海鳴記

歴史一般

大河平事件再考・補遺(3)

2010-09-29 08:12:58 | 歴史
 私は、隆芳の必死の嘆願で650へクタールという広大な山林原野を所有し、その跡を継いでいた隆正が、10万円で処分したこともすでに述べた。そして、当時、鹿児島でも有数の金満家になった。つまり、鹿児島の名士になったのである。だから、そういう地位から松方夫妻と出会い、事件の話をしたのではないか、と考えたことがある。
 だが今回、この大河平家の系図を見て、そういうこととは関係がなかったことがわかったのである。

 では、話を先に進めよう。15代大河平家当主である隆芳は、14代隆政の長男だったが、隆芳の上に愛(子)という長女がいた。二人は、同じ父母の子供である。 
 この愛(子)は、城下士の川上助七郎親賢の元に嫁いだ。そして、最初に生まれた娘が、松方正義の妻となったのである。名前は、系図上では、満佐子になっているが、献灯碑には政子とある。
 徳富蘇峰の『公爵松方正義傳』(昭和10年刊)によると、本名は「政子」で、維新後、「満佐子」を通称としたらしい。ただ、同音なので、併用したのではないか、と蘇峰は推測している。
 さて、なるほど、松方の妻の母親が大河平家の出だとすれば、のちに悲惨な事件の話を耳にして、碑を造ったとも考えられるが、微妙なところもある。というのは、それなりの弔慰金を送れば、済みそうな気もするからである。わざわざ碑まで造らなくとも礼を失するというところまではいくまい。だが、これだけの関係ではなかった。

 ここで、少し川上親賢と松方正義の関係を述べておこう。蘇峰の『公爵松方正義傳』にやや詳しく書かれているが、松方正義と川上親賢との関係や親賢の人となりを知ってもらう意味合いで、ここにその一部を紹介しよう。
 親賢は、初め物奉行を勤め、それから船奉行なども歴任した人物で、それなりの家格もあった。「小番」格の大河平家が嫁に出したのだから、そのあたりだろうか。また、忠実清廉、古武士の典型をもって称せられた、という。一方の松方家は、もともとは谷山郷士で、父親の代で松方七左衛門の名跡を継ぎ城下士になっている。家格ははっきりしないものの、川上家より下位だったようだ。 
 さらに、正義が11歳のときに母親が亡くなり、また父正恭も親戚の借金の肩代わりなどをして災難に遭い、正義が13歳のとき亡くなっている。その後、一家は貧窮のどん底に陥った。しかし、親賢は、松方家と同じ下荒田(しもあらた)郷中で、子供時代から正義の将来性を見込んでいたらしく、嗣子でもなく、また正義がまだ家も興していない万延元年(1860)、長女政子を嫁入りさせたのである。


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