちが組織した「ポーツマス・シンフォニア」では
いままで楽器にさわったこともない人たちを集めて楽団を
つくったりしていましたね。

これは、単なる問題提起の試みでしょうけども、

音楽や芸術の、根っこにあるのは
技術でありながらも、けっして、技術で
表現が済むということはないでしょうね。


写真でも、いままでカメラさわったことない人でも
2、3カ月でも写真撮りまくれば
フィジカルではない
メタフィジカルな技術に目覚めます。

詩でもそうです。書きまくれば、
隠喩法や倒置法や、
言葉の省略や屈曲、配置などのテクネー(フィジカル)
に慣れ、ある「超越的な何か」「光のようなもの」
を発見します。

これが『ポエジー=詩』なのですね。

昔、詩の賞で「歴程賞」だったかな「地球賞」だったか
冒険家の植村直己に与えられたことがありました。

彼は、「危ないところを歩き回った」人ではないですね。

「超越的な光の中を突き進んだ」人だったのです。


松尾芭蕉だったか、「俳句に成るとする」があると言っていたと
思うのですが、

詩だって、写真だって、「成る」ことなんてついぞないと思う。

あるのは、「する」だけですね。





成る詩は、ただナルシスに根差しているだけなのよ。(しゃれか!)

★詩は、世の中に必要か 2 レーモン・クノーならば必要

2005年03月02日 20時17分35秒 | 
言葉遊びって駄目なのだろうか。
詩人が、言葉を使って遊んじゃ。
現代美術の、たとえば、村上隆なんかは、もう、美術を遊んでるでしょ。
あれは、いいわけか。
詩においては、ライトバースなんていうのがあったけど
あんなものは、ひとつも面白くない。
要するに、誰にでもわかる軽い冗談みたいなもので、
それが、詩の何かの本質をついているなんて誤解している。
ただ、軽薄であるだけだのに。
そうじゃないというんだったらそうじゃない面白軽い詩があるなら読みたい。
一時期の建畠晢などは、アブストラクトの低空飛行すれすれでスリリングだったけど。
ぼくは、いま言ってる、理想的なポップって、
やっぱ、レーモン・クノーなんだよね。
「文体練習」のあの過激なシステム詩。
それから、執拗で、うんざりするぐらいやるでしょ。
あれぐらいやらないと、面白くない。
面白いかどうかって、声あげるか、笑えるかなんだ。
ぼくは、アバンギャルドの本質って
滑稽だとずっと思ってきている。
滑稽でなくて、深刻になったりして、何が前衛か
といつも思ってきた。
「詩は、世の中に必要か」と問うたときに、
面白くない詩は、必要ないし
面白い詩は、やはり必要だと思う。
面白い詩は、マーケティング的にも成功すると思う。
レーモン・クノーなんて、うけないのは、
いろんなセクションの大きな責任だと思う。

■「ただ、詩を書いたひと」なんだろうな。幸せだったんだろうな。

2005年02月22日 20時04分01秒 | 
「伊東静雄論5」、16枚。
編集工房ノアに送る。
なんだかずっと、他のことは何もできなかったから、解放された気分。
他のこと、いっぱい想像力がひろがってもいいんだけど
結局は、「一杯やりたい」とおきまりの欲望が目覚める。

伊東の詩は、保田与重郎や萩原朔太郎などに手放しで激賞されていたわけだけど
その評価の仕方が、とっても前時代的だった。
伊東の中にも、自我を超越したようなメタな部分があって、
透徹した自我から透徹した自我まで、ぐるりと一周してくる過程で
まるで、痕跡を残すように
作品が記された。

これは、モダニズムの継承から始まった、戦後詩の
ある種の混濁した倒覚(倒立)と質としては同じなんだと思った。

朔太郎は、察知はしていたが、伊東の倒覚からははぐれていた。

じゃあ、透徹した自己などというものを
詩を書く者として、肯定するか、否定するか、まだそこがはっきりしない。

昔、大阪まではるばる訪ねてきた三島由紀夫を「凡人」とだけ
評した伊東。

出版記念会で東京へ出て、歴々の人々と飲み
結局は、中原中也の家に一宿一飯の恩義をさずかった。
でも、その夜のことは、日記などでもあまり書かれていない。

多分、よっぽど荒々しい一夜だったろうな。

それとも、ひとこともしゃべらなかったか。

伊東は、「ただ、詩を書いた人」なんだろうな。
美しい、そして激烈な。

それだけなのかもしれない。

幸福なことだと思う。

★伊東静雄論を書くこと、考えることの悲しさ特急

2005年02月19日 00時15分56秒 | 
朝からずっと、思い悩んで
「伊東静雄論」を書きつづける。
いまは、もう、12時をすぎてしまった。
いろんな文献を読むが、どの論も結局は、「伊東の詩はわからない」
と言っているようだ。

むしろ萩原朔太郎の「べた褒め」の賛辞が妙な信憑性があり
暢気ではあるが、よほど伊東の本質をついているように思えてきた。

もう、何時間、書いているのだろう。

「自我のウロボロス」。
ぽっかり浮かんだ、贋の陣地から贋の自然観照をへて
ふたたび、ぽっかり浮かんだ、贋の陣地に円還してくることの
空しさ、悲しさ。

伊東の本質って、探れば探るほどに悲しさが増してくる。

子規について書かれた、彼の卒論の
宙に浮いた論が、実は、ほんとの彼のようで

ぼくの頭も、ぽっかり贋におぼろ。
しんどいよー。

◆詩は、世の中に必要か

2005年02月16日 14時56分24秒 | 
現代詩のことを書く。現代詩のことは時々考える。
「詩」のこととは、まったく違った次元で。
先日、聞いた話。新しく詩集を出した人が、京都の書店に自分の詩集を持ち込んだら
即座に、納品を断られた。「現代詩ねえ」「売れないでしょ」「そもそもいまの世の中『現代詩』
必要ないでしょ」と言われたそうだ。京都でも全国的にも、詩歌の分野をしっかりおいている
この書店ですらこうなのだ。しかもその詩集は、詩書出版では日本を代表するような版元なのに。
彼女は、賞もとっている詩人。
いろいろ複雑な状況だろうけども、ぼくは、仕方がないとしか思えない。
店主の言うことは、どれも否定することはできない。
たとえば、韓国などでは、詩集は小説なんかよりもメジャーだ。
売り上げベスト10なんかやってると、先端の詩集が幾冊か入っている。
教保書店などソウルの大きな書店へ行けば、詩集コーナーには若い人がいっぱいいて、
書棚の詩集から気に入った詩句を書き写している光景にお目にかかる。
それはどうしてかというと、韓国では、手紙を書くときに
詩の一節をよく引用するからだとか。
それから、韓国では、詩の朗読が普通の文化として浸透している。前にソウルへ行ったとき、
「この人は、正月の朗読コンクールで優勝した人です」などと、紹介する。
すると、その店で、普通に朗読を始める。
もっと詳しく事情を聞けば、昔から韓国では、「時調」
という風習があって、各家々では、「詩ぐらい朗々と詠めないでどうすんだ」というような
ならわしがあったという。一種の生活文化の中のスタンダードだったのです。
もうひとつ、政治的に不安定で、教養の吸収や怒りや不安の平準的な感覚を「詩」という世評的な
テキストに求めざるを得なかったのでしょう。
民族の怒りや悲しみも、詩が吸収していたりしていたのだと
思う。やりきれなさの鏡として。
さて、日本では、「そもそもいまの世の中『現代詩』必要ないでしょ」ですから。
ぼくは、まったくそう思う。少なくとも本屋の嘆きとしては、十分理解できる。
たとえば自分が「悲惨」だとしよう。悲惨を書いた詩集ができあがる。それが、状況的な悲惨
なのか、詩集を書いた人だけの悲惨なのか考えてみよう。書いた人だけの悲惨ならば
この世の中、悲惨だらけである。悲惨の度合いなんて別だけど。ところが、国情の違いなどに
よっては、世情を象徴するような悲惨が詩集としてしるされて出版されることがある。
悲惨な国の悲惨な人の悲惨な言葉。悲惨な国のベストセラーになるだろう。
ところが、いまに日本で、それでも詩が
「その国の時代の気分」みたいなものの象徴だとしたら、もちろん詩集にとっては、とても
暢気なスタンスなのだが、それでも詩集が日々出版されるのだから暢気な詩集もある。
そう考えると、悲惨というテーマは、いまの日本では個的にならざるをえない。世情の象徴などと
言い出すと、その創作の回路は、どうしても散文的か小説的にならざるをえない。
それでも詩がなりたつのは、たとえば、かわいさやクールさや、慰められるとか、癒されるとか
ちょっとだけポジティブな空気がありさえすればことたりる。
本屋に並んでいる詩集を思い起こしてみよう。そんなのばっかりでしょ。
相田みつおや銀色夏生や谷川俊太郎なども含めて。それから
近代詩人たちは、ただ近代の空気の象徴だったりもするわけで。
しかし、この日本でも、とっても不条理で理不尽で、さっぱりわけのわからい不安や
死んでしまいたいほどの嫌なことや狂うほどのおかしな空気だってある。個的ではなくね。公的に。
「まったくひとつも面白くない日本」とか。
そうしたときに、詩が言葉の前衛、あるいは言葉の冒険としてとらえられなくもない。
だからほんとうは、いまの現代詩は、もっともっと、素っ頓狂な前衛が実は求められている
ような気がする。言葉の冒険家が。
もちろん、そのときに、流通も含めた、関与者すべてに素っ頓狂な前衛が求められる。
旧態の方法ならば、くだんの書店の店主の嘆きにただ同調してしまうだけ。
自分がこんなに前衛で、孤絶の先端で瀕死なのに、流通は、いまだに
「売れる本」しか「売れない」と考えている。
ちょっと待ってよ。「売れないもの」を「売るようにする」。それも書店の勤めだろ。
文化の前衛なんて、はなから「売れている」わけがない。
「売れる」ようにするためには、血汗にじむプロデュースやプロモートがあってはじめて
真っ当なんだろと叫びたい。
そんな状況なのに、書き手が「売れる詩」を「売りたい本屋」のニーズに添ってたらおじゃんである。
「売れない前衛」だけど「前衛の意気」を「売れ!」と説く以外に方法はない。





-------------------たぶんつづく

■薄めの孤絶。アメリカンな詠嘆

2005年02月11日 18時00分38秒 | 
客が来ていて、詩の話になった。
客は、大学の先生もしている。
それで、最近の学生の書く論文というのは、論理の中にも
ごくごく個人的な詠嘆的なセンチメントが入り交じっているという。

孤絶。

孤絶を、根城にしているが、その孤絶は、いつか、他者に伝えようとする
性質の孤絶で、孤絶に詠嘆や嘆息が交じる。

「いつかだれかにわかってもらえる」というような。

ネットという性質にもこれはある。

甘い孤絶。

なぜかというと、ある世代にとっては、ほんとうの孤絶を知らないままに
大人になってしまうのですね。

寂しいのに、「寂しさ」を知らない。

孤絶していないにもかかわらず、ただディスコミュニケーションであることが
孤絶であると解釈してしまう。
「わがまま気まま」が、孤絶の正体だと、とりあえずは納得する。
その辺の感覚ならば、ちらちらと詩みたいなものを書けば
だれかには、共感が得られる。

いまのJ−POPの詞が近代詩みたい、という感じ方の背景には
そこんとこがあるんだけど
実は、この「はびこり」は、滅茶苦茶、頑固で重層的。

だれかにぶつかったり、だれかに絶望したり
どうしょうもない孤絶という体験がないまま

むしろいつも「コドクでひとりぼっち」だったことの
日常的居直りが、薄いセンチメンタルな感慨を生む。




          -----------ときどきつづく


●センチメントを抱きしめる

2005年02月09日 18時45分44秒 | 
だから井上陽水には、センチメントがない。
詞にはない。しかしそれがなければ大衆の“海”に流れこまない。
で、どうするかというと、歌唱でセンチメントを強調する。
身をよじるように、喉をしぼるように。
ジム・モリソンやジョニー・ロットンにはそんなのは
全然ない。淡々と読む。
センチメントよりも外に吐かれる感じ。

センチメントとは、なにかというと
「我が身」への慈しみだろうね。自分で自分を抱きしめるような。
この我が身を抱きしめる、センチメントな言葉は、孤絶に向かっているかというと
どっこいまったく逆で、
「孤絶です」。というメッセージをひたすら、共感の“海”に向かって
投げ出される。

詞や詩の大衆性とは、実は、単純にこのことだけかもしれない。

孤絶ならば、それは、徹底して、トートロジックに孤絶の螺旋だし
他人にわかるわけがない。

この「他人にわかるわけがない」“意志”は、実は少数だが他人にわかる。

あるいは、その意志の水流の音は聞こえる。匂いはかげる。

というのは、意志は、作品の渦や謎から気流のようにたちのぼるのだから。

そこに、現代詩がある。
近代詩との違いというべきか。


       ------------------つづくだろう

★書く詩と演る詩

2005年02月08日 18時55分06秒 | 
現代詩は歌にならないということは、自由詩が非定型だからだと思う。
リズムに合わない。旋律を意識しないということがある。
現代詩を書く者は、たとえばリフレインなどを嫌う。
そもそも歌になることで、大衆化をめざすわけだから
あまりに朧気なテーマならば、大衆の心情すらつかめない。
そもそもつかもうともしない。むしろ、マイナーをめざしたりする。
旋律をあまり意識しない、リズムだけで語る
リーディングのような音楽もある。
ルー・リードやジョニー・ロットン、ジム・モリソンなどは
ロックと詩の境界で、いくつかの作品を残している。
ボブ・ディランなども少しだけ近しい。
一時期の井上陽水の、たとえば
「氷の世界」「傘がない」などは、現代詩に近いような
言葉の屈折があった。その屈折自体は、マイナーなんだけど
内容は、大衆の心情にも親近感があった。
それは、心情というよりも身体的な感受の真実味みたいなもの。
「痛い」とか「惨め」とか、「うるさい」とか。
そういうものであれば、マイナーな屈折語法であっても
「わかるわかる」というレベルで大衆に浸透した。
リーディングといういまの詩の現象も、多くはこの
「わかるわかる」という身体的な親近感で、うけたりするけれど
本質的に詩がうけたわけでもなんでもない。
だからパフォーマティブな側面だけが浮き出される。
そこは、なんだか、書かれた詩と、演られた詩は違う。
しかしね、ジム・モリソンのリーディングは、いい。
そんなこんなをもう少し考えたい。

             -----------つづかせようかな

伊東の卒論を「進々堂」で読む

2005年01月30日 19時18分08秒 | 
「私設図書館」へ行こうかと思ったけど、京大前の「進々堂」へ。
なにしろオープンして74年たつという。
椅子と机がいい。その昔、まだ学生だった黒田辰秋(人間国宝)の作。
座り心地というか、永居心地がいい。
書き物をしていても目立たないぐらいに書いている人が多い。

伊東静雄の卒論「子規の俳論」を読む。
同時に伊東の先生だった、潁原退蔵の「芭蕉俳諧と近代芸術」
も併せて読む。

だんだんと伊東の本質が見えてきた。
綿密にメモをしながら読むが、論自体はほとんどすすまず。

メモに「彼岸・他岸」の詩と確かに記す。

己を消して、ただ他岸のみを茫洋する
そのことは、戦中の状況的なものであったのか、
伊東の強いられたものなのか、まだ考えなくてはいけない。

帰りに、ゴルフのスイング。